あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第14章|回廊の外套

 王宮の午後は、午前よりも厄介だ。
 人の出入りが増え、噂が温まって動き出す。
 陽射しが斜めに差し、柱の影が長くなるほど、誰かの視線も伸びてくる。

 リリアーヌは、王妃付きの侍女から預かった控え書類を届けるため、北回廊へ向かっていた。
 ヴィオラは少し離れて歩き、周囲の気配を先に読む。
 侍女長は護衛のように振る舞うが、決して“守っている”と口にしない。
 守られていることに気づくのが怖いから、リリアーヌはその沈黙に甘えた。

 今日も、薄い微笑を貼りつける。
 薄い微笑は、痛みに慣れた肌のように、もう自然にできる。

 ——片想いの相手は、エリザ。
 昨日の“目撃”は、リリアーヌの胸にその結論を刻んだ。
 刻んだ瞬間から、息が楽になった気がした。
 苦しいのに、楽。
 迷わなくて済むから。

 角を曲がると、空気が冷えた。

 北回廊は窓が多く、風が通る。
 石の床が冷たく、外の庭の木々が揺れているのが見える。
 そして——そこに、二人の影があった。

 リリアーヌは、足を止めなかった。
 止めると、見ているとばれる。
 見ているとばれると、心が壊れる。

 でも、目は勝手に拾う。

 アレクシスがいた。
 黒の外套、銀の留め具。
 いつもの仕事の顔。
 しかし今日は、彼の肩が少しだけ前に落ちている。
 ——誰かを覆う姿勢だ。

 その前に、喪服の女性。エリザ。
 ベールの下の頬が青白い。
 肩をすくめ、寒さに耐えるように唇を噛んでいる。
 傍らには、幼い子供たち。小さな手が母の袖を掴む。

 風が一段、強く吹いた。
 窓の隙間から冷気が流れ込み、燭台の火が揺れる。
 エリザが思わず身を縮めた。

 その瞬間だった。

 アレクシスが何も言わずに、自分の外套を外した。
 躊躇なく、素早く、慣れた手つきで。
 そして、エリザの肩へ掛ける。

 外套が喪服の黒を覆い、エリザの体が小さく見えた。
 子供が「お母さま」と小さく言い、エリザが目を閉じて頷く。
 アレクシスは、その光景を見ながら、短く言った。

「寒い。子供が震える」

 正しい。
 正しいのに——優しい。

 リリアーヌの指先が、手袋の中で冷たくなった。
 血が引く、という表現はこういう時のためにあるのだと思う。
 胸の奥が冷え、喉が乾く。

 ——それは善意。
 ——寒さ対策。
 ——遺児のため。
 ——ただの責務。

 そう言い聞かせるたび、心の中の“別の声”が笑う。
 それでも、あなたには向けられなかった善意でしょう?
 あなたには掛けられなかった外套でしょう?

 リリアーヌは、微笑を保ったまま歩き続けた。
 歩き続けないと、崩れる。
 目の前の光景に、立ち尽くしてしまったら、泣いてしまう。

 ヴィオラが、さりげなくリリアーヌの歩幅に合わせる。
 その気配が、唯一の支えだった。

「お嬢様、視線を」

 小声。
 命令ではなく、助け。

「……ええ」

 リリアーヌは、視線を前へ戻した。
 戻したのに、見えてしまう。
 外套の重み。
 エリザの肩に落ちる布。
 公爵の指先が、ベールに触れないように慎重に外套を整える所作。

 触れない。
 丁寧。
 ——守る人の距離。

 その距離は、昨日ガブリエルが見せた距離に似ていた。
 似ているのに、胸の痛みは全く違う。

 ガブリエルの距離は、私を壊さないため。
 アレクシスの距離は、私に届かないため。

 回廊の石柱の陰に差しかかる。
 影が一瞬、リリアーヌを隠す。
 その一瞬で、息を吸える気がした。

 ——通り過ぎればいい。
 ——何も見なかったことにすればいい。

 そう思った、その時。

 子供の一人が、こちらに気づいた。
 大きな瞳が、リリアーヌを捉える。
 無邪気な視線。
 好奇心と、少しの怯え。

 その視線に釣られて、エリザが振り向く。
 そして、アレクシスも振り向いた。

 森色の瞳が、リリアーヌを捉える。
 今日も、説明はない。
 言葉もない。
 ただ、見ている。

 リリアーヌは微笑んだ。
 薄い微笑。
 礼節の微笑。

「公爵様。ごきげんよう」

 声が、思ったより落ち着いていた。
 落ち着いてしまう自分が、怖い。
 痛みを飲み込むのが上手くなっている。

 アレクシスは一拍置き、答える。

「……リリアーヌ」

 名前を呼ぶ。
 それだけ。
 外套の説明も、状況の説明もない。
 “誤解だ”の一言すらない。

 エリザが、外套を握ったまま、慌てて頭を下げた。

「ヴァルモン公爵令嬢様。失礼を……本当に、これは——」

 返そうとしている。
 返そうとして、返せない。
 外套は暖かく、彼女は今、震えている。
 返せば、子供が寒い。

 それを見て、リリアーヌは、微笑のまま言った。

「どうぞ。そのままで」

 自分でも驚いた。
 言ってしまった。
 慈悲のように聞こえる言葉を、私は今、誰に向けた?
 エリザに?
 それとも、アレクシスに?

 アレクシスの瞳がわずかに揺れる。
 揺れるのに、言葉は出ない。

「……寒いから」

 彼は、まるで言い訳のように、同じ言葉を繰り返した。
 寒いから。
 子供が震えるから。
 ——正しい理由。

 リリアーヌは頷いた。

「ええ。そうね。とても寒いわ」

 寒い。
 寒いという言葉で、心を切る。
 寒いからこそ、責められない。
 責められないからこそ、苦しい。

 ヴィオラが一歩前に出て、用件を淡々と告げる。

「閣下。こちら、王妃殿下より預かりました控えでございます。後ほどご確認を」

 ヴィオラの声が“仕事”の空気を作る。
 仕事の空気の中なら、リリアーヌは崩れずに済む。

「ユリウスに渡せ」

 アレクシスはそう言い、視線をリリアーヌから離した。
 離したことが、救いであり、痛みでもある。

 リリアーヌはもう一度、エリザに微笑む。

「お子様を暖かい場所へ。風が強いですもの」

「……ありがとうございます、令嬢様」

 エリザの声が震える。
 それが、感謝なのか、申し訳なさなのか、分からない。

 リリアーヌは頷き、歩き出した。
 歩き出した瞬間、指先の冷たさが増した。
 冷たさは、涙を止めるためのものみたいに。

 角を曲がり、二人の姿が見えなくなった瞬間、リリアーヌはようやく息を吐いた。
 吐いた息が、震えた。

 ヴィオラが、低く言う。

「お嬢様。手が……」

 手袋の上からでも分かるほど、指先が冷えている。
 リリアーヌは微笑んだまま言った。

「冷えるわね。王宮は」

 嘘ではない。
 でも本当の冷えは、石の床ではなく心の中だ。

 外套の布の重みが、目の裏に残っている。
 善意の布。
 寒さ対策の布。
 ——そして、私に向かなかった布。

 リリアーヌは歩きながら、静かに決めた。

 礼節で退く。
 私は、邪魔をしない。
 公爵の予定から、私を消す。

 それが、最も“正しい”撤退の仕方だと、そう思うしかなかった。

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