あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第4章|母の紅茶

 午後の光は、朝よりも優しいはずなのに。
 サロンに差し込む陽射しが、今日はやけに眩しかった。

 銀のトレイに置かれた紅茶は、琥珀色の層を作り、湯気が薄く立ちのぼっている。ベルガモットの香りが、部屋の空気を少しだけ整えてくれるはずだった。
 なのに、リリアーヌの胸の中では、昨夜からずっと冷たい水が揺れている。

 ——片想い。

 招待状は膝の上。封蝋を切ったまま、まだ中を読めていない。紙の角が肌に当たり、そこだけ妙に痛い。

「座りなさい、リリアーヌ」

 母、セリーヌ夫人の声は静かだった。
 声の調子が静かなほど、逃げ場がなくなる。母は怒っているわけではない。むしろ、怒らない。だからこそ、こちらが崩れるところを正確に見抜く。

「はい、お母様」

 リリアーヌはソファに腰を下ろし、背筋を伸ばした。
 足首を揃え、手袋をした両手を膝の上で重ねる。
 いつも通りの所作。いつも通りの令嬢。

 母は、紅茶を注ぐでもなく、まずリリアーヌの顔を見た。
 視線が、瞳より先に頬を、口元を、指先をなぞるように行き渡る。
 その目は、鏡よりも正確だ。

「……眠れなかったのね」

 リリアーヌは、息を呑みそうになって、微笑みで受け止めた。

「少しだけです。昨夜は考え事を」

「考え事で眠れない娘が、“少しだけ”なんて言うのは昔からよ」

 母は淡々と言って、ようやく紅茶を口に運んだ。
 その一口の間、サロンにあるのはカップがソーサーに触れる小さな音だけ。

 リリアーヌは、喉の奥を整えた。
 言うべきではない。言ってしまえば、終わる。
 けれど言わないままでも、母は終わらせてくる。

「舞踏会の招待状が来たのでしょう」

 母の言葉に、リリアーヌの指先がわずかに動いた。
 膝の上の封筒の端を、無意識に撫でてしまう。逃げたくなる癖だ。

「はい。……王宮主催の、春の舞踏会です」

「出席は当然。ヴァルモン家の令嬢としても、あなた自身としても」

 母はそこまではっきり言う。
 “あなた自身としても”という言い方が胸に刺さる。母は、家の体裁だけで娘を動かす人ではない。だから怖い。

「……はい」

 返事をした瞬間、母がカップを置いた。
 音が小さいのに、部屋の空気が切り替わる。

「リリアーヌ。幸せ?」

 質問は、短かった。
 紅茶の香りよりも先に、心臓が冷える。

 幸せ。
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥のどこかが、ずぶずぶと沈んだ。
 答えを持っていない。いや、本当は持っている。けれど、それを口に出したくない。

「……幸せ、です」

 咄嗟に出たのは、社交用の答えだった。
 笑う角度も、声の高さも、完璧に整えたはずなのに、母の瞳は動かない。

「それは“今”の幸せ? それとも“そう言わなければならない”幸せ?」

 逃げ道が、閉じる。
 リリアーヌは喉が乾くのを感じ、カップに手を伸ばした。
 けれど手袋越しの指が震えそうで、取るのをやめた。

 母は、急かさない。
 急かさない代わりに、こちらが答えるまで静かに待つ。

 その沈黙が、リリアーヌにだけ重い。

「……お母様」

 名前を呼ぶだけで、声が少し掠れた。
 胸の奥の水が、揺れる。

 母の瞳がほんの少しだけ柔らかくなる。
 “言いなさい”ではなく、“言っていい”の眼差し。

 それが、だめだった。
 リリアーヌの頬の筋肉が、微笑の形を保とうとして固くなる。

「……公爵様が」

 口に出した瞬間、喉が痛い。
 公爵様、という敬称が、距離を作る。守りになる。
 でも、守りは薄い。

「アレクシスが?」

「……好きな人がいる、と。片想いなんだと」

 言葉が、ひとつひとつ、落ちる。
 床に落ちたガラス片みたいに、拾えない。

 母はすぐには反応しなかった。
 驚くでもなく、怒るでもなく、ただ一度だけ瞬きをした。

「あなたは、聞いてしまったのね」

 “聞いてしまった”の一言が、救いだった。
 母はリリアーヌを責めない。
 それでも、胸が痛いのは変わらない。

「……はい。偶然。回廊で……」

 リリアーヌは、そこで言葉が途切れた。
 “聞かなければよかった”という後悔が喉を塞ぐ。
 けれど、聞いていなかったら、私は今日も笑って、今日も期待して、もっと深く傷ついていたかもしれない。

「名前は」

 母が言った。

「出ませんでした」

 即答できた。
 出ない。出ないから苦しい。出ないから、逃げ場がない。

 母は紅茶を一口飲んでから言った。

「なら、あなたは今、二つの苦しみを抱えているわね」

「二つ……?」

「一つは、自分が選ばれていないかもしれない恐怖。
 もう一つは、選ばれていないと決めつけてしまう自分への嫌悪」

 リリアーヌは息を止めた。
 母の言葉は、いつも正確すぎる。

 嫌悪。
 そうだ。私は自分が嫌いだ。
 彼の言葉を勝手に解釈し、勝手に“私ではない”と決め、勝手に傷ついている。
 でも——決めないと、私は明日も笑ってしまう。

「お母様……私」

 声が揺れた。
 そこで初めて、母が少しだけ身を乗り出した。
 手は伸ばしてこない。抱きしめない。
 その代わりに、母は淡々と告げる。

「泣きたいなら泣きなさい。
 ただし、泣いたあとに立てなくなる泣き方はしないこと」

 それは優しさでもあり、教育でもある。
 ヴァルモン家の令嬢として生きるための、母のやり方。

 リリアーヌは、唇を噛んだ。
 涙が喉の奥に溜まって、声にすると崩れそうだ。

「……泣きません」

「そう」

 母はそれ以上追わない。
 追わないから、胸が苦しい。

「舞踏会、どうするつもり?」

 母が問う。
 逃げられない。ここが本題だ。
 舞踏会は公の場。そこでは“誰の隣に立つか”が答えになる。
 たとえ、誰も言葉にしなくても。

 リリアーヌは膝の上の招待状を見た。
 赤い封蝋の跡が、まるで傷みたいに見える。

「……分かりません」

「分からないなら、あなたの矜持が折れない方法を選びなさい」

 母の声が静かに落ちる。

「彼に選ばれたい、という気持ちだけで、舞踏会に行くと——あなたは壊れる」

 心臓が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
 母の言葉が怖いのは、当たっているからだ。

 私は、選ばれたい。
 選ばれたら、今日までの“毎日会える幸せ”が本物になる気がする。
 でも、選ばれなかったら——私は、笑顔のまま、音を失う。

 母が、招待状に視線を落とした。

「招待状は、あなたに来てほしいと言っている。
 でも、隣に立つ相手まで指定してはいないわ」

 リリアーヌの胸の奥で、何かがかすかに動いた。
 隣に立つ相手。
 その選択権は、私にもある。

「……お母様」

「あなたは、誰のために舞踏会へ行くの?」

 母の質問は、また短い。
 けれど、前より残酷ではない。
 答えによって、リリアーヌが救われる道があると分かっている問いだ。

 リリアーヌは、ゆっくり息を吸った。
 紅茶の香りが、ほんの少しだけ胸に入ってくる。

「……私のために」

 やっと言えた。
 声が震えた。
 震えてもいい。母の前なら、崩れてもいい。

 母は、小さく頷いた。

「なら、あなたが壊れない形を選びなさい。
 舞踏会は“答え合わせ”ではなく、“あなたが立つ場所”よ」

 リリアーヌは招待状を指先で撫でた。
 紙の冷たさが、少しだけ現実になった。

 ——私が立つ場所。
 その言葉が、胸の奥の水を、少しだけ静かにした。

 けれど同時に、別の現実も浮かぶ。
 舞踏会で、もし彼が誰かに手を差し出したら。
 私はその時、どんな顔で立っていられる?

 母は、答えを急がせない。
 けれど、時間は待ってくれない。

「ヴィオラ」

 母が呼ぶ。
 ヴィオラが一礼してサロンに入る。影のように静かだ。

「舞踏会の準備を進めなさい。
 ドレスは淡色。宝飾は控えめに。——目立つためではなく、折れないために」

「承知いたしました」

 ヴィオラが淡々と返す。
 リリアーヌは、そのやり取りを見つめながら、胸の中で決意の芽が立つのを感じた。

 目立つためではない。
 折れないため。

 母が、最後にもう一度だけ、リリアーヌを見た。

「リリアーヌ。あなたが笑うなら、その笑顔はあなたのものよ。
 誰かのために貼りつける笑顔ではなく」

 その言葉が、痛くて、温かくて、涙になりそうだった。
 リリアーヌは頷き、微笑んだ。
 でもそれは、練習した笑顔ではなく——必死に自分を守るための笑顔だった。

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