あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第15章|礼節の撤退

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 リリアーヌは、その夜も眠れなかった。

 火の落ちた暖炉は冷たく、カーテンの隙間から差す月光だけが床に薄い線を作っている。
 目を閉じれば、北回廊の外套が見える。
 目を開けても、胸の奥の冷えは消えない。

 ——善意。
 ——寒さ対策。
 ——遺児のため。
 ——正しい行い。

 頭の中で、正しい理由が幾つも並ぶ。
 並ぶほど、心が「それでも」と囁く。

 それでも、あなたは私には掛けなかった。
 それでも、あなたは私には説明しない。

 リリアーヌは起き上がり、窓辺の椅子に座った。
 白い寝間着の袖口を握る指先が、冷たい。
 冷たいのは王宮のせいではない。
 自分の中の温度の問題だ。

 扉が静かに開き、ヴィオラが入ってくる。

「お嬢様。……また、眠れませんか」

 侍女長の声は責めない。
 責めないことが、今は痛い。
 責められるほうが、楽な時がある。

「……ええ。少しだけ」

 少しだけ、という嘘がすぐに上手くなる。

 ヴィオラは何も言わず、温かい水の入った小さな器を置いた。
 布を絞り、リリアーヌの指先を包む。
 その温度に、胸の奥が一瞬だけほどけそうになる。

「冷えていますね」

「王宮は、冷えるわ」

 同じ言い訳を繰り返す。
 言い訳は、心を守るための言葉だ。

 ヴィオラは手を止めず、淡々と問う。

「お嬢様。——撤退なさいますか」

 撤退。
 戦の言葉。
 けれど社交界では、それが礼節の形をしている。

 リリアーヌは、少しだけ目を伏せた。

「……ええ。礼節の撤退を」

 口にした瞬間、胸が軽くなる。
 軽くなることが、怖い。
 本当は重くあるべきなのに、軽くなってしまうのは、諦めの証拠だ。

「どうなさいますか」

 ヴィオラは、具体を求める。
 侍女長は、涙では動かない。手順で動く。
 その冷静さが、今のリリアーヌを救う。

 リリアーヌは机へ向かった。
 机の上には、王宮の予定表と、公爵家との連絡記録。
 いつもなら、ここに“公爵の文字”があるだけで胸が温まった。
 今日は、その文字が凶器みたいに見える。

 封蝋の道具を取り出し、紙を一枚引く。
 ペン先が震えそうになるのを、深呼吸で押さえた。

「……公務の連絡を、侍女長経由に切り替える」

 声に出して言うことで、決定が固まる。
 口に出さない決意は、揺れる。
 口に出した決意は、硬くなる。硬くないと、私は崩れる。

 ヴィオラが短く頷く。

「閣下の執事ユリウスへ、正式な通達を」

「ええ」

 リリアーヌは書き始めた。
 文章は礼儀正しく、簡潔で、冷たいほど整う。

 ——今後、公務に関する連絡は、侍女長ヴィオラを通してお願い申し上げます。
 ——突然の変更につき、ご不便をおかけしますが、何卒ご理解のほど。
 ——敬具。

 言葉は完璧。
 完璧すぎて、心がどこにもいない。

 書き終え、封をしようとしたところで、手が止まった。
 封蝋の赤が、血みたいに見えた。

 ヴィオラが静かに言う。

「お嬢様。封を」

 封をする。
 封をすれば、戻れない。
 戻れないことが、怖い。
 でも、戻りたい場所はもうないのかもしれない。
 ——それが一番怖い。

 リリアーヌは封蝋を落とし、家紋を押した。
 小さく“カチリ”と音がした。
 その音が、胸の奥の何かに鍵をかける音に聞こえた。

 翌朝、王宮はいつも通りに動いていた。
 儀礼長ルチアが廊下を横切り、侍従が走り、貴族の馬車が門を出入りする。
 世界は何も変わらない。
 変わったのは、リリアーヌの“線”だけだ。

 ヴィオラが封書を持って戻ってくる。

「ユリウス殿に届けました。受領の返答も」

「……そう」

 返答、という単語が冷たい。
 返答は、仕事の言葉。
 恋の言葉ではない。
 恋の言葉は、そもそも私には届かない。

 正午近く、王宮の控え室で書類整理をしていると、扉が強めにノックされた。
 珍しい。
 ここは静かにノックするのが礼だ。
 強いノックは、感情の形だ。

「入って」

 ヴィオラが先に立ち、扉を開ける。

 そこにいたのは、アレクシスだった。

 黒の装い。
 森色の瞳。
 そして——いつもより硬い表情。

 彼は挨拶も短く、いきなり言った。

「……ユリウスから聞いた。連絡経路を変えると」

 “聞いた”
 その言い方が、遠い。

 リリアーヌは微笑んだ。
 薄い微笑。
 もう慣れた。

「はい。ご不便でしょうか」

 丁寧な問い。
 しかし本音は違う。
 不便でも構わない。私はもう、隣に立てない。

 アレクシスは眉を寄せた。

「不便ではない。……なぜだ」

 なぜ。
 また、なぜ。
 でもあなたは、私の“なぜ”に答えない。

 リリアーヌは胸の奥を押さえ、息を整えた。

「礼節のためです」

「礼節?」

「はい。噂がある以上、距離を正すのが自然ですわ」

 自然。
 その言葉が、アレクシスの顔を一瞬だけ固めた。
 自然。
 彼がずっと使ってきた言葉を、今度は私が武器にした。

「……俺は、距離を取れと言った覚えはない」

 その言葉に、胸が痛む。
 覚えがない。
 あなたはいつも、覚えがない。
 言っていないから。説明していないから。

 リリアーヌは微笑んだまま答える。

「命令ではなく、私の判断です」

 あの言葉と同じ。
 同じ言葉を繰り返すほど、私の心は固くなる。

 アレクシスが一歩近づきかけ、止まる。
 止まるのは、彼の癖。
 触れる言葉を知らない。

「……俺は」

 言いかけて、止まる。
 また止まる。

 リリアーヌは、その沈黙に耐えられなくなった。
 沈黙は、期待を作る。
 期待は、私を殺す。

「公爵様」

 リリアーヌは柔らかく言った。柔らかく切るために。

「ご安心ください。公務に支障は出しません」

 その言葉は、刃だ。
 “私たち”を“公務”に落とす刃。

 アレクシスの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
 怒りではない。
 理解できない痛みの揺れ。

「……支障がなければ、それでいいのか」

 低い声。
 初めて、少しだけ“感情”が混じる。

 リリアーヌは、微笑を保つのに必死だった。
 それでいいのか。
 いいわけがない。
 でも、いいと答えなければ崩れる。

「はい。……それで、十分です」

 嘘じゃない。
 十分だと思い込まなければ、生きられない。

 アレクシスは、何か言いたげに唇を動かし、結局言葉を飲み込んだ。
 そして、踵を返す。
 去り際の背中が、昨夜より硬い。

 扉が閉まる。
 静けさが戻る。
 戻った静けさは、冷たい。

 リリアーヌは机の上の予定表を見た。
 そこに並ぶ王宮行事の列。
 その中に、これまで当然のようにあった“公爵と同席”の文字が、次々と消えていく未来が見える。

 ヴィオラが低く言う。

「……閣下の予定から、お嬢様が消えますね」

 リリアーヌは頷いた。
 頷くしかない。

「消えるほうが、きっと正しいの」

 正しい。
 正しいという言葉で、今日も心を縛る。

 けれど、消えるほどに、噂は静まる。
 静まるほどに、彼の心は——どうなるのだろう。
 想像したくないのに、想像してしまう。
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