あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

文字の大きさ
12 / 39

第12章|恋敵の正攻法

 その日、空は薄曇りだった。
 光が強くないぶんだけ、心の影が目立つ。
 リリアーヌは執務机に向かいながら、紙の白さに救われていた。白は、余計なことを考えずに済む。

 ペン先が走る音。
 封蝋の匂い。
 侍女の足音。
 日常の規則正しさは、感情の乱れを隠すのに都合がいい。

「お嬢様」

 ヴィオラが声を落とす。

「ブランシュ卿がお見えです。面会の予定は入っておりませんが……お断りいたしましょうか」

 断る理由はあった。
 忙しい。疲れている。予定がある。
 どれでも良かった。
 けれど“会いたくない”とは言えない。
 会いたくないわけではない。——ただ、怖い。

 優しさが怖い。
 受け取ってしまう自分が怖い。

 リリアーヌはペン先を紙から離し、微笑の形を整えた。

「……通して」

 ヴィオラは何も言わず、一礼して扉へ向かった。
 止めないのが、彼女の支え方だ。

 扉が開く。
 ガブリエルが入ってきた。

 深い紺の外套を肩に掛け、手袋は外している。
 礼は丁寧で、視線はまっすぐだが、踏み込みはしない。
 彼は“近づかないことで近づく”人だった。

「お邪魔します、リリアーヌ嬢」

「突然で驚きましたわ、ブランシュ卿」

 言いながら、リリアーヌは自分の声が硬いことに気づいた。
 硬いのは、冷たいからではない。
 崩れないためだ。

 ガブリエルはその硬さに触れない。
 触れないまま、机の上の書類の端に視線だけを落とし、すぐに戻した。

「時間は取らない。——ただ、これを」

 差し出されたのは小さな包みだった。
 白い紙に薄い青の紐。
 装飾は控えめ。
 けれど、丁寧さだけが滲んでいる。

 リリアーヌは受け取る手を止めそうになり、止めなかった。
 止めたら、彼の好意を拒む形になる。
 拒みたくない。けれど受け取るのも怖い。
 その間で、心がきしむ。

「……これは?」

「薬草茶。眠れない夜に、喉が痛くなるだろう」

 眠れない。
 当てられて、胸が一度だけ痛んだ。

 言い当てられるのが怖いのではない。
 言い当てられてしまうほど、自分が分かりやすいことが恥ずかしい。

「ありがとうございます。でも、私——」

 断りかけた言葉を、ガブリエルが柔らかく遮った。
 遮り方が上手い。相手を傷つけない遮り方。

「飲めとは言わない。ただ、置いておいて」

 置いておいて。
 その言葉が、命令ではなく退路になっている。
 受け取ることに罪悪感を持たなくて済む形。

 リリアーヌは包みを机の端に置いた。
 その動作だけで、胸が少し軽くなる。

「……気遣いが過ぎますわ」

 微笑んで言ったつもりだった。
 実際には、微笑は薄い。

 ガブリエルは、薄い微笑に対しても、同じ温度で返した。

「過ぎるのは得意なんだ。妹にもよく怒られる」

 冗談を言うのに、笑わせようとしない。
 “笑えたら笑っていい”という程度の冗談。
 だから、リリアーヌの胸が少しだけほどけた。

 ——ほんの少しだけ。

「ミレーユは、怒ると長いでしょう」

 気づけば、リリアーヌの口が勝手に返していた。
 返してしまったことに、自分で驚く。
 会話が、続いてしまった。
 続いてしまうほど、心が現実に戻される。

 ガブリエルが目を細めた。
 笑った、というより、安心した顔だ。

「長い。だが理屈は正しい。……君も、たぶんそうだ」

「私が?」

「怒らせたら怖い。静かに、正しい言葉で刺すタイプ」

 その評価が嫌ではなくて、リリアーヌは視線を落とした。
 嫌ではない。
 嫌ではないことが、怖い。

 ——私は、誰かと話して笑っていいの?
 ——そんなことをしている間に、公爵は別の誰かを想っているのに?

 胸の奥が冷える。
 冷えた瞬間、笑顔がまた固まるのが分かった。

 ガブリエルは、その変化を見逃さない。
 でも、追わない。
 問い詰めない。
 “なぜ”を投げない。

「今日の書類は、多いね」

 話題を“外側”にずらす。
 心に踏み込まない代わりに、心が壊れない場所へ連れて行く。
 それが彼の正攻法だった。

「舞踏会の後処理ですもの」

「噂の後処理も?」

 軽い言い方。
 軽いのに、痛いところを押さえる。

 リリアーヌは、微笑んで肩をすくめた。

「噂は、処理できませんわ。勝手に増えますもの」

「増えたら、俺が減らす」

 さらっと言う。
 武器を誇示しない声で。

「……どうやって?」

 聞いてしまった。
 自分から興味を示してしまった。
 それが恥ずかしいのに、止められない。

 ガブリエルは少し考え、答えた。

「君が何も言わなくても、君が“悪く見えない”距離でいる。
 それだけで噂は勝手に変形する」

「変形……」

「噂はね、真実を探すんじゃない。納得できる形を探す。
 君が折れずに立っていれば、噂は“君が選んだ”形に落ち着く」

 折れずに。
 その言葉が、胸に刺さる。
 私は折れかけている。
 でも折れたくない。

 リリアーヌは、息を吸って、吐いた。

「……あなたは、無理に聞きませんのね」

 言ってから、心臓が跳ねた。
 言うつもりはなかった。
 でも、言いたかった。
 “なぜ聞かないの?”ではなく、“聞かれたら崩れる”と。

 ガブリエルは、一瞬だけ目を伏せた。
 そして、静かに言った。

「聞きたいよ」

 その一言で、リリアーヌの喉が熱くなる。

「でも、君が言葉にできない間に、俺が言葉を奪うのは卑怯だ。
 君の沈黙は、君のものだ」

 沈黙は君のもの。
 そんなことを言われたのは初めてだった。
 沈黙はいつも、責められるものだと思っていた。
 “話せ” “説明しろ” “誤解だと言え”
 そういう言葉ばかりだった。

 ガブリエルは、沈黙を責めない。
 沈黙を守る。

 リリアーヌは、胸が苦しくて、でも少しだけ温かくて、
 笑ってしまった。
 ほんの少し。
 薄い微笑ではなく、息が緩む笑い。

「……卑怯ではないですわ。優しいだけです」

 言ってしまって、頬が熱くなる。
 褒めるつもりはなかった。
 でも、本当だ。

 ガブリエルは、すぐに喜ばない。
 喜びを見せると、リリアーヌが引くと知っているみたいに。

「優しいのは、君のほうだ。
 君は、自分を雑に扱う人間にも礼を守る」

 雑に扱う。
 その言葉に、公爵の顔が一瞬だけ浮かんだ。
 公爵は雑に扱ったつもりがない。
 でも結果は、私を雑にした。

 リリアーヌの笑顔が、また薄くなりそうになる。

 ガブリエルは、すっと立ち上がった。
 踏み込まない。
 追い詰めない。
 引き際が、正しい。

「長居した。——また明日、薬草茶が残っていたら、俺は勝手に安心する」

 勝手に安心する。
 その言い方が、ずるいほど軽い。
 軽いから、拒めない。

「……分かりました」

 リリアーヌは、頷いた。
 頷いた自分に驚きながら。

 扉が閉まったあと、部屋に残ったのは、紙の匂いと、包みの淡い青い紐だけだった。
 それなのに、心の中の冷たい水が、少しだけ温度を取り戻している。

 ヴィオラが静かに言う。

「お嬢様。少し——笑われましたね」

 リリアーヌは、否定できなかった。
 否定したくもなかった。

「……少しだけ」

 少しだけ笑える。
 少しだけ息ができる。
 それが救いであり、また怖さでもある。

あなたにおすすめの小説

私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ

みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。 婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。 これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。 愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。 毎日20時30分に投稿

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。 【感謝】 第19回恋愛小説大賞にて奨励賞を受賞しました。 ありがとうございます。

[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜

h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」 二人は再び手を取り合うことができるのか……。 全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)

【完結】ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

【完結】大好きな幼馴染には愛している人がいるようです。だからわたしは頑張って仕事に生きようと思います。

たろ
恋愛
幼馴染のロード。 学校を卒業してロードは村から街へ。 街の警備隊の騎士になり、気がつけば人気者に。 ダリアは大好きなロードの近くにいたくて街に出て子爵家のメイドとして働き出した。 なかなか会うことはなくても同じ街にいるだけでも幸せだと思っていた。いつかは終わらせないといけない片思い。 ロードが恋人を作るまで、夢を見ていようと思っていたのに……何故か自分がロードの恋人になってしまった。 それも女避けのための(仮)の恋人に。 そしてとうとうロードには愛する女性が現れた。 ダリアは、静かに身を引く決意をして……… ★ 短編から長編に変更させていただきます。 すみません。いつものように話が長くなってしまいました。

愛しているからこそ、彼の望み通り婚約解消をしようと思います【完結済み】

皇 翼
恋愛
「俺は、お前の様な馬鹿な女と結婚などするつもりなどない。だからお前と婚約するのは、表面上だけだ。俺が22になり、王位を継承するその時にお前とは婚約を解消させてもらう。分かったな?」 お見合いの場。二人きりになった瞬間開口一番に言われた言葉がこれだった。 初対面の人間にこんな発言をする人間だ。好きになるわけない……そう思っていたのに、恋とはままならない。共に過ごして、彼の色んな表情を見ている内にいつの間にか私は彼を好きになってしまっていた――。 好き……いや、愛しているからこそ、彼を縛りたくない。だからこのまま潔く消えることで、婚約解消したいと思います。 ****** ・感想欄は完結してから開きます。

旦那様は離縁をお望みでしょうか

村上かおり
恋愛
 ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。  けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。  バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。

侯爵令嬢ソフィアの結婚

今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚した。これは金が欲しい父の思惑と、高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない。 そもそもヴィンセントには恋人がいて、その恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ。 結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら屋に住むように言われて…… 表紙はかなさんのファンアートです✨ ありがとうございます😊 2024.07.05