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第9章|別の腕に置く手
舞踏会の日は、朝から空が高かった。
青が薄く透けるようで、光は冷たいのに春の匂いだけが先に来る。
窓辺に置かれた白い花が、いつもより静かに見えた。
鏡の前で、リリアーヌは最後の確認をした。
淡いミストブルーのドレスは、肩から鎖骨にかけて繊細な刺繍が走り、胸元のブローチだけが控えめに光る。
宝飾は最小限。手袋は白。髪は亜麻色を編み込み、襟足で小さく留めた。
“目立つためではなく、折れないために”——母の言葉の通りの装い。
「お嬢様」
ヴィオラが背後で声を落とす。
いつも通りの平坦さの中に、今日はほんの少しだけ温度がある。
「馬車の準備が整いました。ブランシュ卿も、まもなく」
リリアーヌは頷いた。
頷くだけで、胸の奥が痛む。
ブランシュ卿——ガブリエル。
彼に頼むと決めたのは自分なのに、決めた瞬間からずっと、心が許してくれない。
許してほしいのは、誰にだろう。
——公爵に?
——自分自身に?
扉がノックされる。
侍女が「ブランシュ卿がお見えです」と告げた。
リリアーヌは、息を吸った。
大丈夫。大丈夫。
今日は、“泣かない”日。
泣かない代わりに、選ぶ日。
玄関ホールに降りると、ガブリエルが待っていた。
礼装は深い紺。胸元に銀の留め具。
髪は濃い栗色、琥珀の瞳は柔らかく、けれど揺れていない。
彼はリリアーヌを見ると、いきなり近づかず、きちんと距離を取って一礼した。
「リリアーヌ嬢。——本日は、光栄です」
その“距離”が、救いだった。
押しつけない。奪わない。
ただ、守るためにそこにいる距離。
「こちらこそ。お時間をいただき、ありがとうございます」
リリアーヌは礼を返す。
いつも通りの言葉。
でも今日は、その言葉が“盾”になる。
ガブリエルは、視線をゆっくりとドレスへ落とし、すぐに戻した。
見惚れるような失礼はしない。けれど——短く息を呑んだのが分かった。
「……とても、似合う」
それだけ。
軽い囁きのようで、変に甘くない。
だからこそ胸が痛む。
この人は、私が折れないように言葉まで選ぶ。
「ありがとうございます」
リリアーヌは微笑んだ。
練習した笑顔ではない。
ただ、今日を生きるための笑顔。
馬車へ向かう廊下で、ガブリエルがそっと腕を差し出した。
指先は手袋のまま、触れる寸前で止まる。
「ご希望の距離で」
言い方が、約束だった。
リリアーヌは、ほんの一瞬だけ迷い——そして、彼の腕に手を置いた。
その瞬間。
胸の奥で、小さな音がした。
“これでいい”という安心ではない。
“戻れない”という音だった。
馬車が動き出す。
窓の外に流れる街の景色が、いつもより鮮やかに見えた。
人々の顔、旗の色、石畳の影。
すべてが舞踏会へ向けて整えられている。
「緊張してる?」
ガブリエルが、笑いながら言う。
笑いは軽いのに、目は真剣だ。
「……ええ。少し」
「少しで済むなら、君は大丈夫だ。」
その言葉に、リリアーヌは息を詰めた。
大丈夫と言われるたび、胸の奥が冷える。
大丈夫じゃない。泣けないだけ。
「大丈夫ではありません」
反射で返した声が、少しだけ硬くなる。
「……泣かないことに慣れただけです」
言ってしまってから、しまったと思った。
こんな本音を、彼に渡すつもりはなかったのに。
ガブリエルは驚かない。
頷きもしない。
ただ、ほんの少しだけ声を落とした。
「慣れなくていいことに、慣れた人の顔だ」
その一言で、胸の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
リリアーヌは窓の外へ視線を逃がした。
王宮の灯が見えてくる。
大理石の階段、金色の装飾、遠くから聞こえる楽団の音。
胸がまた冷えていく。
ここで私は、笑わなければならない。
“公爵令嬢”として、“ヴァルモン家”として。
馬車が止まる。
扉が開き、外気が頬を撫でた。
ガブリエルが先に降り、改めて腕を差し出す。
「行こう」
短い言葉。
その短さが、頼もしい。
リリアーヌは頷き、階段へ足を向けた——その時だった。
馬車列の向こう、黒と銀の影が見えた。
見慣れた長身。
黒に近い森色の瞳が、こちらに向いている。
アレクシス。
心臓が一度、止まったように感じた。
迎えに来ると決めたのだろう。
当然のように。
当然のように、私を隣へ戻すつもりで。
——でも、私はもう。
リリアーヌの指先が、ガブリエルの腕の上で固まる。
離したい。
離したら、彼の“当然”に戻ってしまう気がする。
戻ったら、今日の自分の決意が無意味になる。
ガブリエルが小さく息を吸い、リリアーヌの顔を見た。
視線が問う。
“どうする?”と。
リリアーヌは、微笑みを作った。
舞踏会の入り口で崩れるわけにはいかない。
そして、そっと——
ガブリエルの腕に、手を置き直した。
今度は、少しだけ深く。
それは宣言だった。
自分の足で立つための。
泣かないための。
階段を上がる。
背中に視線が刺さる。
振り返らなくても分かる。
公爵が見ている。
その視線の重さが、息を詰まらせる。
でも、振り返らない。
振り返ったら、私は彼の顔を見てしまう。
見たら——また、期待してしまう。
王宮の扉が開く。
光と音楽が溢れ、香水と花の香りが混ざり合う。
そこは、祝福の海だ。
「ヴァルモン公爵令嬢、入場」
儀礼長ルチアの声が響く。
客の視線が一斉に集まる。
リリアーヌは笑う。完璧に。
その瞬間、背後から聞こえたのは、噂屋ヴィンスの低い囁きだった。
「……公爵令嬢は、心変わりか」
悪意はない。
ただ、事実を形にして売る声。
リリアーヌの胸が、きゅっと痛む。
心変わり。
違う。
私は変わっていない。ずっと同じまま——ただ、壊れないように手を置いた。
ガブリエルが、耳元にだけ聞こえる声で言った。
「大丈夫。君の名前は、俺が守る」
その言葉に、リリアーヌは微笑みのまま頷いた。
頷くしかなかった。
遠くの鏡越しに、黒と銀の影が見える。
アレクシスが入場したばかりで、目がこちらに固定されている。
——息が詰まる。
でも、私は笑う。
今日の私は、泣かない。
泣かない代わりに、選ぶ。
青が薄く透けるようで、光は冷たいのに春の匂いだけが先に来る。
窓辺に置かれた白い花が、いつもより静かに見えた。
鏡の前で、リリアーヌは最後の確認をした。
淡いミストブルーのドレスは、肩から鎖骨にかけて繊細な刺繍が走り、胸元のブローチだけが控えめに光る。
宝飾は最小限。手袋は白。髪は亜麻色を編み込み、襟足で小さく留めた。
“目立つためではなく、折れないために”——母の言葉の通りの装い。
「お嬢様」
ヴィオラが背後で声を落とす。
いつも通りの平坦さの中に、今日はほんの少しだけ温度がある。
「馬車の準備が整いました。ブランシュ卿も、まもなく」
リリアーヌは頷いた。
頷くだけで、胸の奥が痛む。
ブランシュ卿——ガブリエル。
彼に頼むと決めたのは自分なのに、決めた瞬間からずっと、心が許してくれない。
許してほしいのは、誰にだろう。
——公爵に?
——自分自身に?
扉がノックされる。
侍女が「ブランシュ卿がお見えです」と告げた。
リリアーヌは、息を吸った。
大丈夫。大丈夫。
今日は、“泣かない”日。
泣かない代わりに、選ぶ日。
玄関ホールに降りると、ガブリエルが待っていた。
礼装は深い紺。胸元に銀の留め具。
髪は濃い栗色、琥珀の瞳は柔らかく、けれど揺れていない。
彼はリリアーヌを見ると、いきなり近づかず、きちんと距離を取って一礼した。
「リリアーヌ嬢。——本日は、光栄です」
その“距離”が、救いだった。
押しつけない。奪わない。
ただ、守るためにそこにいる距離。
「こちらこそ。お時間をいただき、ありがとうございます」
リリアーヌは礼を返す。
いつも通りの言葉。
でも今日は、その言葉が“盾”になる。
ガブリエルは、視線をゆっくりとドレスへ落とし、すぐに戻した。
見惚れるような失礼はしない。けれど——短く息を呑んだのが分かった。
「……とても、似合う」
それだけ。
軽い囁きのようで、変に甘くない。
だからこそ胸が痛む。
この人は、私が折れないように言葉まで選ぶ。
「ありがとうございます」
リリアーヌは微笑んだ。
練習した笑顔ではない。
ただ、今日を生きるための笑顔。
馬車へ向かう廊下で、ガブリエルがそっと腕を差し出した。
指先は手袋のまま、触れる寸前で止まる。
「ご希望の距離で」
言い方が、約束だった。
リリアーヌは、ほんの一瞬だけ迷い——そして、彼の腕に手を置いた。
その瞬間。
胸の奥で、小さな音がした。
“これでいい”という安心ではない。
“戻れない”という音だった。
馬車が動き出す。
窓の外に流れる街の景色が、いつもより鮮やかに見えた。
人々の顔、旗の色、石畳の影。
すべてが舞踏会へ向けて整えられている。
「緊張してる?」
ガブリエルが、笑いながら言う。
笑いは軽いのに、目は真剣だ。
「……ええ。少し」
「少しで済むなら、君は大丈夫だ。」
その言葉に、リリアーヌは息を詰めた。
大丈夫と言われるたび、胸の奥が冷える。
大丈夫じゃない。泣けないだけ。
「大丈夫ではありません」
反射で返した声が、少しだけ硬くなる。
「……泣かないことに慣れただけです」
言ってしまってから、しまったと思った。
こんな本音を、彼に渡すつもりはなかったのに。
ガブリエルは驚かない。
頷きもしない。
ただ、ほんの少しだけ声を落とした。
「慣れなくていいことに、慣れた人の顔だ」
その一言で、胸の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
リリアーヌは窓の外へ視線を逃がした。
王宮の灯が見えてくる。
大理石の階段、金色の装飾、遠くから聞こえる楽団の音。
胸がまた冷えていく。
ここで私は、笑わなければならない。
“公爵令嬢”として、“ヴァルモン家”として。
馬車が止まる。
扉が開き、外気が頬を撫でた。
ガブリエルが先に降り、改めて腕を差し出す。
「行こう」
短い言葉。
その短さが、頼もしい。
リリアーヌは頷き、階段へ足を向けた——その時だった。
馬車列の向こう、黒と銀の影が見えた。
見慣れた長身。
黒に近い森色の瞳が、こちらに向いている。
アレクシス。
心臓が一度、止まったように感じた。
迎えに来ると決めたのだろう。
当然のように。
当然のように、私を隣へ戻すつもりで。
——でも、私はもう。
リリアーヌの指先が、ガブリエルの腕の上で固まる。
離したい。
離したら、彼の“当然”に戻ってしまう気がする。
戻ったら、今日の自分の決意が無意味になる。
ガブリエルが小さく息を吸い、リリアーヌの顔を見た。
視線が問う。
“どうする?”と。
リリアーヌは、微笑みを作った。
舞踏会の入り口で崩れるわけにはいかない。
そして、そっと——
ガブリエルの腕に、手を置き直した。
今度は、少しだけ深く。
それは宣言だった。
自分の足で立つための。
泣かないための。
階段を上がる。
背中に視線が刺さる。
振り返らなくても分かる。
公爵が見ている。
その視線の重さが、息を詰まらせる。
でも、振り返らない。
振り返ったら、私は彼の顔を見てしまう。
見たら——また、期待してしまう。
王宮の扉が開く。
光と音楽が溢れ、香水と花の香りが混ざり合う。
そこは、祝福の海だ。
「ヴァルモン公爵令嬢、入場」
儀礼長ルチアの声が響く。
客の視線が一斉に集まる。
リリアーヌは笑う。完璧に。
その瞬間、背後から聞こえたのは、噂屋ヴィンスの低い囁きだった。
「……公爵令嬢は、心変わりか」
悪意はない。
ただ、事実を形にして売る声。
リリアーヌの胸が、きゅっと痛む。
心変わり。
違う。
私は変わっていない。ずっと同じまま——ただ、壊れないように手を置いた。
ガブリエルが、耳元にだけ聞こえる声で言った。
「大丈夫。君の名前は、俺が守る」
その言葉に、リリアーヌは微笑みのまま頷いた。
頷くしかなかった。
遠くの鏡越しに、黒と銀の影が見える。
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——息が詰まる。
でも、私は笑う。
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