あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第17章|恋敵の宣言

 夕刻、王宮の執務棟は昼とは別の顔になる。
 人の気配が薄れ、足音がはっきり響き、窓の外の空が藍に沈む。
 昼の噂は、夜にだけ“本音”へ変わる。

 アレクシスは廊下を歩きながら、自分の歩幅が荒いことに気づいていた。
 荒いのは、苛立ちのせいだと思った。
 ——正確には、焦り。
 そして、もっと正確には、“嫌だ”という感情の正体が分からない苛立ちだ。

 王妃の言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 ――言葉が足りない男は、嫌われます。
 ――あなたが言葉を選ばないなら、あなたは選ばれない。

 政務の報告書を机に積んでも、頭の中に“別の予定”が差し込む。
 リリアーヌが、予定表から消えていく未来。
 自分の指示書に彼女の名がなくなること。
 それを想像しただけで、胸がむかつくほど重くなる。

 ——あれは俺の領分だ。
 そう思って、すぐに違うと自分で否定した。

 領分ではない。
 彼女は物ではない。
 なのに、奪われるような感覚がある。

 その“奪う相手”の顔が、鮮明に浮かぶ。

 ガブリエル・ブランシュ卿。

 妹ミレーユの兄。
 社交界で評判の良い男。
 礼節を守りながら、相手の心を壊さずに近づく術を知っている。

 ——あいつは、うまい。
 うまい、という評価が口の中で苦くなる。

 執務室の前に差し掛かった時、待っていたように侍従が頭を下げた。

「閣下。ブランシュ卿がお見えでございます」

 アレクシスの足が止まる。
 胸の奥の重みが、熱に変わる。

「通せ」

 言葉が硬い。
 硬いのに、出てしまう。
 それが今の自分だ。

 扉が開く。
 ガブリエルが入ってきた。

 紺の外套を脱ぎ、手袋を外している。
 礼は丁寧で、目は真っ直ぐ。
 そして、挑発的な笑みはない。
 ——正攻法の男は、わざと笑わない。

「急に申し訳ない、閣下。少しだけ、時間を」

「用件は」

 短く返したつもりが、刺すような口調になる。
 ガブリエルはそれを受け流し、椅子には座らず立ったまま言った。

「リリアーヌ嬢のことで」

 その名が出た瞬間、アレクシスの胸の奥が反射で反応した。
 怒りではない。
 ——所有欲に似た痛み。

「……彼女に何をした」

 言ってから、アレクシスは自分の言葉に嫌気が差した。
 何をした、ではない。
 彼女は誰かのものではない。

 ガブリエルは眉一つ動かさず、淡々と答えた。

「何も。——何もしていないから、ここに来た」

「……意味が分からない」

「分かりやすく言う。俺は、彼女に踏み込んでいない。
 それでも彼女が君から離れるなら、それは——君が何も話さないからさ」

 何も話さない。
 その単語が、王妃の言葉と繋がる。
 胸の奥に刺さって、抜けない。

 アレクシスは声を落とした。

「俺は誤解だと言った」

 ガブリエルは、笑わなかった。
 笑わずに、ただ事実だけを置く。

「“誤解だ”で救われるのは、君だけだ」

 空気が一段冷えた。
 アレクシスの目が細くなる。
 怒りではなく、痛みを隠す目だ。

「……口が過ぎる」

「過ぎない。
 彼女は今、無理して笑う癖がつきかけている。
 それは、もう痛いと叫ぶ力が残っていない証拠だ」

 無理して笑う。
 王妃の指摘が思い出され、アレクシスの喉が詰まる。

 ガブリエルは、ここで初めて少しだけ声を低くした。
 脅しではなく、誓いの声。

「閣下。俺は、君から奪うために隣にいるわけじゃない」

 奪う。
 その言葉に、アレクシスの胸が強く反応する。
 嫌だ。
 何が嫌なのか説明できない。
 でも、嫌だ。

「だが」

 アレクシスが口を挟むより早く、ガブリエルが続けた。

「ただし——彼女を泣かせるなら、俺が側にいます」

 宣言は静かだった。
 静かだからこそ、刃だった。
 “攻める”のではなく、“守る”という形で、公爵の心臓を正面から刺す。

 アレクシスは、言葉を失った。
 失った瞬間、自分の中に湧き上がるものが何かを理解した。

 ——嫉妬だ。

 こんな感情は、無駄だと思っていた。
 政務に関係ない。
 理屈に合わない。
 だが今、理屈より先に胸が痛む。

 ガブリエルは、その沈黙に勝ち誇らない。
 ただ静かに言う。

「君が守るなら、俺は引く。
 でも君が黙るなら、彼女は守られない。
 ——守られないなら、俺は守る」

 正しい。
 正しいから、反論できない。

 アレクシスは拳を握りしめた。
 握りしめた拳が、机の端に当たって小さく音を立てる。

「……お前は、彼女が好きなのか」

 ガブリエルは一拍置いた。
 軽い冗談で逸らさない。
 逃げない。
 それが正攻法だ。

「好きだよ」

 あっさり言う。
 言葉にすることを、恐れない。

「でも、今すぐ奪うとは言わない。
 彼女が“自分らしくできるようになるまで”は、ただ隣にいる」

 呼吸。
 その言葉が、胸に刺さった。
 リリアーヌは、呼吸が浅い。
 笑顔の奥で、息を止める癖がある。

 アレクシスは、苦いように息を吐いた。

「……俺は、彼女を泣かせるつもりはない」

 口に出した瞬間、遅かったと思った。
 泣かせている。
 泣かせるつもりがないことが、いちばん人を泣かせる。

 ガブリエルは、静かに頷いた。

「なら、言葉を選べ。
 君の沈黙は、彼女を置き去りにする」

 アレクシスの胸が痛む。
 痛むのに、言葉が見つからない。
 彼はいつも、言葉が遅い。
 遅い間に、相手の心は先に折れる。

 ガブリエルは礼をした。
 挑発もしない。
 勝利の余韻も見せない。
 ただ、宣言だけを置いて去る。

「失礼する。——彼女を泣かせないで」

 扉が閉まる。
 残された空気が、重い。

 アレクシスは、机の上の書類に目を落とした。
 文字が読めない。
 脳が拒否する。

 代わりに、リリアーヌの薄い微笑が浮かぶ。
 礼節の撤退。
 侍女長経由。
 予定から消える未来。

 ——嫌だ。

 初めて、自分の中でそれが言葉になった。
 言葉になった瞬間、恐ろしくなる。
 嫌だと言うなら、理由を言わなければならない。
 理由を言うなら、覚悟が要る。

 アレクシスは椅子から立ち上がった。
 書類ではなく、扉へ向かう。

 今夜は、仕事の顔では足りない。
 足りないのに、まだそれしか持っていない。

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