あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第20章|休む許可

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 静養が決まった翌朝。
 屋敷はいつもより静かだった。静かすぎて、逆に耳が痛い。

 リリアーヌは寝台から起き上がろうとして、ふと手を止めた。
 窓辺のカーテンが淡く揺れている。
 朝日は優しいはずなのに、今日はまぶしすぎた。

 ——休む。
 ただ休むだけ。
 それなのに、胸がざわつく。

 体が怠い。頭が重い。
 眠ったはずなのに、眠った気がしない。
 夢の中でも礼をして、笑って、聞き分けの良い返事をしていた。

「お嬢様」

 ヴィオラが、湯気の立つ白湯を盆に載せて入ってくる。
 動きは静かで、音も立てない。
 侍女長の“静かさ”は、気遣いではなく管理だ。
 管理されるほど、自分が弱っていることを思い知らされる。

「……起きて大丈夫よ」

 口にしてから、言葉が空虚だと分かった。
 大丈夫かどうかなど、誰が決めるのだろう。

 ヴィオラは白湯を差し出し、穏やかに言う。

「大丈夫かどうかは、お嬢様ではなく、お体が決めます」

 優しいのに、逃げ道がない。

 リリアーヌは白湯を口に含んだ。
 温かい。
 温かさが喉を通るだけで、涙が出そうになる。
 温かいものを受け取るのが久しぶりだった気がした。

 そこへ、扉がノックされた。
 執事ではない。侍従でもない。
 屋敷の空気が少しだけ固まる音がした。

「——レイヴン公爵閣下からでございます。書簡を」

 侍女が差し出した封蝋の赤が、妙に鮮やかだった。

 リリアーヌは、受け取ろうとして手を止めた。
 封を切れば、また心がざわつく。
 切らなければ、何も変わらない。
 どちらにせよ、痛い。

 ヴィオラが代わりに受け取り、淡々と告げる。

「お嬢様は静養中です。内容は私が確認します」

 侍女長の声は、盾だ。
 リリアーヌは盾の陰で、少しだけ呼吸が楽になる。
 楽になったことが、情けなくもあった。

 ヴィオラが封を切り、目を走らせる。
 読み終えた顔が、ほんの僅かに険しくなる。

「……閣下は、本日中にお見舞いに来られると」

 胸がひやりとした。

「断って」

 言葉が、思ったより早く出た。
 拒絶しているつもりはない。
 ただ——今会えば、薄い微笑が剥がれてしまう。
 剥がれたら、戻せない。

 ヴィオラはすぐに頷かない。
 頷かないのは、敵だからではない。
 お嬢様を守るために、別の判断をするからだ。

「お嬢様。医師は“避けない方がよい”と」

「……でも、私……」

 言葉が詰まる。
 “でも”の先に何を言えばいい。
 会いたくない。会えば苦しい。
 苦しい理由は言えない。

 ヴィオラは、ふっと息を吐き、柔らかく言った。

「会う必要はありません。
 ですが、拒むと“拒絶”として残ります」

 拒絶。
 その言葉が、診察室の空気を思い出させる。
 拒絶しているつもりはない。
 礼節で撤退しているだけ。
 ——それでも、相手には拒絶に見える。

 リリアーヌは白湯の杯を置いた。指先が震えた。

「……なら、手紙で十分だわ」

 それなら礼節で済む。
 言葉で距離を固定できる。
 それが、今の自分の安全策だった。

 ヴィオラは小さく頷いた。

「では、閣下には“お嬢様から”お返事を」

 自分から。
 自分の言葉で。
 それが、静養の最初の試練みたいに思えた。

 リリアーヌは机に向かい、ペンを取った。
 青いインクが紙に滲む。
 短く、丁寧に。
 余計な温度を含めないように。

『ご配慮、痛み入ります。
 医師の指示により静養しておりますので、お見舞いはご遠慮くださいませ。
 公務に関する連絡は、これまで通り侍女長ヴィオラを通していただければ幸いです。
 ——ご心配なく』

 最後の一言を書いた瞬間、ペン先が止まった。
 “ご心配なく”
 それは、相手を安心させる言葉のはずなのに、
 自分を遠ざける刃になる。

 書いてしまった。
 書いてしまえば、引き返せない。

 ヴィオラが封をし、侍女に渡す。
 扉が閉まると同時に、部屋がまた静かになった。

 静かすぎる。
 静かすぎて、心の音が聞こえる。

「……これで、いいのよね」

 リリアーヌは、自分に言い聞かせるように呟いた。
 休むために。
 壊れないために。
 これ以上、誰にも迷惑をかけないために。

 ヴィオラは、返事をしない。
 返事をしない優しさが、胸に痛い。

 昼過ぎ、庭の方から馬車の音が聞こえた。
 屋敷の誰かが窓辺に立ち、ざわりとした気配が走る。

 ——来たの?

 胸が跳ねた。
 書簡は届いたはず。
 それでも来たのなら、彼は礼節を破っている。
 礼節を破ってまで来たのなら、何を言うつもりだ。

 リリアーヌは、息を止めた。
 そして——次の瞬間、侍女が慌てたように入ってくる。

「お嬢様……ブランシュ卿がお見えでございます」

 ガブリエル。
 恋敵。
 でも、今の彼は“恋敵”というより、
 こちらの意志を尊重する人——という印象のほうが強い。

「……通して」

 口にしたあと、自分でも驚いた。
 アレクシスは拒んだのに、ガブリエルは通す。
 その違いが、胸に刺さる。

 ガブリエルは応接間ではなく、廊下で礼をした。
 寝室近くへは踏み込まない。
 無理に距離を詰めない。
 それだけで、呼吸が少し楽になる。

「突然すまない。妹が、君の顔色を気にしていた。
 ——花を」

 差し出された花束は、淡い色。
 派手ではない。
 けれど、確かに“好きそうだ”と思える色だった。

 リリアーヌは花を見つめ、ほんの少しだけ笑った。
 薄い微笑ではない。
 小さな、自然な笑み。

「……ありがとう」

 声が、久しぶりに柔らかい。

 そのやり取りを、廊下の角から誰かが見ていた。
 気配だけで分かる。
 屋敷の者ではない。
 硬い空気。

 ——アレクシス?

 振り向きたくない。
 振り向けば、微笑がまた薄くなる。

 ガブリエルはそれに気づいたのか、声を落とした。

「無理に話さなくていい。
 君が休めるように、俺は“来た”という事実だけ置いて帰る」

 事実だけ。
 それは、優しい。
 優しさが、残酷でもある。
 比べてしまうから。

 リリアーヌは花束を抱き、静かに言った。

「……私は、初恋泥棒じゃない」

 急に零れた言葉に、自分でも驚いた。
 でも、言ってしまいたかった。
 自分の潔白を、自分で守りたかった。

 ガブリエルは微笑まず、真剣に頷いた。

「知ってる。
 君は奪ってない。——君は、ただ好きになっただけだ」

 その一言が、胸の奥の固い塊を少しだけ溶かした。

 扉の向こうで、誰かの靴音が止まった。
 止まったまま、動かない。
 聞いている。
 聞いているくせに、入ってこない。

 リリアーヌは唇を噛んだ。
 入ってこない沈黙が、いちばん痛い。

 ガブリエルは礼をし、踵を返す。

「休め。——泣くのは、元気になってからでいい」

 泣くのは元気になってから。
 そんな許可があることを、リリアーヌは知らなかった。

 ガブリエルが去り、廊下に残った静けさの中で、
 リリアーヌは花束の香りに顔を寄せた。

 温度のあるものが、少しだけ呼吸を戻してくれる。

 けれど——扉の向こうの沈黙は、まだそこにある。

令嬢は「ご心配なく」で距離を固定し、公爵はそれを“拒絶”だと誤読する。そこへ恋敵ガブリエルの見舞いが入り、令嬢がほんの少し笑う——それが、公爵の胸に決定的な痛みを生む。
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