あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第12章|恋敵の正攻法

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 その日、空は薄曇りだった。
 光が強くないぶんだけ、心の影が目立つ。
 リリアーヌは執務机に向かいながら、紙の白さに救われていた。白は、余計なことを考えずに済む。

 ペン先が走る音。
 封蝋の匂い。
 侍女の足音。
 日常の規則正しさは、感情の乱れを隠すのに都合がいい。

「お嬢様」

 ヴィオラが声を落とす。

「ブランシュ卿がお見えです。面会の予定は入っておりませんが……お断りいたしましょうか」

 断る理由はあった。
 忙しい。疲れている。予定がある。
 どれでも良かった。
 けれど“会いたくない”とは言えない。
 会いたくないわけではない。——ただ、怖い。

 優しさが怖い。
 受け取ってしまう自分が怖い。

 リリアーヌはペン先を紙から離し、微笑の形を整えた。

「……通して」

 ヴィオラは何も言わず、一礼して扉へ向かった。
 止めないのが、彼女の支え方だ。

 扉が開く。
 ガブリエルが入ってきた。

 深い紺の外套を肩に掛け、手袋は外している。
 礼は丁寧で、視線はまっすぐだが、踏み込みはしない。
 彼は“近づかないことで近づく”人だった。

「お邪魔します、リリアーヌ嬢」

「突然で驚きましたわ、ブランシュ卿」

 言いながら、リリアーヌは自分の声が硬いことに気づいた。
 硬いのは、冷たいからではない。
 崩れないためだ。

 ガブリエルはその硬さに触れない。
 触れないまま、机の上の書類の端に視線だけを落とし、すぐに戻した。

「時間は取らない。——ただ、これを」

 差し出されたのは小さな包みだった。
 白い紙に薄い青の紐。
 装飾は控えめ。
 けれど、丁寧さだけが滲んでいる。

 リリアーヌは受け取る手を止めそうになり、止めなかった。
 止めたら、彼の好意を拒む形になる。
 拒みたくない。けれど受け取るのも怖い。
 その間で、心がきしむ。

「……これは?」

「薬草茶。眠れない夜に、喉が痛くなるだろう」

 眠れない。
 当てられて、胸が一度だけ痛んだ。

 言い当てられるのが怖いのではない。
 言い当てられてしまうほど、自分が分かりやすいことが恥ずかしい。

「ありがとうございます。でも、私——」

 断りかけた言葉を、ガブリエルが柔らかく遮った。
 遮り方が上手い。相手を傷つけない遮り方。

「飲めとは言わない。ただ、置いておいて」

 置いておいて。
 その言葉が、命令ではなく退路になっている。
 受け取ることに罪悪感を持たなくて済む形。

 リリアーヌは包みを机の端に置いた。
 その動作だけで、胸が少し軽くなる。

「……気遣いが過ぎますわ」

 微笑んで言ったつもりだった。
 実際には、微笑は薄い。

 ガブリエルは、薄い微笑に対しても、同じ温度で返した。

「過ぎるのは得意なんだ。妹にもよく怒られる」

 冗談を言うのに、笑わせようとしない。
 “笑えたら笑っていい”という程度の冗談。
 だから、リリアーヌの胸が少しだけほどけた。

 ——ほんの少しだけ。

「ミレーユは、怒ると長いでしょう」

 気づけば、リリアーヌの口が勝手に返していた。
 返してしまったことに、自分で驚く。
 会話が、続いてしまった。
 続いてしまうほど、心が現実に戻される。

 ガブリエルが目を細めた。
 笑った、というより、安心した顔だ。

「長い。だが理屈は正しい。……君も、たぶんそうだ」

「私が?」

「怒らせたら怖い。静かに、正しい言葉で刺すタイプ」

 その評価が嫌ではなくて、リリアーヌは視線を落とした。
 嫌ではない。
 嫌ではないことが、怖い。

 ——私は、誰かと話して笑っていいの?
 ——そんなことをしている間に、公爵は別の誰かを想っているのに?

 胸の奥が冷える。
 冷えた瞬間、笑顔がまた固まるのが分かった。

 ガブリエルは、その変化を見逃さない。
 でも、追わない。
 問い詰めない。
 “なぜ”を投げない。

「今日の書類は、多いね」

 話題を“外側”にずらす。
 心に踏み込まない代わりに、心が壊れない場所へ連れて行く。
 それが彼の正攻法だった。

「舞踏会の後処理ですもの」

「噂の後処理も?」

 軽い言い方。
 軽いのに、痛いところを押さえる。

 リリアーヌは、微笑んで肩をすくめた。

「噂は、処理できませんわ。勝手に増えますもの」

「増えたら、俺が減らす」

 さらっと言う。
 武器を誇示しない声で。

「……どうやって?」

 聞いてしまった。
 自分から興味を示してしまった。
 それが恥ずかしいのに、止められない。

 ガブリエルは少し考え、答えた。

「君が何も言わなくても、君が“悪く見えない”距離でいる。
 それだけで噂は勝手に変形する」

「変形……」

「噂はね、真実を探すんじゃない。納得できる形を探す。
 君が折れずに立っていれば、噂は“君が選んだ”形に落ち着く」

 折れずに。
 その言葉が、胸に刺さる。
 私は折れかけている。
 でも折れたくない。

 リリアーヌは、息を吸って、吐いた。

「……あなたは、無理に聞きませんのね」

 言ってから、心臓が跳ねた。
 言うつもりはなかった。
 でも、言いたかった。
 “なぜ聞かないの?”ではなく、“聞かれたら崩れる”と。

 ガブリエルは、一瞬だけ目を伏せた。
 そして、静かに言った。

「聞きたいよ」

 その一言で、リリアーヌの喉が熱くなる。

「でも、君が言葉にできない間に、俺が言葉を奪うのは卑怯だ。
 君の沈黙は、君のものだ」

 沈黙は君のもの。
 そんなことを言われたのは初めてだった。
 沈黙はいつも、責められるものだと思っていた。
 “話せ” “説明しろ” “誤解だと言え”
 そういう言葉ばかりだった。

 ガブリエルは、沈黙を責めない。
 沈黙を守る。

 リリアーヌは、胸が苦しくて、でも少しだけ温かくて、
 笑ってしまった。
 ほんの少し。
 薄い微笑ではなく、息が緩む笑い。

「……卑怯ではないですわ。優しいだけです」

 言ってしまって、頬が熱くなる。
 褒めるつもりはなかった。
 でも、本当だ。

 ガブリエルは、すぐに喜ばない。
 喜びを見せると、リリアーヌが引くと知っているみたいに。

「優しいのは、君のほうだ。
 君は、自分を雑に扱う人間にも礼を守る」

 雑に扱う。
 その言葉に、公爵の顔が一瞬だけ浮かんだ。
 公爵は雑に扱ったつもりがない。
 でも結果は、私を雑にした。

 リリアーヌの笑顔が、また薄くなりそうになる。

 ガブリエルは、すっと立ち上がった。
 踏み込まない。
 追い詰めない。
 引き際が、正しい。

「長居した。——また明日、薬草茶が残っていたら、俺は勝手に安心する」

 勝手に安心する。
 その言い方が、ずるいほど軽い。
 軽いから、拒めない。

「……分かりました」

 リリアーヌは、頷いた。
 頷いた自分に驚きながら。

 扉が閉まったあと、部屋に残ったのは、紙の匂いと、包みの淡い青い紐だけだった。
 それなのに、心の中の冷たい水が、少しだけ温度を取り戻している。

 ヴィオラが静かに言う。

「お嬢様。少し——笑われましたね」

 リリアーヌは、否定できなかった。
 否定したくもなかった。

「……少しだけ」

 少しだけ笑える。
 少しだけ息ができる。
 それが救いであり、また怖さでもある。
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