あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第24章|否定できない理由

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 ロザリーが去ったあと、部屋は静かだった。
 静かなのに、耳だけがうるさい。

 カップが受け皿に触れる音。
 暖炉の薪が弾ける小さな破裂。
 廊下の遠い足音。

 “静養”という言葉の中に、これほど多くの音があるなんて知らなかった。
 音があるたびに、心が「まだ終わっていない」と告げてくる。

 窓辺の花瓶には薄紫と白の花が挿してある。
 ガブリエルが贈った花。
 好きな色を、当然のように当てられることが、今のリリアーヌには少し怖い。

 ヴィオラが窓を少しだけ開け、冷たい空気を入れ替えた。
 冬の匂いがした。凍った石畳の匂い。
 頭は冴えるのに、胸の奥だけが重いままだ。

「お嬢様」

 ヴィオラの声は低く、慎重だった。

「先ほどのロザリー様のお言葉……お辛いのは分かります。ですが——噂だけで結論を急ぐのは」

「噂じゃないわ」

 リリアーヌは花を見ないまま言った。
 見れば比べる。比べれば自分を責める。
 今はそれが、いちばん痛い。

「噂の形をした“答え”よ。……閣下は否定しないもの」

 ヴィオラの口がわずかに開いた。
 反論が浮かんだのだろう。
 でも、飲み込む。彼女はお嬢様の心の弱い場所を知っている。
 “否定しない”という一点が、どれほど致命的かも。

 その直後、扉がノックされた。

 今度のノックは重い。
 迷いがあるのに、引き返さない音。

「……閣下です」

 侍従の声が、扉の外から聞こえた。

 リリアーヌの胸がきゅっと縮む。
 先日も——来た。
 薬湯の匂いの残る部屋で、彼は“気遣い”だけを置いて帰った。
 あの時、救われたのではない。
 救われないまま、期待が少しだけ延命しただけだ。

「……通して」

 扉が開き、アレクシスが入ってきた。
 外套は脱いでいる。肩の線は硬い。
 目の奥に薄い影があり、疲れを隠しきれていない。
 ——先日よりも、眠れていない顔だ。

 リリアーヌは礼節の微笑を作った。
 きちんとした微笑。
 きちんとしているほど、遠い。

「また来たのか」

 自分で思うより早く、声が出た。
 責めるつもりはないのに、責める響きになる。

 アレクシスは一瞬だけ視線を落とし、短く頷いた。

「静養中だ。……無理はさせたくない。
 先日も言ったが、長居はしない。邪魔ならすぐ帰る」

 “先日も言った”。
 その一言に、リリアーヌの胸がちくりとする。

 彼はいつも、同じ形の気遣いをくれる。
 同じ形の気遣いは正しい。
 でも、正しいだけでは——届かない。

「ご配慮、痛み入ります」

 礼節で返すと、部屋の温度が下がる。
 自分でも分かる。
 分かっているのに、礼節を脱げない。

 アレクシスの視線が、自然と花瓶へ移った。
 薄紫と白の花。
 淡い色は柔らかいのに、彼の目は僅かに硬くなる。

「……ブランシュ卿が?」

「見舞いに。花を」

「……そうか」

 それだけ。
 それ以上、言わない。
 言わないのに、空気だけが刺々しくなる。

 沈黙が落ちる。
 沈黙を破る役目は、またリリアーヌに回ってくる。

 リリアーヌは息を整えた。
 涙を飲むより、言葉を選ぶ方が苦しい日もある。

「……閣下に、確かめたいことがございます」

 アレクシスの眉がわずかに動く。
 それだけで、彼が“逃げ道”を探す癖を思い出してしまい、胸が疼いた。

「何だ」

 短い返事。短いのに、声はいつもより低い。

 リリアーヌは視線を外した。
 正面から見れば、揺れが露わになる。
 だから、花瓶の水面の方を見ながら言った。

「……先日、回廊で。
 閣下が側近の方とお話しされているのを、偶然——耳にいたしました」

 “偶然”という言葉が、舌に苦い。
 盗み聞きのようで、恥ずかしい。
 けれど、聞いてしまったのは事実だった。

「好きな方がいる。……片思いだ、と」

 言い終えた瞬間、喉がきゅっと縮む。
 アレクシスの目が、僅かに揺れた。

「……あれを、聞いたのか」

 否定しない。
 それだけで、胸の奥が冷える。

 リリアーヌは微笑の形だけを残して続けた。

「その“好きな方”が——どなたなのか。
 私は、ずっと考えてしまいました」

 考えてしまうのは、悪いことではない。
 でも、考え続けた末に出る答えが、怖い。

 これ以上、遠回しにできなかった。
 遠回しにすれば、また“正しさ”に逃げられる。

 リリアーヌは、静かに問いを置いた。

「……閣下。
 その方は、エリザ様なのですか」

 部屋の空気が、ぴんと張る。
 暖炉の音さえ遠くなる。

 アレクシスは答えない。
 答えない沈黙が、答えに育つのが怖い。

 だからリリアーヌは、もう一段だけ踏み込む。
 攻めるためではない。崩れないために。

「違うのであれば、違うと——言ってくださいませ」

 アレクシスは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
 閉じたまま、息を吐く。
 そして、ようやく口を開いた。

「……違う」

 短い否定。
 その否定だけで救われるほど、リリアーヌはもう軽くない。

「では、なぜ——」

 言いかけたリリアーヌの言葉を、アレクシスが遮る。

「言えない理由がある」

 言えない。
 またその言葉。
 また“言えない”で、彼の世界は完結する。

「……私には、言えないのですね」

 微笑がすっと薄くなる。
 薄くなったぶんだけ、声が冷える。

「違う。君に言えないんじゃない。……今ここで言えば、彼女が壊れる」

 “彼女”。
 その代名詞だけで、胸が痛んだ。

「エリザ様のこと?」

 アレクシスは頷かなかった。
 でも否定もしない。
 否定しないことが、また胸を刺す。

 リリアーヌは、手の震えを隠すようにカップへ指を添えた。
 温度はあるのに、指先が冷たい。

「なら——なぜ、外套を掛けたのですか」

 あの回廊。
 あの瞬間。
 優しさのように見えた善意が、リリアーヌの心を折った。

「寒がっていた」

「それだけですか」

「それだけだ」

 それだけ。
 それだけで済ませられるほど、見た側の心は簡単じゃない。

 アレクシスは拳を握った。
 何かを言いかける。
 けれど、言葉が出てこない。
 “正しい言葉”しか持っていない男の、苦しい沈黙。

 そして、彼はようやく“否定できない理由”を口にした。

「……俺には、守る義務がある」

 義務。
 また義務。
 また正しさ。

「エリザの夫——先代の領主とは、戦場で約束をした。
 彼が死んだとき、俺が遺児と領地を守ると。
 王家の命令ではない。……俺の誓いだ」

 誓い。
 高潔。
 立派。
 正しい。

 正しいからこそ、リリアーヌは、ゆっくり頷けてしまった。
 頷けてしまう自分が、いちばん苦しい。

「立派ですわ」

 声は震えなかった。
 震えないことが、泣いているより痛いと知っているのに。

「……エリザ様が、羨ましいです」

 アレクシスの瞳が僅かに揺れる。
 初めて、言葉が届いたような揺れ。

 リリアーヌは淡々と続けた。

「私には——“守る義務”を口にしてまで、守ってくださる方がいないので」

 沈黙が落ちる。
 落ちた沈黙の中で、暖炉がひとつ、ぱち、と鳴った。
 その音が、なぜか区切りに聞こえた。

「……違う。俺は——」

「いいえ。責めているのではありません」

 リリアーヌは微笑む。
 礼節の微笑ではない。
 “自分を守るための微笑”だ。

「ただ、気づいただけです。
 私は、私の心を——私が守らなければならないのだと」

 アレクシスの喉が動く。
 何かを言おうとする。
 けれど彼の言葉は、いつも少し遅い。

「……それが、あなたの沈黙の理由なのですね」

「沈黙しているつもりは——」

「しております」

 リリアーヌは静かに言い切った。
 静かだからこそ、重い。

「否定できるのに、説明しない。
 説明しないのに、私には理解を求める。
 ——それを沈黙と言わず、何と呼ぶのですか」

 アレクシスの目が揺れる。
 怒りではない。
 痛みが見える。
 でも、その痛みを言葉に変える術を彼は知らない。

「……君を巻き込みたくない」

「巻き込まれておりますわ」

 リリアーヌは淡々と告げた。

「噂も、視線も、憶測も。
 私はすべて受けて、今日まで礼節で耐えました」

 息が詰まる。
 でも、詰まった息を吐かなければ、次の息は吸えない。

「守る義務を選ぶのは、立派です。
 ——けれど私は、“守られるだけの理解”では生きられません」

 アレクシスの唇が開きかけて、閉じる。
 言える言葉がない。
 言葉が足りない男だと、王妃が言った通りだ。

 リリアーヌは深く礼をした。
 完璧な礼。
 完璧であるほど、終わりの礼だ。

「静養いたします。
 これ以上、私の心に“正論”を落とさないで」

「リリアーヌ、待て」

 アレクシスが一歩踏み出す。
 その靴音が、やけに近い。

「——俺は、君を」

 その先が聞きたい。
 聞きたいのに、聞いたら戻ってしまう。
 戻ったらまた折れる。
 次は、本当に立ち上がれない気がした。

 リリアーヌは振り返らなかった。

 扉の前で、ヴィオラがそっと目を伏せる。
 彼女は何も言わない。
 言わないことが、今は救いだった。

 リリアーヌは小さく息を吐いた。

 ——分かってしまったのだ。
 アレクシスは悪い人ではない。
 でも、私の心を守る人でもな
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