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第14章「落ちた肖像画と白百合の香り」
しおりを挟む控室の空気は、
まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
割れたガラスの上に散った白百合。
床に倒れた肖像画。
その裏に残された、赤い“引っ掻き跡”。
風もないのに、
カーテンの裾がふわりと揺れた。
(……誰かが、ここにいたみたい……)
シャルロットの指先が震える。
カルロスは肖像画を抱き上げ、
裏側の赤い跡を庇うようにシャルロットから隠した。
「……見ないでくれ」
声が低く、押し殺されている。
怒っているのではない。
恐れているのだ。
(どうして……こんなに怯えているの……?
前妻様の……何を、そんなに……)
シャルロットの胸にひとつの不安が浮かんだ。
(もしかして……前妻様は……
本当に亡くなっていないの……?)
その瞬間、
問いの答えを遮るように扉が開き、メイドが駆けこんだ。
「公爵さまっ、使用人のひとりが……
“白百合の香水の瓶が消えた”と……!」
シャルロットの心臓が跳ねた。
カルロスの表情は険しさを増し、
短く命じる。
「使用人を下がらせろ。
部屋を封鎖しろ。
二度とここに誰も近づけるな」
「は、はい!」
メイドが慌てて去っていくと、
控室には再び静寂が戻った。
シャルロットは思わず囁く。
「……香水……?
エリザベラ様の……香りの……?」
カルロスの沈黙が返事だった。
沈黙ほど、答えを残酷に突きつけるものはない。
シャルロットは胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
「……わたくし、聞いても……いいのでしょうか」
カルロスは振り返らない。
肖像画を持ったまま、
その背中はまるで深い影に呑まれているようだった。
「シャルロット。
今夜のことは……忘れてくれ」
忘れられるはずがない。
恐怖と痛みが、胸に刻まれてしまった。
(忘れろと言われるほど……
“本当のこと”から遠ざけられているようで……苦しい……)
シャルロットは、
静かに絞り出すように言った。
「……わたくし、信じたいのです。
でも……理由を教えてくださらなければ……
何も……信じられません……」
その言葉は、
小さな硝子が割れるように脆く、痛い響きだった。
カルロスは急に振り向いた。
その瞳には明らかな痛みがあった。
「……君を守りたいんだ。
巻き込みたくない。
それだけは……分かってくれ」
「守るために……真実を隠すのですか?」
カルロスの呼吸が止まる。
シャルロットは涙こそ見せなかったが、
声はかすかに震えていた。
「隠されるたびに……
わたくしは“影の夫人”のように思えてしまうのです」
カルロスはたまらずシャルロットに歩み寄り──
触れようと手を伸ばすが、
また寸前で手を止めた。
「……違う。
君は影なんかじゃない。
シャルロット……俺は──」
その瞬間。
控室の奥のドアが、
ひとりでに揺れた。
ギィ……。
確かに誰も触れていないのに。
白百合の香りが濃くなり、
甘く重く、
控室全体を満たしていく。
シャルロットの背筋が凍った。
(……これは……気のせいなんかじゃない……
本当に……何かがいる……!)
カルロスはすぐにシャルロットを庇うように前に立ち、
鋭い声で命じた。
「シャルロット、ここから離れろ!」
しかし、シャルロットは動けなかった。
足が冷たく硬直している。
(わたくしが……危険……?
どうして……?
前妻様が……怒っているの……?
わたくしが“後妻”だから……?)
カルロスはその沈黙を誤解した。
「……どうか……俺を信じてくれ。
これ以上……君を傷つけたくないんだ」
シャルロットはかすかに微笑んだ。
笑うしかなかった。
(……守りたいと言われても……
触れてくれないなら……
離れていくだけ……)
「わたくしは……大丈夫ですわ。
公爵さまも……お怪我がなくて、よかった」
その言葉は、
静かな諦めだった。
カルロスは苦しげに顔をゆがめた。
「シャルロット──」
だがその言葉の続きは、
控室の奥の暗い影に
すべて飲み込まれた。
白百合の香りだけが、
控室に不気味なほど濃く残っていた。
まるで前妻エリザベラが、
そこに立っていたかのように。
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