『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第10章「噂の火種(前妻の手紙)」

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雨が降り始めた午後、
公爵邸の北棟はしんと静まり返っていた。

シャルロットは自室の窓辺に立ち、
庭に落ちる雨筋をぼんやりと眺めていた。

(……“影”なんて呼ばれていても、
 わたくしは……平気なふりをするしかない)

心は泣いているのに、
涙は落とせなかった。

すると、扉を叩く音がした。

「奥さま、郵便が一通……屋敷宛に届いております」

シャルロットは振り返った。

「わたくし宛て、ですか?」

「いえ……公爵さま宛てですが、
 “奥さまにお渡しください”と書かれております」

妙な指示。
胸がざわめく。

封筒は薄いクリーム色で、
古い香水の匂いがわずかに残っていた。

封を切る手が震える。

中には、一枚の手紙。

そして──
花弁の押し花。

白百合。

エリザベラがもっとも愛した花。

胸が凍る。

手紙には、
優雅な筆致でこう書かれていた。

「あなたの夫が愛したのは
  ただひとり、私だけ。
 どうか“影の夫人”として
  静かにその席を守っていてね──エリザベラ」

シャルロットは息を呑んだ。

紙が手の中で震える。

(……エリザベラ様からの……手紙?
 でも……亡くなったはずの……)

信じたくない。
しかし押し花の香水も筆跡も、
噂通りの“前妻”そのままだった。

胸が壊れそうだった。

「どうした?」

背後から静かな声がした。

振り向くと、カルロスが立っていた。
雨に濡れた黒いコートを脱ぎながら、
疲れた表情をしている。

シャルロットは、
手紙を隠すように握りしめた。

だがカルロスの視線は鋭く、それを見逃さなかった。

「……何を持っている?」

「い、いえ……ただの……」

「シャルロット」

静かな声に呼ばれ、
シャルロットは震える手で手紙を差し出した。

カルロスはそれを見た瞬間、
明らかに表情が変わった。

驚き、恐れ、怒り。
そして、深い苦悩。

「……誰が、……誰がこれを渡した?」

「郵便だと……侍女が……」

カルロスは紙をぐしゃ、と握りつぶした。

こんな感情的な仕草を見るのは初めてだった。

「これは……捨てろ」

「え……?」

「いますぐだ。
 こんなもの、見る必要はない」

声が震えている。

シャルロットは、胸がひどくざわついた。

「……前妻様の……
 エリザベラ様からの手紙、ですよね……?」

カルロスは顔を上げた。

「違う。違うんだ、シャルロット。
 これは……エリザベラが書いたものではない」

「でも……筆跡も……押し花も……」

カルロスは息を飲み、
言葉を選ぶように目を伏せた。

「君には……
 まだ知らないほうがいい」

また沈黙。
また“言えない理由”。

(どうして……どうしていつも……
 わたくしには“知らない方がいい”の……?)

シャルロットの胸に、
つらい痛みが溢れてくる。

「わたくし、影の夫人だから……ですか?」

カルロスは目を見開いた。

「違う!」

シャルロットは小さく息を呑む。

「そんな名前で……君を呼ばせない。
 君を影にするつもりなど、
 俺は……一度も……」

最後の言葉は、
雨音にかき消された。

カルロスはシャルロットの手に触れようとした。
だが、また寸前で止まる。

(どうして……触れてくれないの……
 理由があると言いながら、
 理由を言わないなんて……)

シャルロットの胸が静かに崩れた。

「……公爵さま。
 わたくしに言えないことばかりなのに、
 “信じろ”なんて……無理です」

その声は、
雨より静かだった。

カルロスは痛むように瞳を閉じた。

「……シャルロット。それでも……
 君を守りたいんだ」

「守りたいと言いながら、
 わたくしの側には来てくださらない……。」

カルロスの呼吸が止まる。

シャルロットは、
崩れそうな心を抱えながら言った。

「わたくしは……
 本当に“影”なの……?」

カルロスは、手紙を握りしめたまま、
ただ雨の匂いを背負って俯いた。

そして。

ただだまっているカルロスを、
シャルロットには“答え”にしか聞こえなかった。

雨が静かに降り続ける中、
**前妻の手紙という“火種”**が
ふたりの距離を決定的に揺らしていった。

その火種が、
やがて屋敷全体を巻き込む“炎”に変わることを、
ふたりはまだ知らない──。
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