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第11章|社交の壁
舞踏会の翌朝、王宮の噂は“昨夜の音楽”みたいに残っていた。
耳に心地よいふりをしながら、正確に人を刺す。
窓を開けると、冷えた空気が部屋に流れ込む。
リリアーヌはその冷たさに救われる思いがした。熱を持った心を、現実に戻してくれるから。
「お嬢様。今朝は、少しお召し上がりを」
ヴィオラが差し出したのは、薄いスープと柔らかいパン。
香りは優しいのに、胃が拒む気配がする。
リリアーヌは微笑んで首を振った。
「ありがとう。あとで……」
“あとで”という言葉は便利だ。
あとで、眠る。あとで、泣く。あとで、戻る。
どれも来ないのに。
そのとき、控えの間の扉がノックされた。
「レイヴン公爵閣下がいらっしゃいます」
空気が一瞬、固まった。
心臓が跳ね、次いで静かに沈む。
来た。
昨夜の視線の続きが、ここへ来た。
リリアーヌは反射で背筋を伸ばした。
笑顔の角度を整える。声の高さを決める。
盾を身につける速度だけが、昔から異常に早い。
「通して」
ヴィオラが一度だけリリアーヌを見た。
止めない。
ただ、背中を支える位置に立つ。
扉が開く。
アレクシスが入ってきた。
黒と銀の装いは、昨夜よりも簡素だが、そこにある圧は変わらない。
森色の瞳だけが、昨夜より鋭い。
——追うと決めた人の目だ。
「リリアーヌ」
名前を呼ばれる。
そのたった二音で胸が熱くなるのに、顔は笑ってしまう。
笑うしかない。
「ご機嫌よう、公爵様。お早いのですね」
丁寧な挨拶。
丁寧すぎて、距離がある。
アレクシスは挨拶に返さず、机に置かれた招待状の束と、昨夜の記録帳に視線を落とした。
「……昨夜の件」
来た。
リリアーヌの指先が冷える。
「噂が広がっている」
また、“状況”の話だ。
心の話ではない。
リリアーヌは微笑んだまま頷く。
「ええ。社交界ですもの」
「誤解だ」
その二文字が、胸に落ちた。
誤解。
それを言うなら、続きがあるはずだ。
誤解なら、誰がどう誤解しているのか。
誤解なら、何が真実なのか。
リリアーヌは、息を殺して待った。
きっと彼は言う。
きっと彼は、昨夜の視線の意味を言葉にする——
しかし、アレクシスはそこで言葉を止めた。
止める。
沈黙。
いつもの彼。
沈黙が落ちた瞬間、リリアーヌの胸の奥で、何かが「やっぱり」と呟いた。
誤解だと言うのに、説明はない。
誤解だと言うのに、私の心は置き去りだ。
「……誤解、ですか」
問い返す声は柔らかい。
柔らかいぶんだけ、冷たい。
アレクシスは言葉を探すように唇をわずかに動かし、やがて、仕事の報告をする時と同じ調子で言った。
「ブランシュ卿の件は、君の体面を守るためだろう。
だが、慣例上、君の隣に立つべきは——」
リリアーヌは、その瞬間分かった。
彼は“距離を詰めよう”としている。
けれど詰め方が、社交と慣例と正論の形しか知らない。
彼の言葉は正しい。
正しい言葉は、今の私を救わない。
「公爵様」
リリアーヌは微笑んだまま、軽く遮った。
遮るのは失礼だ。
でも、今遮らなければ、彼は“正しさ”で私を押し戻してくる。
「私の体面は、私が守ります」
言ってしまった瞬間、胸が痛んだ。
守ってほしいのに。
守ってほしい形が違うのに。
アレクシスの眉が、ほんの僅かに寄る。
「……俺が守る」
言葉は強い。
でも、また説明がない。
“何から”
“なぜ”
“誰を選ぶのか”
リリアーヌは、笑顔のまま視線を落とした。
自分の手袋が白い。白すぎる。
この白さの下で、心がどれだけ擦り切れているか、彼は知らない。
「ありがとうございます」
礼儀の言葉だけを返す。
受け取らない、という意思表示。
アレクシスは、一歩だけ距離を詰めた。
近い。
近いのに、心は遠い。
「昨夜、君は——」
言いかけて止まる。
止まる、また。
その“止まり方”が、リリアーヌの胸を切る。
リリアーヌは微笑の薄さを維持したまま、言った。
「昨夜の私は、舞踏会の令嬢として振る舞いました」
それだけ言えば、十分伝わる。
“私の心”は舞踏会に置いてきた。
今ここで話すには、まだ血が出る。
アレクシスの瞳が揺れる。
彼は理解できていない。
理解できないから、仕事の顔で前に出る。
「君は、俺の——」
言葉が詰まる。
喉の奥で折れる。
そして、彼は最後に“安全な言葉”を選ぶ。
「……君は、必要だ」
必要。
その単語が、胸の奥を凍らせた。
必要、重要、信頼。
どれも立派で、どれも冷たい。
私は、愛されたかった。
“役割”ではなく、“選ばれたかった”。
リリアーヌは微笑んだまま、ゆっくり頷く。
「光栄です」
光栄。
それは社交の答えで、心の答えではない。
ヴィオラが一歩、前に出た。
侍女長の無表情が、壁になる。
「閣下。お嬢様は本日、王宮への報告書作成がございます。お時間を——」
「……分かった」
アレクシスは引かなかった。
引けなかった。
だが、今は退くしかないと判断した顔だった。
彼は踵を返す直前、もう一度だけリリアーヌを見た。
森色の瞳の奥に、焦りがある。
焦りはあるのに、言葉がない。
リリアーヌは微笑のまま、一礼した。
「お気をつけて」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
それが、救いであり、痛みでもある。
ヴィオラが小さく息を吐く。
「……薄い微笑でしたね、お嬢様」
リリアーヌは、笑ったつもりで息を吐いた。
笑いにならなかった。
「薄いほうが、崩れなくて済むの」
言いながら、胸の奥が痛む。
薄い微笑は、防具だ。
でも防具は、あたたかくない。
机の上に、舞踏会の後片付けの書類が積まれている。
社交は続く。
噂も続く。
リリアーヌはペンを取った。
紙の白さが眩しい。
書けば書くほど、心から遠ざかれる。
それだけが、今の救いだった。
耳に心地よいふりをしながら、正確に人を刺す。
窓を開けると、冷えた空気が部屋に流れ込む。
リリアーヌはその冷たさに救われる思いがした。熱を持った心を、現実に戻してくれるから。
「お嬢様。今朝は、少しお召し上がりを」
ヴィオラが差し出したのは、薄いスープと柔らかいパン。
香りは優しいのに、胃が拒む気配がする。
リリアーヌは微笑んで首を振った。
「ありがとう。あとで……」
“あとで”という言葉は便利だ。
あとで、眠る。あとで、泣く。あとで、戻る。
どれも来ないのに。
そのとき、控えの間の扉がノックされた。
「レイヴン公爵閣下がいらっしゃいます」
空気が一瞬、固まった。
心臓が跳ね、次いで静かに沈む。
来た。
昨夜の視線の続きが、ここへ来た。
リリアーヌは反射で背筋を伸ばした。
笑顔の角度を整える。声の高さを決める。
盾を身につける速度だけが、昔から異常に早い。
「通して」
ヴィオラが一度だけリリアーヌを見た。
止めない。
ただ、背中を支える位置に立つ。
扉が開く。
アレクシスが入ってきた。
黒と銀の装いは、昨夜よりも簡素だが、そこにある圧は変わらない。
森色の瞳だけが、昨夜より鋭い。
——追うと決めた人の目だ。
「リリアーヌ」
名前を呼ばれる。
そのたった二音で胸が熱くなるのに、顔は笑ってしまう。
笑うしかない。
「ご機嫌よう、公爵様。お早いのですね」
丁寧な挨拶。
丁寧すぎて、距離がある。
アレクシスは挨拶に返さず、机に置かれた招待状の束と、昨夜の記録帳に視線を落とした。
「……昨夜の件」
来た。
リリアーヌの指先が冷える。
「噂が広がっている」
また、“状況”の話だ。
心の話ではない。
リリアーヌは微笑んだまま頷く。
「ええ。社交界ですもの」
「誤解だ」
その二文字が、胸に落ちた。
誤解。
それを言うなら、続きがあるはずだ。
誤解なら、誰がどう誤解しているのか。
誤解なら、何が真実なのか。
リリアーヌは、息を殺して待った。
きっと彼は言う。
きっと彼は、昨夜の視線の意味を言葉にする——
しかし、アレクシスはそこで言葉を止めた。
止める。
沈黙。
いつもの彼。
沈黙が落ちた瞬間、リリアーヌの胸の奥で、何かが「やっぱり」と呟いた。
誤解だと言うのに、説明はない。
誤解だと言うのに、私の心は置き去りだ。
「……誤解、ですか」
問い返す声は柔らかい。
柔らかいぶんだけ、冷たい。
アレクシスは言葉を探すように唇をわずかに動かし、やがて、仕事の報告をする時と同じ調子で言った。
「ブランシュ卿の件は、君の体面を守るためだろう。
だが、慣例上、君の隣に立つべきは——」
リリアーヌは、その瞬間分かった。
彼は“距離を詰めよう”としている。
けれど詰め方が、社交と慣例と正論の形しか知らない。
彼の言葉は正しい。
正しい言葉は、今の私を救わない。
「公爵様」
リリアーヌは微笑んだまま、軽く遮った。
遮るのは失礼だ。
でも、今遮らなければ、彼は“正しさ”で私を押し戻してくる。
「私の体面は、私が守ります」
言ってしまった瞬間、胸が痛んだ。
守ってほしいのに。
守ってほしい形が違うのに。
アレクシスの眉が、ほんの僅かに寄る。
「……俺が守る」
言葉は強い。
でも、また説明がない。
“何から”
“なぜ”
“誰を選ぶのか”
リリアーヌは、笑顔のまま視線を落とした。
自分の手袋が白い。白すぎる。
この白さの下で、心がどれだけ擦り切れているか、彼は知らない。
「ありがとうございます」
礼儀の言葉だけを返す。
受け取らない、という意思表示。
アレクシスは、一歩だけ距離を詰めた。
近い。
近いのに、心は遠い。
「昨夜、君は——」
言いかけて止まる。
止まる、また。
その“止まり方”が、リリアーヌの胸を切る。
リリアーヌは微笑の薄さを維持したまま、言った。
「昨夜の私は、舞踏会の令嬢として振る舞いました」
それだけ言えば、十分伝わる。
“私の心”は舞踏会に置いてきた。
今ここで話すには、まだ血が出る。
アレクシスの瞳が揺れる。
彼は理解できていない。
理解できないから、仕事の顔で前に出る。
「君は、俺の——」
言葉が詰まる。
喉の奥で折れる。
そして、彼は最後に“安全な言葉”を選ぶ。
「……君は、必要だ」
必要。
その単語が、胸の奥を凍らせた。
必要、重要、信頼。
どれも立派で、どれも冷たい。
私は、愛されたかった。
“役割”ではなく、“選ばれたかった”。
リリアーヌは微笑んだまま、ゆっくり頷く。
「光栄です」
光栄。
それは社交の答えで、心の答えではない。
ヴィオラが一歩、前に出た。
侍女長の無表情が、壁になる。
「閣下。お嬢様は本日、王宮への報告書作成がございます。お時間を——」
「……分かった」
アレクシスは引かなかった。
引けなかった。
だが、今は退くしかないと判断した顔だった。
彼は踵を返す直前、もう一度だけリリアーヌを見た。
森色の瞳の奥に、焦りがある。
焦りはあるのに、言葉がない。
リリアーヌは微笑のまま、一礼した。
「お気をつけて」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
それが、救いであり、痛みでもある。
ヴィオラが小さく息を吐く。
「……薄い微笑でしたね、お嬢様」
リリアーヌは、笑ったつもりで息を吐いた。
笑いにならなかった。
「薄いほうが、崩れなくて済むの」
言いながら、胸の奥が痛む。
薄い微笑は、防具だ。
でも防具は、あたたかくない。
机の上に、舞踏会の後片付けの書類が積まれている。
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