あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第21章|見舞いの花

 翌朝。
 リリアーヌは、少しだけ長く眠れた——はずだった。

 目を開けた瞬間、胸の奥に重い石が沈んでいる。
 眠った時間の分だけ、痛みが薄くなるわけではない。
 むしろ、眠れたことで“自分は休める状態なのだ”と認めさせられて、余計に怖くなる。

 窓辺に淡い光。
 鳥の声。
 それでも部屋の空気は冷たいままだった。

 ヴィオラがカーテンを開け、湯気の立つ白湯と、薄い粥を運んでくる。
 卓上は完璧に整えられている。
 完璧すぎて、息が詰まる。

「……少しでいいの」

 リリアーヌが言うと、ヴィオラは頷いた。

「ええ。三口だけでも」

 三口。
 数えることで、食べることが義務になる。
 義務ならできる。
 できることが、哀しい。

 スプーンを口に運ぶ。
 味はするのに、喉が拒む。
 飲み込むたび、胃のあたりがぎゅっと縮む。

 そんなとき、扉が控えめにノックされた。

「お嬢様。……ブランシュ卿からお届け物が」

 リリアーヌの指先が、スプーンの柄で止まる。

 ガブリエル。
 昨日は顔を出した。今日は“届け物”。
 距離の取り方が、相変わらず丁寧で、優しい。

「……通して」

 返事が出るより先に、胸が少しだけ落ち着くのが分かった。
 落ち着いてしまう自分が、痛い。

 侍女が持ち込んだのは、小さな花瓶に活けられた花だった。
 大げさな花束ではない。
 香りが強すぎない。
 淡い——薄紫と白、少しだけ青みのある花びら。

 リリアーヌは、花を見た瞬間、息を呑んだ。

 好きな色。
 正確に言えば、“好きだと口にしたことがある色”。

 幼い頃、母セリーヌにドレスを選ばせられたとき、
 淡い薄紫に目が留まってしまって、慌てて視線を逸らした。
 あのとき母が笑って言った。
 「あなた、こういう色が好きね」
 ——誰にも知られたくなかったのに。

 なのに今、その色がここにある。

「……どうして」

 声が、思ったより素直に出てしまった。
 ヴィオラが目を細める。
 驚きと警戒が混じった目。

 侍女がメモを差し出す。
 短い紙片。折り目はきっちり。字は端正。

『静養中と聞いた。香りの強いものは避けた。
 君が嫌いでない色を、妹に確認しただけだ。
 返事はいらない。休め』

 “嫌いでない色”
 ——好きだと言ってくれないところが、彼らしい。
 押し付けない。決めつけない。
 ただ、支える。

 リリアーヌの胸の奥で、固いものが少しだけ緩んだ。

「……返事はいらない、って」

 呟くと、ヴィオラが静かに言った。

「ブランシュ卿は、踏み込みません。
 踏み込まないことで、心を守る方です」

 守る。
 その言葉が、昨日から胸の中で何度も転がっている。

 リリアーヌは花瓶に指先を触れた。
 冷たいガラス。
 でも、花は確かに生きている。

 そのとき——廊下の向こうで、足音が止まった。

 複数の足音。
 侍従の声。
 そして、低い男の声が混じる。

「……ここか」

 胸が、キュンと縮んだ。

 アレクシス。
 来ないで、と手紙に書いたはずなのに。
 それでも来たのか。
 礼節を破ってまで?

 リリアーヌは花瓶から手を離し、背筋を正した。
 背筋を正す。
 礼節の鎧を着る。

 ヴィオラがすぐに動く。

「お嬢様、会う必要は——」

「……いいわ」

 言ってしまった。
 言ってしまった以上、逃げない。
 逃げないふりをする。
 それが、今の自分の“強さ”だった。

 扉が開く。
 アレクシスが入ってきた。
 昨日の診察室より、顔色が悪い。
 外套を着たまま。
 手には何も持っていない。
 何も持っていないのに、部屋の空気だけが重くなる。

 アレクシスの視線が、まず花に落ちた。
 花瓶。淡い薄紫。
 そして、リリアーヌの指先に残る“触れた跡”。

 一瞬。
 本当に一瞬だけ、彼の表情が崩れた。

「……誰からだ」

 声が低い。
 問いというより、確認。
 確認というより、痛み。

 リリアーヌは微笑んだ。薄い微笑。
 薄い微笑に戻ってしまう自分が、また痛い。

「お見舞いですわ。ブランシュ卿から」

 アレクシスの喉が、小さく動いた。
 飲み込んだのだろう。
 何か、飲み込んだ。

「……君は、あいつが好きなのか?」

 その問いが、胸を刺した。
 笑った。
 ほんの少し笑った。
 笑ってしまった。

 リリアーヌは答えない。
 答えたら、また比べてしまう。
 比べたくないのに、比べる。

 ヴィオラが一歩前に出る。

「閣下。お嬢様は静養中です。刺激になる言葉は——」

 アレクシスはヴィオラを見ずに、リリアーヌだけを見る。

「俺の見舞いは……必要ないのか」

 必要ない、と言いたい。
 言えば楽だ。
 でも、必要ないと言ってしまったら、もう戻れない。

 リリアーヌは、礼節の言葉を選んだ。

「ご配慮は、痛み入ります」

 丁寧。
 完璧。
 そして、冷たい。

 アレクシスの眉が寄る。
 混乱と苛立ち。
 苛立ちの奥に、焦り。

「……それだけか」

 それだけ。
 それだけで済ませたい。
 済ませられないから苦しいのに。

 リリアーヌは、微笑のまま言った。

「医師の命令で静養しております。
 どうか——ご心配なく」

 また、その言葉。
 自分で自分の首を締めるみたいに、繰り返す。

 アレクシスは息を吸い、吐く。
 吐いた息が、少し震えた。

「心配するなと言われて——心配しない男が、どこにいる」

 その言葉は、少しだけ人間の声だった。
 仕事の声じゃない。

 リリアーヌの胸が揺れた。
 揺れたのに、言葉が出ない。
 言葉を出したら、崩れる。

 彼は、花瓶を見た。
 淡い薄紫。
 ——彼は知らない。
 彼女がこの色を好きだと。

 知らないことが、今ここで残酷に光っている。

 アレクシスは、声を落とした。

「……俺は、何をすればいい」

 何をすればいい。
 その問いに答えられたら、どれほど楽だろう。
 でも答えた瞬間、彼は“正解”を仕事として実行する。
 そうじゃない。
 欲しいのは、正解じゃない。

 リリアーヌは、唇を噛んだ。
 噛んだ痛みで、涙を止める。

「……静養させてくださいませ」

 それだけ。
 それだけしか言えない。

 アレクシスの目が、僅かに細くなる。
 怒りではない。
 自分の無力への怒り。

「分かった」

 短く言い、踵を返す。
 去り際、扉のところで一度だけ振り返った。

「……花、似合っている」

 それが彼の精一杯の言葉だと分かった。
 分かったのに、胸が痛い。
 花が似合う、と言われて嬉しいはずなのに、
 その花を“選んだのが自分ではない”ことが、ただ苦しい。

 扉が閉まる。
 残ったのは、花の淡い香りと、言葉にならない沈黙。

 リリアーヌは花瓶を見つめ、ぽつりと呟いた。

「……知らないのね」

 ヴィオラが小さく息を吐く。

「閣下は、知らないことに気づいておりません。
 ——気づいたときが、いちばん痛いでしょう」

 痛い。
 その痛みは、公爵のものだ。
 でも今は、リリアーヌの胸も痛い。

 花は淡く揺れた。
 揺れた花の影が、テーブルの上で踊る。

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