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第16章|王妃の観察
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王妃のサロンは、いつ来ても息が整う場所だった。
香りは甘すぎず、花は咲きすぎず、笑い声は高すぎない。
“正しさ”が、柔らかい布に包まれている。
リリアーヌはその日、王妃からの呼び出しを受け、午前の公務報告を携えて参上していた。
礼をして、用意された席に座る。
いつもならここで、ほんの少しだけ心が緩む。
今日は、緩まない。
緩めたら、今まで固めてきた決意が崩れる気がした。
王妃マルグリットは、淡い象牙色のドレスに身を包み、扇子を手元に置いている。
その瞳は穏やかだが、柔らかい刃がある。
“観察”を、愛の形で出来る人。
「リリアーヌ、顔色が薄いわね」
いきなり刺してくるのに、声は優しい。
リリアーヌは微笑んだ。薄い微笑。
「ご心配には及びません、王妃殿下。少し、忙しかっただけです」
嘘ではない。
忙しいのは本当だ。
忙しさで、心の痛みを誤魔化しているだけ。
王妃は頷き、紙束に目を落としながら言った。
「あなたが“忙しい”と言う時は、心が忙しい時よ」
当たっている。
当たっていることが、怖い。
リリアーヌが何も言えずにいると、サロンの扉がノックされた。
侍従が入り、低い声で告げる。
「レイヴン公爵閣下がお見えでございます」
空気が一瞬だけ変わった。
王妃は何も驚かない顔で言う。
「通して」
リリアーヌは、背筋を伸ばした。
微笑を整える。
礼節を貼り直す。
扉が開き、アレクシスが入ってくる。
黒と銀。
いつもの整然とした姿。
しかし今日は、歩幅が少しだけ硬い。
焦りが、靴音に出る人。
「王妃殿下」
アレクシスは一礼した。
王妃は首を傾け、柔らかく微笑む。
「公爵。少しだけ、あなたの“耳”を借りたいの」
耳。
王妃はいつも、心臓ではなく耳から刺す。
「……承知いたしました」
アレクシスの返事は短い。
短さが彼の武器で、今は弱点だ。
王妃は扇子を閉じ、穏やかな声のまま言った。
「あなたは最近、説明が足りないわね」
言葉が、そのまま刃になる。
リリアーヌは視線を落とした。
“私の代わりに言ってくれる人”がいることが、嬉しくて、怖い。
アレクシスは眉を寄せる。
「政務は滞りなく——」
「政務の話ではないわ」
王妃の声は柔らかい。
柔らかいほど、逃げ道がない。
「あなたの言葉が足りないのは、いつものこと。でもね」
扇子の先が、ふっとアレクシスへ向く。
「言葉が足りない男は、嫌われます」
サロンの空気が静まった。
静まり方が、重い。
侍女たちの足音すら消える。
アレクシスが、反射で言い返そうとしたのが分かった。
口が開きかける。
でも——閉じる。
彼は反論できない。
反論すればするほど、図星になると知っている顔だ。
リリアーヌの胸が、少しだけ痛んだ。
痛むのは、彼を庇いたいからではない。
彼の不器用さに、これ以上私が傷つきたくないから。
王妃は続ける。
「あなたは“正しさ”で守ろうとする。けれど、正しさは盾になっても、抱きしめてはくれない」
抱きしめる。
その言葉が、サロンの温度を少しだけ上げた。
上がった温度が、リリアーヌの喉を熱くする。
王妃は、ここで初めてリリアーヌを見た。
視線が優しい。
優しいのに、逃がさない。
「リリアーヌ。あなた、近頃“薄く笑う”のが上手になったわね」
心臓が跳ねた。
見抜かれている。
薄い微笑は、私の防具。
防具を褒められると、裸にされる。
「……殿下」
声が震えそうになって、リリアーヌは息を吸う。
王妃は、震えを責めない。
ただ、淡々と事実だけを置く。
「薄い微笑は、痛みを隠すためのもの。
あなたはもう、隠すのが“習慣”になりかけている」
やめて、と言いたかった。
でも、言えない。
言えない時点で、王妃の指摘は正しい。
アレクシスが、ようやく低く言った。
「……俺は、誤解だと言った」
誤解だ。
その言葉を、何度聞いたことか。
誤解だと言うなら、真実を言ってほしい。
真実を言えないなら、誤解は終わらない。
王妃は、扇子を軽く鳴らした。
「“誤解だ”は便利な言葉ね。
でも、“誤解だ”だけでは、誰も救われない」
アレクシスの喉が詰まる。
彼の沈黙が、サロンの空気に落ちる。
その沈黙を、王妃は逃さない。
「公爵。あなたが守りたい人は誰?
それを言わない限り、あなたは誰も守れないわ」
守りたい人。
リリアーヌは、指先を握りしめた。
その言葉が怖い。
怖いのに、聞きたい。
アレクシスは、視線を落とした。
そして、苦いように息を吐く。
「……俺は、彼女を——」
言いかけて止まる。
止まる癖が、ここでも出る。
止まった瞬間、リリアーヌの胸が冷えた。
王妃は、容赦なく言う。
「言いなさい。公爵。
あなたが黙れば黙るほど、“別の誰か”が彼女の隣に立つわ」
別の誰か。
ガブリエルの顔が浮かぶ。
彼は黙らない。押しつけない。奪わない。
ただ、毎日小さく支える。
アレクシスの瞳が、一瞬だけ鋭くなる。
そこに初めて、“嫌だ”が見えた。
嫉妬の芽。
まだ形にならない、痛い芽。
王妃は、その揺れを見て、静かに締めた。
「あなたが言葉を選ばないなら、あなたは選ばれない。
それだけよ」
サロンが静かになる。
扇子の音だけが残る。
アレクシスは唇を引き結び、一礼した。
「……ご忠告、感謝いたします」
感謝。
仕事の言葉。
でも今日は、そこに僅かな屈辱が混じる。
王妃は優しく微笑んだ。
「感謝はいらないわ。——行動を」
アレクシスが去る。
扉が閉まる。
残された空気の中で、リリアーヌはゆっくり息を吐いた。
胸が痛い。
痛いのに、少しだけ——救われた気もする。
誰かが“私の痛み”を言語化してくれたから。
王妃が、リリアーヌの手元の紅茶を指す。
「飲みなさい。冷めるわよ」
「……はい」
リリアーヌはカップを持ち上げた。
温かさが指先へ戻ってくる。
戻ってくる温度が、涙を呼びそうで、リリアーヌは目を伏せた。
王妃は、伏せた瞳を見逃さず、静かに言った。
「あなたは悪者ではない。
あなたの初恋を、誰にも“泥棒”にさせないで」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
温かく、重く。
香りは甘すぎず、花は咲きすぎず、笑い声は高すぎない。
“正しさ”が、柔らかい布に包まれている。
リリアーヌはその日、王妃からの呼び出しを受け、午前の公務報告を携えて参上していた。
礼をして、用意された席に座る。
いつもならここで、ほんの少しだけ心が緩む。
今日は、緩まない。
緩めたら、今まで固めてきた決意が崩れる気がした。
王妃マルグリットは、淡い象牙色のドレスに身を包み、扇子を手元に置いている。
その瞳は穏やかだが、柔らかい刃がある。
“観察”を、愛の形で出来る人。
「リリアーヌ、顔色が薄いわね」
いきなり刺してくるのに、声は優しい。
リリアーヌは微笑んだ。薄い微笑。
「ご心配には及びません、王妃殿下。少し、忙しかっただけです」
嘘ではない。
忙しいのは本当だ。
忙しさで、心の痛みを誤魔化しているだけ。
王妃は頷き、紙束に目を落としながら言った。
「あなたが“忙しい”と言う時は、心が忙しい時よ」
当たっている。
当たっていることが、怖い。
リリアーヌが何も言えずにいると、サロンの扉がノックされた。
侍従が入り、低い声で告げる。
「レイヴン公爵閣下がお見えでございます」
空気が一瞬だけ変わった。
王妃は何も驚かない顔で言う。
「通して」
リリアーヌは、背筋を伸ばした。
微笑を整える。
礼節を貼り直す。
扉が開き、アレクシスが入ってくる。
黒と銀。
いつもの整然とした姿。
しかし今日は、歩幅が少しだけ硬い。
焦りが、靴音に出る人。
「王妃殿下」
アレクシスは一礼した。
王妃は首を傾け、柔らかく微笑む。
「公爵。少しだけ、あなたの“耳”を借りたいの」
耳。
王妃はいつも、心臓ではなく耳から刺す。
「……承知いたしました」
アレクシスの返事は短い。
短さが彼の武器で、今は弱点だ。
王妃は扇子を閉じ、穏やかな声のまま言った。
「あなたは最近、説明が足りないわね」
言葉が、そのまま刃になる。
リリアーヌは視線を落とした。
“私の代わりに言ってくれる人”がいることが、嬉しくて、怖い。
アレクシスは眉を寄せる。
「政務は滞りなく——」
「政務の話ではないわ」
王妃の声は柔らかい。
柔らかいほど、逃げ道がない。
「あなたの言葉が足りないのは、いつものこと。でもね」
扇子の先が、ふっとアレクシスへ向く。
「言葉が足りない男は、嫌われます」
サロンの空気が静まった。
静まり方が、重い。
侍女たちの足音すら消える。
アレクシスが、反射で言い返そうとしたのが分かった。
口が開きかける。
でも——閉じる。
彼は反論できない。
反論すればするほど、図星になると知っている顔だ。
リリアーヌの胸が、少しだけ痛んだ。
痛むのは、彼を庇いたいからではない。
彼の不器用さに、これ以上私が傷つきたくないから。
王妃は続ける。
「あなたは“正しさ”で守ろうとする。けれど、正しさは盾になっても、抱きしめてはくれない」
抱きしめる。
その言葉が、サロンの温度を少しだけ上げた。
上がった温度が、リリアーヌの喉を熱くする。
王妃は、ここで初めてリリアーヌを見た。
視線が優しい。
優しいのに、逃がさない。
「リリアーヌ。あなた、近頃“薄く笑う”のが上手になったわね」
心臓が跳ねた。
見抜かれている。
薄い微笑は、私の防具。
防具を褒められると、裸にされる。
「……殿下」
声が震えそうになって、リリアーヌは息を吸う。
王妃は、震えを責めない。
ただ、淡々と事実だけを置く。
「薄い微笑は、痛みを隠すためのもの。
あなたはもう、隠すのが“習慣”になりかけている」
やめて、と言いたかった。
でも、言えない。
言えない時点で、王妃の指摘は正しい。
アレクシスが、ようやく低く言った。
「……俺は、誤解だと言った」
誤解だ。
その言葉を、何度聞いたことか。
誤解だと言うなら、真実を言ってほしい。
真実を言えないなら、誤解は終わらない。
王妃は、扇子を軽く鳴らした。
「“誤解だ”は便利な言葉ね。
でも、“誤解だ”だけでは、誰も救われない」
アレクシスの喉が詰まる。
彼の沈黙が、サロンの空気に落ちる。
その沈黙を、王妃は逃さない。
「公爵。あなたが守りたい人は誰?
それを言わない限り、あなたは誰も守れないわ」
守りたい人。
リリアーヌは、指先を握りしめた。
その言葉が怖い。
怖いのに、聞きたい。
アレクシスは、視線を落とした。
そして、苦いように息を吐く。
「……俺は、彼女を——」
言いかけて止まる。
止まる癖が、ここでも出る。
止まった瞬間、リリアーヌの胸が冷えた。
王妃は、容赦なく言う。
「言いなさい。公爵。
あなたが黙れば黙るほど、“別の誰か”が彼女の隣に立つわ」
別の誰か。
ガブリエルの顔が浮かぶ。
彼は黙らない。押しつけない。奪わない。
ただ、毎日小さく支える。
アレクシスの瞳が、一瞬だけ鋭くなる。
そこに初めて、“嫌だ”が見えた。
嫉妬の芽。
まだ形にならない、痛い芽。
王妃は、その揺れを見て、静かに締めた。
「あなたが言葉を選ばないなら、あなたは選ばれない。
それだけよ」
サロンが静かになる。
扇子の音だけが残る。
アレクシスは唇を引き結び、一礼した。
「……ご忠告、感謝いたします」
感謝。
仕事の言葉。
でも今日は、そこに僅かな屈辱が混じる。
王妃は優しく微笑んだ。
「感謝はいらないわ。——行動を」
アレクシスが去る。
扉が閉まる。
残された空気の中で、リリアーヌはゆっくり息を吐いた。
胸が痛い。
痛いのに、少しだけ——救われた気もする。
誰かが“私の痛み”を言語化してくれたから。
王妃が、リリアーヌの手元の紅茶を指す。
「飲みなさい。冷めるわよ」
「……はい」
リリアーヌはカップを持ち上げた。
温かさが指先へ戻ってくる。
戻ってくる温度が、涙を呼びそうで、リリアーヌは目を伏せた。
王妃は、伏せた瞳を見逃さず、静かに言った。
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