あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

文字の大きさ
25 / 39

第25章|退く決意

 翌朝。
 リリアーヌは、いつもより少し早く目が覚めた。

 眠れた、とは言えない。
 浅い水面を漂うように意識が浮いては沈み、胸の奥の重さだけが最後まで残った。
 けれど不思議と、昨夜のような痛みの波は来ない。

 痛みが消えたのではない。
 痛みに“名前”が付いたのだ。

 ——義務。誓い。守る理由。
 そして、その理由を「言えない」で閉じる沈黙。

 窓の外は白い朝靄。
 庭の噴水は凍りかけて、石の縁に薄い氷が張っている。
 それを見ていると、自分の胸の内も同じだと思った。
 透明に固まり、誰にも掬えない。

「お嬢様、温かいものを」

 ヴィオラが銀の盆を運び込む。
 薬草の香りが混じった蜂蜜湯。
 飲めば身体は温まる。心は温まらない。
 けれど、温まらないことを恥だと思わなくなっている自分がいた。

「……昨日、閣下は——」

 ヴィオラが言いかけて、口を閉じた。
 聞かれたくないのだと誤解したのではない。
 彼女は、リリアーヌが自分の言葉で言うのを待っている。

 リリアーヌはカップを両手で包み、息を整えた。

「“守る義務がある”と」

 言葉にした瞬間、胸がきゅっと縮む。
 縮むのに——折れない。
 昨夜までの自分なら、その一言で泣いていただろう。

「立派だと思うの。誓いも、責任も」

 ヴィオラは黙って頷いた。
 肯定ではない。見守りだ。

「でも私は……“立派”のために、私の心を差し出せない」

 言ってしまうと、決意が形になって戻ってきた。
 逃げられない形。

 リリアーヌはカップに口を付けた。
 蜂蜜湯が喉を通り、身体の奥が少しだけ温まる。
 温まったぶんだけ、言葉が出る。

「私、下がるわ」

「……社交の前線から、でございますね」

「ええ」

 “前線”という言い方が、妙に腑に落ちた。
 社交は戦場。笑顔は鎧。噂は矢。
 そしてリリアーヌは、鎧の下に傷を増やし続けていた。

「私が前に立つほど……噂は、理由を得る」

 ——公爵が守る相手は未亡人。
 ——公爵令嬢は邪魔者。
 ——哀れなエリザ様を追い詰める冷たい女。

 昨夜までなら、噂を否定する言葉を探した。
 今日はもう探さない。

 噂の相手を殴り返すのは簡単だ。
 でも、それをした瞬間に、自分の品位が落ちる。
 品位が落ちれば、「ほら見たことか」と周囲が喜ぶ。

 ——だから、下がる。
 この国の社交界が好む“絵”から、自分を外す。

「閣下のために?」

 ヴィオラの問いは刺ではなく、確認だった。

 リリアーヌは少し考えてから、首を横に振った。

「半分は……私のためよ」

 正直に言うと、胸がすっとした。
 自分のために選ぶ、というだけで、こんなに楽になるとは知らなかった。

「もう半分は——」

 声が少しだけ低くなる。

「エリザ様のため」

 ヴィオラの目が驚きに開かれる。

「お嬢様……」

「私、羨ましいって言ってしまったでしょう」

 昨夜の自分の言葉を思い出す。
 あれは断罪ではなかった。
 泣かないための、最後の線引きだった。

「羨ましい、って言った瞬間に分かったの。
 私は、誰かの“義務”に勝てないって」

 勝ちたいわけではない。
 ただ、心が削られる競争に、もう参加したくないだけだ。

「エリザ様は、恋ではないと伺いました」

「……はい。閣下が動くのは、誓いと責任によるもの。恋ではないと」

 ヴィオラが慎重に言う。
 その慎重さが、逆に残酷だった。

 恋ではない。
 恋ではないのに——守る。
 恋ではないのに——外套を掛ける。
 恋ではないのに——沈黙で守る。

 恋ならまだ、諦めがつく。
 義務の方が、ずっと手強い。

「だからこそ、私が前にいるほど——エリザ様の立場が傷つく」

 リリアーヌは静かに言った。
 まるで他人の話のように冷静なのに、心は痛い。
 痛いけれど、痛みは“覚悟”に変わっていく。

「私がいるから、閣下は説明できない。
 説明できないから、噂が育つ。
 噂が育つから、エリザ様が傷つく」

 理屈は簡単だ。
 簡単なのに、今まで抜け出せなかった。

「……一番大切な人は、誰なのか」

 ヴィオラが言葉を選んだまま呟く。

 リリアーヌは答えなかった。
 答えは、もう出ている。

 ——彼が“守る”と決めた相手を、優先する。
 そこに、妻の居場所はない。

 扉がノックされた。
 今度は軽い。ためらいのない音。

「お嬢様、セリーヌ様がお見えです」

 母だ。
 昨夜の紅茶の一言が思い出される。

 ——幸せ?

 答えられなかった。
 今日は答えられる気がした。

「通して」

 セリーヌは淡い灰青のドレスで入ってきた。
 髪はきっちり結い上げ、香りは控えめ。
 社交界で“強い夫人”と評される人は、いつも静かだ。

 母はリリアーヌの顔を一瞥し、すぐ椅子に腰を下ろした。

「目が腫れていない。……泣かなかったのね」

 容赦のない観察。
 でも責めではない。母なりの抱擁だ。

「泣くと、負ける気がして」

「負けてもいいのよ」

「……負け方を選びたいの」

 セリーヌの眉が僅かに上がった。
 興味を持った合図。

「聞かせなさい」

 リリアーヌは背筋を伸ばし、言葉を置いた。

「社交から下がります」

 母はすぐに否定しなかった。
 それが救いだった。

「理由は?」

「私が前にいるほど、噂が育ちます。
 噂が育つほど——エリザ様が傷つきます」

「あなたは、あの未亡人を憎んでいないのね」

 リリアーヌは首を横に振った。

「憎めません。……憎むと、私が私でなくなります」

 セリーヌは小さく息を吐く。
 そして、紅茶のカップを指で軽く叩いた。

「立派だわ」

 昨夜の言葉と同じだ。
 “立派”。
 けれど母の“立派”は、リリアーヌを縛らない。

「でも、忘れないで。
 あなたが下がるのは、“譲る”ためではない。
 あなたがあなたを守るためよ」

 胸が熱くなる。
 涙が出そうになるのに、まだ出ない。

「……はい」

 返事が震えたのが悔しくて、リリアーヌは息を吸った。

「そして、もうひとつ。
 あなたが社交から下がるなら、筋を通しなさい」

 母の声が鋭くなる。

「曖昧に消えると、噂は“逃亡”と呼ぶ。
 あなたは逃げない。
 “礼節として下がる”のよ。堂々と」

 リリアーヌは頷いた。
 頭の中で、段取りが組み上がっていく。
 自分の心の守り方を、初めて自分で設計する。

「まず、王妃殿下へ。
 次に、女官局へ。
 そして——」

 そこまで言って、リリアーヌの言葉が止まる。
 最後の相手を言うだけで、胸が痛む。

 セリーヌが静かに促した。

「そして?」

「……閣下へ」

 言った瞬間、部屋の空気が冷えた気がした。
 でも、冷えていい。

 冷えた空気の中でしか、切れるものがある。

「直接は避けます。
 侍女長経由で。
 公務は、侍女長へ」

 昨夜の決別を、今日の現実にする。
 それが“退く決意”だ。

 そのとき、廊下から足音が近づいた。
 重い靴音。迷いのある歩幅。

 ヴィオラが視線を扉へ向ける。

「……閣下、かもしれません」

 リリアーヌの指先が冷える。
 胸の奥がざわつく。
 それでも、決意は崩れない。

 母が、淡々と言った。

「会うの?」

 リリアーヌは一拍置いて答えた。

「いいえ。——今日は、会いません」

 それは拒絶ではない。
 自分を守る選択だ。

 リリアーヌは静かに立ち上がり、窓辺へ歩いた。
 白い靄の向こう、凍りかけた噴水が見える。

 あの氷は、いつか溶ける。
 でも溶ける前に、誰かが石を割れば砕けてしまう。

 ——だから、守る。
 今度は、私が私を。

あなたにおすすめの小説

私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ

みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。 婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。 これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。 愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。 毎日20時30分に投稿

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。 【感謝】 第19回恋愛小説大賞にて奨励賞を受賞しました。 ありがとうございます。

[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜

h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」 二人は再び手を取り合うことができるのか……。 全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)

【完結】ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

【完結】大好きな幼馴染には愛している人がいるようです。だからわたしは頑張って仕事に生きようと思います。

たろ
恋愛
幼馴染のロード。 学校を卒業してロードは村から街へ。 街の警備隊の騎士になり、気がつけば人気者に。 ダリアは大好きなロードの近くにいたくて街に出て子爵家のメイドとして働き出した。 なかなか会うことはなくても同じ街にいるだけでも幸せだと思っていた。いつかは終わらせないといけない片思い。 ロードが恋人を作るまで、夢を見ていようと思っていたのに……何故か自分がロードの恋人になってしまった。 それも女避けのための(仮)の恋人に。 そしてとうとうロードには愛する女性が現れた。 ダリアは、静かに身を引く決意をして……… ★ 短編から長編に変更させていただきます。 すみません。いつものように話が長くなってしまいました。

愛しているからこそ、彼の望み通り婚約解消をしようと思います【完結済み】

皇 翼
恋愛
「俺は、お前の様な馬鹿な女と結婚などするつもりなどない。だからお前と婚約するのは、表面上だけだ。俺が22になり、王位を継承するその時にお前とは婚約を解消させてもらう。分かったな?」 お見合いの場。二人きりになった瞬間開口一番に言われた言葉がこれだった。 初対面の人間にこんな発言をする人間だ。好きになるわけない……そう思っていたのに、恋とはままならない。共に過ごして、彼の色んな表情を見ている内にいつの間にか私は彼を好きになってしまっていた――。 好き……いや、愛しているからこそ、彼を縛りたくない。だからこのまま潔く消えることで、婚約解消したいと思います。 ****** ・感想欄は完結してから開きます。

旦那様は離縁をお望みでしょうか

村上かおり
恋愛
 ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。  けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。  バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。

侯爵令嬢ソフィアの結婚

今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚した。これは金が欲しい父の思惑と、高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない。 そもそもヴィンセントには恋人がいて、その恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ。 結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら屋に住むように言われて…… 表紙はかなさんのファンアートです✨ ありがとうございます😊 2024.07.05