あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第19章|医師の診断

 朝の光は、容赦がない。
 夜のあいだに貼り直した微笑を、薄く剥がしていく。

 リリアーヌは鏡の前で、口角を上げた。
 上がる。——ちゃんと上がる。
 それが、いちばん怖い。

 頬にわずかに色を足し、髪を整え、袖口の刺繍を指先でなぞる。
 いつも通りの手順。いつも通りの礼節。
 “いつも通り”でいれば、壊れない。壊れないと信じ込まなければ歩けない。

「お嬢様」

 背後から、ヴィオラの声が落ちた。
 侍女長の声は低い。だが今日は、いつもより硬い。

「……医師をお呼びいたします」

 リリアーヌは鏡の中で瞬きをした。拒否の言葉が喉まで上がってきて、飲み込む。

「大げさよ。少し眠れていないだけ」

 眠れていない“だけ”。
 嘘ではない。けれど、本当は——眠れない理由が怖い。

 ヴィオラは言い返さない。
 侍女長が言い返さないときほど、決定は固い。

「眠れていないのは“だけ”ではありません。
 お食事も、ほとんど召し上がっていない」

 リリアーヌは視線を逸らした。
 食欲がない。口に入れれば吐き気がする。
 吐き気は、胸の奥の“言葉にならない痛み”が形になったものだ。

「……公務は」

「本日の公務は、王妃殿下に調整をお願いしてあります」

 もう逃げ道はない。

 リリアーヌは微笑を作り直し、頷いた。

「……分かったわ」

 その返事が、どこか他人の声みたいだった。

 医師は王宮付きの老医師、ドクター・マティアス。
 白髪を整え、柔らかい目をしている。だが、甘くない。
 甘くない優しさは、見抜いてしまう。

 診察室には薬草の香りが漂い、木の椅子が静かに並んでいた。
 外の庭園の音が遠い。ここだけ、世界の速度が落ちる。

 リリアーヌは椅子に座り、手袋を外す。
 指先が冷たい。
 ヴィオラが隣に立ち、背中に盾のような気配を置いた。

 マティアスが脈を取る。
 指の腹が淡々とリズムを拾うたび、胸が落ち着かなくなる。

「眠れないのは、いつからですか」

「……数日です」

 数日。実際はもっと前から眠りは浅い。
 でも“数日”と答えれば、軽くなる気がした。

「食欲は」

「……ありません」

 言った瞬間、負けた気がする。
 何に負けたのか分からないのに。

 診察は丁寧で、短い。
 瞼の裏を覗き、喉を触れ、背中に聴診器を当てる。
 冷たい金属が肌に触れた瞬間、リリアーヌは小さく息を吸った。
 冷たいものに、体が過敏になっている。

 終えると、マティアスは椅子に腰を下ろし、穏やかに言った。

「大きな病ではありません」

 その言葉に、リリアーヌはほっとした。
 ほっとしたことが、哀しい。
 大きな病なら理由がはっきりする。
 理由がはっきりしないまま苦しいのが、いちばん厄介だ。

 マティアスは続ける。

「ですが——心が疲れています」

 喉が詰まった。
 心が疲れている。
 それを言われると、もう隠せない。

 ヴィオラが、代わりに淡々と言った。

「お嬢様は礼節を守ろうとされます。守りすぎて、折れそうです」

 折れそう。
 その言葉が胸を刺す。
 折れたらどうなるのだろう。折れるのは嫌だ。
 でも折れることを、少しだけ望む自分もいる。
 折れれば、休めるから。

 マティアスは紙に短く書きつけた。

「静養が必要です。最低でも一週間。
 睡眠と食事を取り戻すこと。——命令です、令嬢」

 命令。王宮医師の命令は、王妃の意向と同義だ。
 逆らえない。

 リリアーヌは微笑を貼り、頷いた。

「承知しました」

 “承知しました”は、心が閉じるときの言葉だった。

 マティアスは視線を上げ、穏やかに釘を刺す。

「返事は結構。
 でも守るのは、あなたの体です。体が壊れれば、礼節も何もありません」

 目を伏せる。涙が出そうになる。出したくない。
 出したら、きっと戻れない。

 そのとき、診察室の扉がノックされた。
 侍従が顔を出し、躊躇いがちに告げる。

「……レイヴン公爵閣下がお見えでございます」

 空気が一瞬で固まった。

 会いたくない。
 会えば、微笑が崩れる。崩れたら、戻らない。

 ヴィオラがすぐに口を開く。

「閣下には——」

 けれどマティアスが静かに首を振った。

「今は、避けない方がよいでしょう。
 令嬢が“拒絶”を積み重ねるほど、心は頑なになります」

 拒絶。拒絶しているつもりはない。
 礼節で撤退しているだけ。
 けれど相手には拒絶に見える。——それもまた誤解を育てる。

 扉が開き、アレクシスが入ってきた。
 外套を肩にかけたまま。
 目は真っ直ぐで、顔色がわずかに悪い。
 彼も眠れていないのだろうか——そんなことを考える自分が悔しい。

「……診断は」

 最初の言葉が、それ。
 仕事の顔。心配の仕方も仕事の形。

 リリアーヌは薄く微笑んだ。薄い微笑は、今日も役に立つ。

「大きな病ではありません」

 彼の肩がほんの僅かに落ちた。安心したのだと分かる。
 分かるのに、嬉しくない。

 アレクシスは一歩近づき、低く言った。

「原因は」

 原因を聞くなら、答えが要る。
 答えには言葉が要る。言葉は痛い。

 リリアーヌは目を逸らさずに言った。

「疲れですわ」

 真実を薄くした言葉。

 マティアスが代わりに告げる。

「不眠と食欲不振。精神疲労です。静養が必要。最低一週間」

 精神疲労。
 “心の問題”は礼節の世界では触れづらい。
 触れづらいからこそ放置され、放置されるから悪化する。

 アレクシスの瞳が揺れた。
 揺れは動揺だ。彼の動揺を、初めて見た気がした。

「……一週間?」

 声が掠れる。仕事の声ではない。

 リリアーヌは微笑んだ。

「ご心配なく」

 出てしまった。いつも通りの、刺さる言葉。

 アレクシスの眉が寄る。怒りではなく混乱。

「心配なく、だと……」

 彼は何か言いたげに唇を動かすが、結局言葉にならない。
 言葉にならない沈黙が、また落ちる。

 リリアーヌは、その沈黙が怖くて、さらに柔らかい声で距離を固定する。

「静養いたします。
 公務の連絡は、これまで通り侍女長を通して」

 仕事の言葉で線を引く。線を引かないと、崩れるから。

 アレクシスの視線がヴィオラへ移る。
 ヴィオラは一歩も引かない。盾の目で、公爵を見る。

 アレクシスは拳を握るのを堪えたように見えた。

「……分かった」

 分かった。——それだけ。
 理由を問わない。理由を言わない。

 胸が冷える。冷えるのに痛い。痛いのに泣けない。

 去り際、マティアスがアレクシスへ穏やかに言った。

「閣下。礼節は結構。
 ですが、心は礼節では治りません」

 アレクシスは返事をしなかった。
 返事ができないまま一礼し、診察室を出る。

 扉が閉まる。残った空気が重い。

 リリアーヌは息を吐いた。吐いた息が小さく震えた。

 ヴィオラが、そっと言う。

「お嬢様……今日は、よく耐えました」

 耐えた。
 耐えるだけでは、いつか折れる。
 それでも、耐えるしかないと知っている。

 リリアーヌは薄く微笑み、囁く。

「静養するわ。……だから、大丈夫」

 自分に言い聞かせる言葉だった。

医師の診断で“静養”が決まり、令嬢は「ご心配なく」と笑って休む。公爵はそれを“拒絶”だと誤読する。——次章、恋敵ガブリエルが見舞いに来る

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