あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第10章|噂は踊る

 音楽は、笑顔を作るためにある。
 王宮の大広間に溢れる弦の旋律は、誰かの胸を落ち着かせ、誰かの鼓動を隠し、誰かの涙を飲み込ませる。
 今夜のリリアーヌにとって、それは救いでもあり、拷問でもあった。

 入場の拍手が一段落し、貴族たちの輪がゆるやかにほどけていく。
 甘い香水、硬い革靴の音、絹の衣擦れ。
 言葉は花のように飾られ、視線は刃のように研がれている。

 ガブリエルの腕は、支えすぎない。
 近すぎず、遠すぎず。
 けれど周囲の目には、それが“親密”に見えるのだろう。
 リリアーヌは自分の手袋越しの指先に意識を集め、腕の置き方の角度まで計算して歩いた。——少しでも品位が乱れれば、噂は勝ち誇る。

「ヴァルモン公爵令嬢、本当に美しいわね」

「ええ。でも……ブランシュ卿と?」

 声は甘い。
 甘い声ほど、痛い。

 リリアーヌは聞こえないふりをした。
 “聞こえないふり”は、社交界の礼儀だ。
 けれど耳は勝手に拾う。

「心変わりかしら」

「公爵は? いつも隣だったでしょう?」

「レイヴン公爵、今日、顔が怖いわよ」

 最後の一言だけが、心臓に落ちた。
 怖い。
 ——彼が?

 見ない。
 振り返らない。
 振り返ったら、私は彼の顔の“意味”を読み取ろうとしてしまう。
 読んだら、きっと期待してしまう。

 ガブリエルが、小さく息を吸い、耳元だけに届く声で囁いた。

「人の目が多いね。……大丈夫、君が悪い顔をしているわけじゃない」

 悪い顔。
 そんな表現が少し可笑しくて、リリアーヌは微笑みのまま息を吐いた。

「私が悪いのではないなら、誰が悪いのですか」

 自分の口が、皮肉を言えるほどには生きていることに驚いた。
 ガブリエルが、ほんの僅かに口元を緩める。

「平和だから暇ができる。暇があるから噂が回る。結局、いちばん厄介なのは噂だよ。」

「……平和は、悪くないはずです」

「君が言うと、平和が急に立派に聞こえる」

 褒め言葉に聞こえるのに、甘くない。
 甘くないのに、胸が痛む。
 私は今、こういう言葉を受け取ってはいけない気がする。
 受け取ったら、また誰かに寄りかかってしまう。

 儀礼長ルチアが広間を横切り、入場の列を整え直している。
 視線だけで人を動かす女が、遠くからリリアーヌを一度見た。
 表情は変えない。
 ただ、その視線に“意味”がある。
 ——慣例を崩した者の、その後。

 リリアーヌは、背筋をさらに伸ばした。
 折れないために。

 その瞬間、空気が変わった。

 ひとつの輪が、静かに割れる。
 人々が、視線の先を譲る。
 楽団の音が同じなのに、場の温度が一度下がる。

 そこに、アレクシスがいた。

 黒と銀の礼装。
 表情の動かない横顔。
 森色の瞳だけが、まっすぐこちらを捉えている。

 逃げる。
 そう決めていたはずなのに、身体が先に硬直した。

 ——見られている。

 その“見られている”感覚は、噂の視線と違う。
 噂は外側から削る視線。
 彼の視線は、内側を掴みにくる。

 リリアーヌは微笑を崩さないまま、膝の力を抜いた。
 崩れない。崩れない。
 私は今日、泣かない。

 アレクシスは、一歩。
 群衆の間を、迷いなく進む。
 その歩幅の確かさが、今夜初めて“追う”人の足に見えた。

 ガブリエルが気配を変え、ほんの少し前に出る。
 守るための位置。
 それを見て、リリアーヌの胸が痛む。
 守られるほど、私は弱く見えるのだろうか。

 アレクシスが立ち止まった。
 距離は一歩半。
 近い。けれど触れない距離。
 その距離が、彼の不器用さそのものだった。

「リリアーヌ」

 名前を呼ばれる。
 名前を呼ばれるだけで、胸が熱くなる。
 熱くなるのに、顔は笑っている。
 笑っていることが、苦しい。

「ご機嫌よう、公爵様」

 声は滑らかに出た。
 礼儀は、私の盾。
 盾を外したら、私は崩れる。

 アレクシスの視線が、ガブリエルの腕に置かれたリリアーヌの手へ落ちる。
 たったそれだけで、息が詰まる。
 ——見ないで。
 見られたら、私は“選んだ”ことを認めなければならない。

「……噂が立っている」

 唐突な言葉だった。
 甘さはない。
 しかし、その事実だけが、妙に優しい。
 彼は“心”ではなく、“状況”で刺す人だ。

 リリアーヌは微笑んだまま頷く。

「社交界では、よくあることですわ」

「……君は平気か」

 問われた瞬間、心臓が跳ねた。
 平気なわけがない。
 でも、平気だと言うしかない。
 泣かないと決めたから。

「ええ。私は平気です」

 言い切った自分が、痛い。
 痛いのに、声は震えない。

 アレクシスの瞳が、ほんの僅かに細まった。
 怒りではない。
 理解できない苛立ちのようなもの。

「……なら、いい」

 そこで終わるはずだった。
 彼はいつも、そこで終わる。
 確認して、結論を出して、去る。

 けれど今夜の彼は、去らなかった。

 アレクシスは、視線をガブリエルへ移す。
 声の温度が少し下がる。

「ブランシュ卿。君が今夜のエスコートだな」

 ガブリエルは一礼した。
 礼儀の完璧さが、むしろ挑発に見えるほど。

「はい、閣下。リリアーヌ嬢の希望で」

 “希望”という単語が、広間の空気を切った。
 希望。
 リリアーヌの希望。
 それは、アレクシスにとって初めて“拒絶”として形になったのかもしれない。

 アレクシスの視線が、またリリアーヌに戻る。

「……俺は、君の希望を聞いていない」

 その言葉に、リリアーヌの胸が強く痛んだ。
 聞いていない。
 聞かれなかった。
 私はずっと、聞かれないまま“当然”の場所に置かれていた。

 リリアーヌは微笑みのまま、答える。

「聞かれなかったから、私が決めました」

 声が静かすぎて、自分でも驚いた。
 反抗ではない。
 ただの事実。
 事実だからこそ、刺さる。

 周囲が息を呑む気配がした。
 誰かが「まあ」と小さく零し、誰かが扇子を閉じる音がした。
 噂は、こういう瞬間に踊る。

 ——公爵令嬢は心変わり。
 ——公爵は捨てられた。
——いや、公爵が捨てたのでは?

 悪意のない囁きが、火花のように散る。

 アレクシスの表情が、少しだけ——硬くなる。
 怒りではない。
 焦りだ。
 彼が“焦り”を見せるなんて、ありえないはずなのに。

「……舞踏会のあと、話す」

 命令でもお願いでもない。
 ただ、初めて“約束”の形をした言葉だった。

 リリアーヌは、その言葉に期待しそうになってしまって、すぐに心の中で首を振った。
 期待したら負ける。
 期待したら、泣いてしまう。

「はい。必要でしたら」

 冷たい返事。
 冷たくしたくて冷たくしたわけではない。
 自分を守るための温度。

 ガブリエルが、わずかにリリアーヌの方へ体を寄せた。
 守るための、さりげない圧。
 リリアーヌはそれを止めなかった。止める力がなかった。

 アレクシスは一度だけ視線を落とし、そして——決めたように顔を上げた。

「……俺は、今夜、君を“失う”つもりはない」

 その一言が、広間の空気を凍らせた。
 言葉が強すぎる。
 強すぎて、心が揺れる。

 失う。
 今まで“失う”なんて考えたこともない人が、失うと言った。

 リリアーヌの胸が、熱くなる。
 涙が来る。
 来てしまう。

 だから、リリアーヌは微笑んだ。
 最後の砦みたいに。

「……公爵様。舞踏会は、祝福の場です」

 遠回しな拒絶。
 ここで感情を暴れさせないで、という懇願。

 アレクシスは唇を引き結び、ほんの僅かに頷く。
 そしてそのまま踵を返した。
 去り際、背中が硬い。
 硬い背中は、怒っているようで——実際は、きっと痛いのだと、分かってしまう。

 彼が去った瞬間、広間のざわめきが一気に戻る。
 音楽も、笑い声も、扇子の風も。
 まるで何もなかったように。

 でも、何もなかったわけがない。

 噂は踊る。
 踊りながら、形を作る。
 そして明日の朝には、誰かの口から“真実”として語られる。

 リリアーヌは、ガブリエルの腕に置いた手に力を入れた。
 力を入れなければ、崩れる。

「……大丈夫?」

 ガブリエルが囁く。

 大丈夫、と言う言葉が嫌いになりそうだった。
 大丈夫じゃないから。

「大丈夫よ」

 それでも言った。
 言ってしまう自分が、嫌だ。

 広間の端、噂屋ヴィンスが扇子の影で誰かに耳打ちしているのが見えた。
 彼の唇が動くたび、噂は増える。

 そのとき、遠くでアレクシスが立ち止まり、ふとこちらを振り返った。
 森色の瞳が、まっすぐにリリアーヌを捉える。

 ——追う決意。

 その瞳に、初めてそれが宿っていた。
 遅い。
 遅いのに、胸が痛い。

 リリアーヌは微笑みを崩さないまま、そっと目を伏せた。
 見返したら、泣いてしまう。

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