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第13章|未亡人エリザ
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王宮の午前は、いつも少しだけ冷たい。
大理石の廊下は陽が差しても温まりにくく、天井の高い空間が言葉を薄く伸ばす。
——噂も、同じように薄く伸びていく。
リリアーヌは、侍女長ヴィオラと共に回廊を歩いていた。
手には、王宮への提出書類。封蝋はまだ温かい。
歩幅は一定。視線はまっすぐ。微笑は控えめ。
これが“崩れないための形”。
昨夜、ガブリエルが置いていった薬草茶の包みは、机の端にまだある。
飲んでいない。
けれど捨ててもいない。
その事実が、自分の心を微かに揺らす。
「お嬢様。お足元に」
「ありがとう」
ヴィオラの声は静かで、しかし注意深い。
王宮の廊下では、床よりも“視線”につまずく。
角を曲がったその先で、空気が変わった。
人の気配が濃い。
低い声が交わされ、紙束が擦れる音がする。
政務の場の匂い——墨、蝋、乾いた革。
そこに、アレクシスがいた。
黒の外套に銀の留め具。
いつもの“仕事の顔”。
背筋はまっすぐで、言葉は短く、無駄がない。
その姿を見るだけで、胸の奥が条件反射のように熱くなる。
熱くなるのが、腹立たしい。
——見ない。
見ないのに、目が勝手に拾う。
彼の前に、女性が立っていた。
黒の喪服。
飾りのないベール。
白い首元が細く、手は震えを隠すように握りしめられている。
まだ若い未亡人だ。
涙の跡が頬に薄く残り、唇は青白い。
その背後に、幼い子供が二人。
小さな手が母のスカートを掴んでいる。
目だけが大きく、不安そうに大人たちを見上げていた。
——エリザ。
名前が胸の中で立ち上がった。
社交界で、近頃ささやかれていた名だ。
“亡き侯爵の若い未亡人”
“領地の後見”
“公爵が動いている案件”
リリアーヌは歩みを止めなかった。
止めたら、見ているとばれる。
見ているとばれたら、胸が裂ける。
ヴィオラが一瞬、リリアーヌの横顔を見た。
止めない。
止めないのが、彼女の支え方だ。
しかし、言葉は耳に入ってくる。
王宮の回廊は音がよく通る。
通りすぎるだけで、必要なものだけが刺さる。
「……後見の件は、私が引き受ける」
アレクシスの声。
低くて、揺れない。
“決定”の声。
未亡人の肩がわずかに震えた。
驚いたのか、救われたのか、分からない。
「で、ですが……公爵閣下。私は、そんな——」
「領地の管理は急を要する。遺児の教育も。放置すれば、彼らが食い物にされる」
正しい。
正しい言葉は、正しいまま人を縛る。
正しいまま、人を救う。
リリアーヌの胸が、苦しくなる。
救う。
彼は誰かを救う。
そして私は、救われない。
未亡人が、かすれた声で言った。
「……ありがとうございます。私ひとりでは、どうにも……」
その言葉の“弱さ”が、リリアーヌの胸を刺した。
弱いと言える人は、助けを呼べる。
私は、弱いと言えない。
だから、助けを呼べない。
アレクシスは短く言った。
「泣くな。君が崩れれば、子供が怯える」
冷たい言い方に聞こえるのに、内容は優しい。
そういう人だ。
優しいのに、温かい言葉を使わない。
リリアーヌの足取りが、一瞬だけ乱れそうになった。
自分の足元を見て、どうにか整える。
——彼には、好きな人がいる。片想いだ。
名前は出なかった。
でも今、この回廊で、目の前の未亡人に向けられる“動き”がある。
後見。支援。守る。救う。
それが、恋ではないと断言できる理由を、私は持っていない。
リリアーヌの胸の中で、冷たい結論が形になる。
あの人が片想いしている相手は——エリザ様だ。
決めつけ。
それが分かっているのに、止められない。
決めつけないと、私は揺れてしまう。
揺れたら、崩れる。
ふと、子供の一人がこちらを見た。
大きな瞳が、リリアーヌの淡いドレスを映す。
その視線に、リリアーヌは微笑みを返した。
微笑みは自然に出た。
子供には、罪がないから。
未亡人エリザが、視線の先に気づいたのだろう。
こちらを見て、一瞬息を呑んだ。
喪服の下の肩がすっと引ける。
——ああ。
彼女は私を知っている。
私が、誰の何であるかを。
リリアーヌは礼をするべきか迷い、迷った瞬間に、アレクシスの視線がこちらへ向いた。
森色の瞳が、まっすぐに刺さる。
その目に、説明がない。
言葉もない。
ただ、見ている。
リリアーヌは、微笑を整えた。
薄く。薄く。
“何も感じていません”という形に。
「公爵様。お忙しそうですわね」
言ってしまった。
自分から声をかけたくなかったのに。
でも、このまま通り過ぎると、逃げたみたいになる。
逃げたくない。
——逃げたいのに。
アレクシスは、一拍置いて答えた。
「政務だ」
それだけ。
またそれだけ。
未亡人が小さく頭を下げる。
「……ヴァルモン公爵令嬢様。ご機嫌麗しゅう」
礼儀は完璧で、だからこそ痛い。
“私は、あなたの位置を奪いません”と示す礼。
示されるほど、奪われている気がする。
「ご機嫌よう、エリザ様」
リリアーヌは同じだけ丁寧に返した。
丁寧さは盾。
盾の内側で、心臓が冷える。
アレクシスが言う。
「……書類は、ユリウスに渡せ。後で確認する」
命令。
仕事の口調。
私に向ける言葉は、いつもこの温度だ。
「承知いたしました」
リリアーヌは頷き、ヴィオラへ書類を渡した。
ヴィオラは無言で一礼し、状況を理解したように一歩引く。
アレクシスは、未亡人に向き直った。
「子供を連れて、別室へ。温かいものを用意させる」
温かいもの。
その言葉が、なぜ私には向かないのだろう。
私だって、温かいものが欲しいのに。
リリアーヌの指先が、手袋の中で冷たくなる。
血が引くような冷たさ。
——片想いの相手。
——支援。後見。外套。
——守る。
これ以上見ていたら、私の心が壊れる。
「失礼いたしますわ」
リリアーヌは微笑んだまま告げ、歩き出した。
歩幅は一定。姿勢は崩さない。
崩したら、ここで泣いてしまう。
背中に、視線が刺さる。
アレクシスの視線か、未亡人の視線か、分からない。
分からないほうがいい。
角を曲がった瞬間、リリアーヌは胸の奥で小さく息を吐いた。
吐いた息が震えるのを、ヴィオラが見逃さない。
「お嬢様……」
「大丈夫よ」
言葉が、機械みたいに出た。
大丈夫じゃないのに。
リリアーヌは歩きながら、心の中で決めた。
決めてしまった。
片想いの相手は、あの人だ。
だから私は、立ち位置を変える。
公爵の幸せを邪魔しない。
その決意が、胸を冷たく固めていく。
固めないと、砕けてしまうから。
大理石の廊下は陽が差しても温まりにくく、天井の高い空間が言葉を薄く伸ばす。
——噂も、同じように薄く伸びていく。
リリアーヌは、侍女長ヴィオラと共に回廊を歩いていた。
手には、王宮への提出書類。封蝋はまだ温かい。
歩幅は一定。視線はまっすぐ。微笑は控えめ。
これが“崩れないための形”。
昨夜、ガブリエルが置いていった薬草茶の包みは、机の端にまだある。
飲んでいない。
けれど捨ててもいない。
その事実が、自分の心を微かに揺らす。
「お嬢様。お足元に」
「ありがとう」
ヴィオラの声は静かで、しかし注意深い。
王宮の廊下では、床よりも“視線”につまずく。
角を曲がったその先で、空気が変わった。
人の気配が濃い。
低い声が交わされ、紙束が擦れる音がする。
政務の場の匂い——墨、蝋、乾いた革。
そこに、アレクシスがいた。
黒の外套に銀の留め具。
いつもの“仕事の顔”。
背筋はまっすぐで、言葉は短く、無駄がない。
その姿を見るだけで、胸の奥が条件反射のように熱くなる。
熱くなるのが、腹立たしい。
——見ない。
見ないのに、目が勝手に拾う。
彼の前に、女性が立っていた。
黒の喪服。
飾りのないベール。
白い首元が細く、手は震えを隠すように握りしめられている。
まだ若い未亡人だ。
涙の跡が頬に薄く残り、唇は青白い。
その背後に、幼い子供が二人。
小さな手が母のスカートを掴んでいる。
目だけが大きく、不安そうに大人たちを見上げていた。
——エリザ。
名前が胸の中で立ち上がった。
社交界で、近頃ささやかれていた名だ。
“亡き侯爵の若い未亡人”
“領地の後見”
“公爵が動いている案件”
リリアーヌは歩みを止めなかった。
止めたら、見ているとばれる。
見ているとばれたら、胸が裂ける。
ヴィオラが一瞬、リリアーヌの横顔を見た。
止めない。
止めないのが、彼女の支え方だ。
しかし、言葉は耳に入ってくる。
王宮の回廊は音がよく通る。
通りすぎるだけで、必要なものだけが刺さる。
「……後見の件は、私が引き受ける」
アレクシスの声。
低くて、揺れない。
“決定”の声。
未亡人の肩がわずかに震えた。
驚いたのか、救われたのか、分からない。
「で、ですが……公爵閣下。私は、そんな——」
「領地の管理は急を要する。遺児の教育も。放置すれば、彼らが食い物にされる」
正しい。
正しい言葉は、正しいまま人を縛る。
正しいまま、人を救う。
リリアーヌの胸が、苦しくなる。
救う。
彼は誰かを救う。
そして私は、救われない。
未亡人が、かすれた声で言った。
「……ありがとうございます。私ひとりでは、どうにも……」
その言葉の“弱さ”が、リリアーヌの胸を刺した。
弱いと言える人は、助けを呼べる。
私は、弱いと言えない。
だから、助けを呼べない。
アレクシスは短く言った。
「泣くな。君が崩れれば、子供が怯える」
冷たい言い方に聞こえるのに、内容は優しい。
そういう人だ。
優しいのに、温かい言葉を使わない。
リリアーヌの足取りが、一瞬だけ乱れそうになった。
自分の足元を見て、どうにか整える。
——彼には、好きな人がいる。片想いだ。
名前は出なかった。
でも今、この回廊で、目の前の未亡人に向けられる“動き”がある。
後見。支援。守る。救う。
それが、恋ではないと断言できる理由を、私は持っていない。
リリアーヌの胸の中で、冷たい結論が形になる。
あの人が片想いしている相手は——エリザ様だ。
決めつけ。
それが分かっているのに、止められない。
決めつけないと、私は揺れてしまう。
揺れたら、崩れる。
ふと、子供の一人がこちらを見た。
大きな瞳が、リリアーヌの淡いドレスを映す。
その視線に、リリアーヌは微笑みを返した。
微笑みは自然に出た。
子供には、罪がないから。
未亡人エリザが、視線の先に気づいたのだろう。
こちらを見て、一瞬息を呑んだ。
喪服の下の肩がすっと引ける。
——ああ。
彼女は私を知っている。
私が、誰の何であるかを。
リリアーヌは礼をするべきか迷い、迷った瞬間に、アレクシスの視線がこちらへ向いた。
森色の瞳が、まっすぐに刺さる。
その目に、説明がない。
言葉もない。
ただ、見ている。
リリアーヌは、微笑を整えた。
薄く。薄く。
“何も感じていません”という形に。
「公爵様。お忙しそうですわね」
言ってしまった。
自分から声をかけたくなかったのに。
でも、このまま通り過ぎると、逃げたみたいになる。
逃げたくない。
——逃げたいのに。
アレクシスは、一拍置いて答えた。
「政務だ」
それだけ。
またそれだけ。
未亡人が小さく頭を下げる。
「……ヴァルモン公爵令嬢様。ご機嫌麗しゅう」
礼儀は完璧で、だからこそ痛い。
“私は、あなたの位置を奪いません”と示す礼。
示されるほど、奪われている気がする。
「ご機嫌よう、エリザ様」
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丁寧さは盾。
盾の内側で、心臓が冷える。
アレクシスが言う。
「……書類は、ユリウスに渡せ。後で確認する」
命令。
仕事の口調。
私に向ける言葉は、いつもこの温度だ。
「承知いたしました」
リリアーヌは頷き、ヴィオラへ書類を渡した。
ヴィオラは無言で一礼し、状況を理解したように一歩引く。
アレクシスは、未亡人に向き直った。
「子供を連れて、別室へ。温かいものを用意させる」
温かいもの。
その言葉が、なぜ私には向かないのだろう。
私だって、温かいものが欲しいのに。
リリアーヌの指先が、手袋の中で冷たくなる。
血が引くような冷たさ。
——片想いの相手。
——支援。後見。外套。
——守る。
これ以上見ていたら、私の心が壊れる。
「失礼いたしますわ」
リリアーヌは微笑んだまま告げ、歩き出した。
歩幅は一定。姿勢は崩さない。
崩したら、ここで泣いてしまう。
背中に、視線が刺さる。
アレクシスの視線か、未亡人の視線か、分からない。
分からないほうがいい。
角を曲がった瞬間、リリアーヌは胸の奥で小さく息を吐いた。
吐いた息が震えるのを、ヴィオラが見逃さない。
「お嬢様……」
「大丈夫よ」
言葉が、機械みたいに出た。
大丈夫じゃないのに。
リリアーヌは歩きながら、心の中で決めた。
決めてしまった。
片想いの相手は、あの人だ。
だから私は、立ち位置を変える。
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その決意が、胸を冷たく固めていく。
固めないと、砕けてしまうから。
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