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第3章|笑顔の練習
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翌朝の光は、昨日よりも白かった。
窓の外の庭は同じ形をしているのに、色だけが薄く見える。水音も、鳥のさえずりも、どこか遠い。
リリアーヌは鏡台の前に座り、指先で頬に触れた。
冷たい。自分の肌がこんなに冷えることがあるのかと思う。眠れなかった夜の名残が、頬の裏側に薄い影を落としていた。
「……大丈夫」
声に出してみる。
部屋の空気は何も返さない。だから、もう一度。
「大丈夫よ、リリアーヌ。今日はいつも通り」
いつも通り——公爵に会い、書類を読み、礼を交わし、笑う。
それだけ。何も変わらない。変えない。
ただ、胸の奥に刺さった言葉だけが、静かに脈を打っている。
――好きな人がいる。片想いだ。
声の低さまで覚えてしまっているのが悔しい。
自分の心が、彼の些細な一言を宝物みたいに抱えてしまうのが、もっと悔しい。
「お嬢様、髪を」
ヴィオラが背後に立ち、櫛を入れる。淡い亜麻色の髪が、静かにほどけて指の間を滑った。
触れられるたび、安心したい自分がいる。けれど今日は、その安心が怖い。何かに縋った瞬間、崩れそうだから。
「……公爵様は、本日も」
ヴィオラが途中で言葉を止めた。
言わなくても分かる。来る。会う。いつも通り。
それが、今日だけは“罰”みたいに聞こえる。
「来るわ。来るのよね……」
言ってしまってから、リリアーヌは喉を押さえた。
自分が今、何を求めているのか分からない。来てほしいのに、来てほしくない。会いたいのに、会ったら息ができなくなる気がする。
鏡の中の自分は、整っていた。
瞳も赤くない。口元も震えていない。
それがいちばん、いちばん怖かった。
——私は、笑える。
こんなに傷ついているのに、私は笑える。
ヴィオラが髪を編み込み、襟足を留める。
その所作は丁寧で、優しいのに、慰めの温度はない。
“お嬢様は大丈夫だ”と決めつけない。
その距離が、今のリリアーヌには救いだった。
「お嬢様」
「なに?」
「笑顔を“練習”する方は、たいてい練習を必要としないほど上手です」
ヴィオラの言い方は、責めていないのに、鋭かった。
リリアーヌは一瞬、言葉を失い、鏡の中の自分を見つめ返した。
「……上手で、困るのよ」
微笑の形を作る。
頬の筋肉を少し上げ、唇の端を柔らかく、瞳を細める。
社交界が好む“上品な幸福”の顔。
その瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
幸福の形をした仮面が、痛い。
扉の外がざわめく。
足音、衣擦れ、執事の声。
そして、あの低い声が、いつも通りに落ちる。
「……準備はいいか」
リリアーヌは立ち上がった。
背筋を伸ばし、呼吸を整え、微笑の角度を固定する。
今日は“崩さない”と決める。決めたら、できる。
それが自分の強さであり、弱さだ。
扉が開き、アレクシスが入ってくる。
黒と銀の礼装、無駄のない長身、森色の瞳。
彼はいつも通り、何も変わらない顔でリリアーヌを見る。
「おはようございます、公爵様」
声が震えないことに、少しだけ安堵した。
少しだけ、自分を嫌いになった。
「おはよう」
たった二言。
その短さが、昨日の“片想い”と繋がってしまうのが嫌だった。
机に向かい、書類を広げる。
彼は効率よく要点を拾い、決裁を進める。
その隣でリリアーヌは、言葉の端に隠れた感情を探してしまう。——探したくないのに。
「この件、君の意見を」
公爵が言う。
“君”という呼び方が、胸の奥に熱を落とす。
リリアーヌは、すぐに理性を上に乗せた。
「はい。現地の負担を減らすには、こちらの案が……」
口は滑らかに動く。
頭は冷静に働く。
その間、心だけが別の場所で泣いている。
公爵がペンを止め、ふと視線を上げた。
リリアーヌの顔——笑っている顔——を見て、眉がほんのわずかに動く。
「……疲れているのか」
心臓が跳ねた。
気づいた? と一瞬期待して、すぐに自分を叱る。
彼が気づくはずがない。だって私は、完璧に笑っている。
「いいえ。少し眠りが浅かっただけです」
嘘ではない。
真実の半分だけを差し出すのが、上手になってしまった。
「……眠れないなら、薬草茶を」
「ありがとうございます」
また、彼の優しさが“説明不足”のまま落ちる。
それを嬉しいと思ってしまう自分が、痛い。
会議が終わり、彼が立ち上がる。
いつもなら、ここで少しだけ雑談が入る。
窓の外の天気、領地の花、次の行事。
些細な言葉が、リリアーヌには宝物だった。
でも今日は、その宝物が刃になる気がした。
リリアーヌが書類をまとめ、目礼をしようとした瞬間、扉がノックされた。
「失礼いたします。お嬢様、こちらに……」
メイドが銀盆を持って入ってくる。封蝋の色は深い赤。
舞踏会の招待状だ。
胸が、ひやりと冷えた。
公爵もそれを見た。
ほんの一瞬、彼の瞳が揺れた気がした。
——気がしただけ。そう言い聞かせる。
「舞踏会、ですね」
自分の声が遠い。
公爵は短く頷く。
「……出席する」
それは確認であり、当然の宣言だった。
“君も”という言葉は、まだ出ない。
リリアーヌは招待状を受け取り、封を切らずに指先で撫でた。
紙の硬さが、現実みたいに冷たい。
この舞踏会で、彼の片想いが——形になるのかもしれない。
誰の隣に立つのか。誰に手を差し出すのか。
考えたくないのに、考えてしまう。
「お嬢様」
ヴィオラが、鏡の外側から声を落とす。
“ここで崩れないで”と、言わずに支えている声。
リリアーヌは微笑みを深くした。
練習した笑顔のまま、公爵に向き直る。
「舞踏会の準備も、滞りなく。ご心配なく」
公爵はしばらく何も言わず、リリアーヌを見た。
森色の瞳が、測るように静かで——それが今は怖い。
「……そうか」
それだけ言って、彼は去っていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
リリアーヌはその場に立ち尽くし、招待状を握りしめる。
笑顔のまま、ひとりになる。
ヴィオラが静かに近づき、招待状の上に手を重ねた。
「お嬢様。——今夜も、眠れないかもしれませんね」
リリアーヌは答えなかった。
答えられなかった。
ただ、微笑みの形が、頬に貼りついたまま剥がれない。
それが、泣くよりもずっと苦しかった。
窓の外の庭は同じ形をしているのに、色だけが薄く見える。水音も、鳥のさえずりも、どこか遠い。
リリアーヌは鏡台の前に座り、指先で頬に触れた。
冷たい。自分の肌がこんなに冷えることがあるのかと思う。眠れなかった夜の名残が、頬の裏側に薄い影を落としていた。
「……大丈夫」
声に出してみる。
部屋の空気は何も返さない。だから、もう一度。
「大丈夫よ、リリアーヌ。今日はいつも通り」
いつも通り——公爵に会い、書類を読み、礼を交わし、笑う。
それだけ。何も変わらない。変えない。
ただ、胸の奥に刺さった言葉だけが、静かに脈を打っている。
――好きな人がいる。片想いだ。
声の低さまで覚えてしまっているのが悔しい。
自分の心が、彼の些細な一言を宝物みたいに抱えてしまうのが、もっと悔しい。
「お嬢様、髪を」
ヴィオラが背後に立ち、櫛を入れる。淡い亜麻色の髪が、静かにほどけて指の間を滑った。
触れられるたび、安心したい自分がいる。けれど今日は、その安心が怖い。何かに縋った瞬間、崩れそうだから。
「……公爵様は、本日も」
ヴィオラが途中で言葉を止めた。
言わなくても分かる。来る。会う。いつも通り。
それが、今日だけは“罰”みたいに聞こえる。
「来るわ。来るのよね……」
言ってしまってから、リリアーヌは喉を押さえた。
自分が今、何を求めているのか分からない。来てほしいのに、来てほしくない。会いたいのに、会ったら息ができなくなる気がする。
鏡の中の自分は、整っていた。
瞳も赤くない。口元も震えていない。
それがいちばん、いちばん怖かった。
——私は、笑える。
こんなに傷ついているのに、私は笑える。
ヴィオラが髪を編み込み、襟足を留める。
その所作は丁寧で、優しいのに、慰めの温度はない。
“お嬢様は大丈夫だ”と決めつけない。
その距離が、今のリリアーヌには救いだった。
「お嬢様」
「なに?」
「笑顔を“練習”する方は、たいてい練習を必要としないほど上手です」
ヴィオラの言い方は、責めていないのに、鋭かった。
リリアーヌは一瞬、言葉を失い、鏡の中の自分を見つめ返した。
「……上手で、困るのよ」
微笑の形を作る。
頬の筋肉を少し上げ、唇の端を柔らかく、瞳を細める。
社交界が好む“上品な幸福”の顔。
その瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
幸福の形をした仮面が、痛い。
扉の外がざわめく。
足音、衣擦れ、執事の声。
そして、あの低い声が、いつも通りに落ちる。
「……準備はいいか」
リリアーヌは立ち上がった。
背筋を伸ばし、呼吸を整え、微笑の角度を固定する。
今日は“崩さない”と決める。決めたら、できる。
それが自分の強さであり、弱さだ。
扉が開き、アレクシスが入ってくる。
黒と銀の礼装、無駄のない長身、森色の瞳。
彼はいつも通り、何も変わらない顔でリリアーヌを見る。
「おはようございます、公爵様」
声が震えないことに、少しだけ安堵した。
少しだけ、自分を嫌いになった。
「おはよう」
たった二言。
その短さが、昨日の“片想い”と繋がってしまうのが嫌だった。
机に向かい、書類を広げる。
彼は効率よく要点を拾い、決裁を進める。
その隣でリリアーヌは、言葉の端に隠れた感情を探してしまう。——探したくないのに。
「この件、君の意見を」
公爵が言う。
“君”という呼び方が、胸の奥に熱を落とす。
リリアーヌは、すぐに理性を上に乗せた。
「はい。現地の負担を減らすには、こちらの案が……」
口は滑らかに動く。
頭は冷静に働く。
その間、心だけが別の場所で泣いている。
公爵がペンを止め、ふと視線を上げた。
リリアーヌの顔——笑っている顔——を見て、眉がほんのわずかに動く。
「……疲れているのか」
心臓が跳ねた。
気づいた? と一瞬期待して、すぐに自分を叱る。
彼が気づくはずがない。だって私は、完璧に笑っている。
「いいえ。少し眠りが浅かっただけです」
嘘ではない。
真実の半分だけを差し出すのが、上手になってしまった。
「……眠れないなら、薬草茶を」
「ありがとうございます」
また、彼の優しさが“説明不足”のまま落ちる。
それを嬉しいと思ってしまう自分が、痛い。
会議が終わり、彼が立ち上がる。
いつもなら、ここで少しだけ雑談が入る。
窓の外の天気、領地の花、次の行事。
些細な言葉が、リリアーヌには宝物だった。
でも今日は、その宝物が刃になる気がした。
リリアーヌが書類をまとめ、目礼をしようとした瞬間、扉がノックされた。
「失礼いたします。お嬢様、こちらに……」
メイドが銀盆を持って入ってくる。封蝋の色は深い赤。
舞踏会の招待状だ。
胸が、ひやりと冷えた。
公爵もそれを見た。
ほんの一瞬、彼の瞳が揺れた気がした。
——気がしただけ。そう言い聞かせる。
「舞踏会、ですね」
自分の声が遠い。
公爵は短く頷く。
「……出席する」
それは確認であり、当然の宣言だった。
“君も”という言葉は、まだ出ない。
リリアーヌは招待状を受け取り、封を切らずに指先で撫でた。
紙の硬さが、現実みたいに冷たい。
この舞踏会で、彼の片想いが——形になるのかもしれない。
誰の隣に立つのか。誰に手を差し出すのか。
考えたくないのに、考えてしまう。
「お嬢様」
ヴィオラが、鏡の外側から声を落とす。
“ここで崩れないで”と、言わずに支えている声。
リリアーヌは微笑みを深くした。
練習した笑顔のまま、公爵に向き直る。
「舞踏会の準備も、滞りなく。ご心配なく」
公爵はしばらく何も言わず、リリアーヌを見た。
森色の瞳が、測るように静かで——それが今は怖い。
「……そうか」
それだけ言って、彼は去っていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
リリアーヌはその場に立ち尽くし、招待状を握りしめる。
笑顔のまま、ひとりになる。
ヴィオラが静かに近づき、招待状の上に手を重ねた。
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