あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第27章|二人の鉢合わせ

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 舞踏会の音楽は、甘いのに残酷だった。
 弦が伸びるたび、笑い声が跳ねるたび、噂が育つ。

 リリアーヌはグラスの縁に指を添えた。
 深い青のドレスは、灯りを吸い込んで静かに光る。
 ——泣いていない、と言い切る色。

 隣のガブリエルは、必要以上に近づかない。
 近づかないのに、守る距離だけは崩さない。
 視線が集まれば、さりげなく半歩立ち位置を変え、矢面を自分にする。

「疲れてない?」

 囁く声が、誰にも聞こえない温度で届く。

「大丈夫。……ありがとう」

 リリアーヌが微笑むと、ガブリエルは少しだけ肩の力を抜いた。
 その瞬間——背後の空気が、凍る。

 冷たい刃が、音楽の間に滑り込むみたいに。

「リリアーヌ」

 名前を呼ばれただけで、胸の奥が硬くなる。
 振り向かなくても分かる。
 ——アレクシスだ。

 リリアーヌはゆっくり振り返った。
 白い礼装、整いすぎた輪郭。
 いつも通りのはずなのに、今夜は何かが違う。

 焦り。
 遅れてきた焦りが、瞳に滲んでいる。

 アレクシスの視線が、まずガブリエルへ向かい、次にリリアーヌの手元——ガブリエルの腕に置かれた手袋へ落ちた。
 その視線の動きだけで、胸が痛む。

「……少し、話がしたい」

 いつもなら“命令”に近い言い方の男が、今日は頼むように言う。
 けれど、頼むのが遅い。

 リリアーヌは礼を崩さないまま、静かに答えた。

「今は、舞踏会です」

「だからだ。今夜——」

「今夜は、社交の夜です」

 柔らかく遮る。
 鋭く言えば、相手は“被害者”になれる。
 柔らかく言えば、逃げ場が消える。

 アレクシスの喉が上下した。
 言葉を探している。
 “説明できない理由”に絡め取られている。

 ガブリエルが一歩前に出た。
 声は低く、穏やかだ。
 穏やかなのに、退かない。

「閣下。彼女は今夜、俺のエスコートだ」

「……知っている」

 アレクシスは短く言った。
 知っている。
 知っているのに、止められない——その悔しさが滲む。

「なら、邪魔はしないでいただきたい」

 ガブリエルの言葉は丁寧なのに、刃がある。
 “礼節”という刃。

 アレクシスの目が細くなった。
 怒りではない。
 ——嫉妬の輪郭が、初めてそこに現れた。

 リリアーヌは、それを見てしまった。
 見た瞬間、胸が少しだけ揺れる。
 揺れた自分が、悔しい。

「リリアーヌ」

 アレクシスが、今度は声を落として言う。

「今夜は……俺が——」

 続きが出ない。
 “俺が何だ”というのか。
 エスコート? 夫? 守る人?
 どれも、言葉にしてきたのは今ではない。

 リリアーヌは一拍置いて、微笑んだ。
 薄い微笑。
 相手が“安全だ”と思ってきた表情。

「もう結構です」

 その言葉は拒絶ではない。
 ——終わらせる言葉だ。

 アレクシスの顔が、ほんのわずかに歪む。
 歪んで、戻る。
 戻ってしまうのが、この人の癖だ。

「……君は、誤解をしている」

 やっと出た言葉が、それ。
 謝罪ではない。
 説明でもない。
 “君が悪い”に聞こえる言葉。

 リリアーヌの胸の奥が、静かに冷えた。
 泣かない、と決めた夜は、冷えるのが速い。

「誤解、ですか」

 リリアーヌは穏やかに言った。

「では、お聞きします。
 閣下は——『好きな方がいる、片思いだ』と仰いましたね」

 アレクシスの瞳が揺れる。
 ——そこを聞かれたくなかった。
 揺れが、答えになってしまう。

「……それは」

 言いかけて、止まる。

 言えない。
 否定できない。
 説明もできない。

 リリアーヌは頷くように、息を吐いた。
 答えを待つ必要すらない。

「私は、あなたの沈黙の意味をずっと考えていました。
 けれど今夜、それをやめました」

「……やめた?」

「ええ。考えるのをやめました。
 あなたが言わないなら、私も言いません」

 自分の居場所を守るために。
 これ以上、心をすり減らさないために。

 ガブリエルが、リリアーヌの少し前に立つ。
 視線を集めるためではない。
 ——守るためだ。

「閣下。ここは王宮です。
 彼女に恥をかかせるなら、俺は止める」

 アレクシスが、低く笑ったように見えた。
 笑ったのではない。
 ——痛かったのだ。
 他人に“恥をかかせるな”と言われるほど、遅かった自分が。

「俺は……恥をかかせたいわけじゃない」

「なら、言葉を選ぶべきです」

 ガブリエルの言い方は、王宮の礼儀そのものだった。
 礼儀で殴られると、逃げ場がない。

 アレクシスは、リリアーヌを見た。
 まっすぐ見た。
 いつもならそれだけで、心が揺れていた。
 けれど今は、揺れない。

 揺れないように、もう整えてしまった。

「……今夜は」

 アレクシスが、また言いかける。
 今夜は。
 何をする。
 何を言う。
 何を“選ぶ”。

 リリアーヌは、柔らかく一度だけ首を振った。

「今夜は、私が選びます」

 声は小さい。
 でも、言葉は強い。

「私は——今夜の自分の心を守る方を選びます」

 アレクシスの指先が、僅かに震えた。
 彼が何かを掴みたい時の癖。
 けれど、掴むのは遅い。

 リリアーヌはガブリエルへ視線を向ける。

「行きましょう」

「うん」

 ガブリエルが腕を差し出す。
 リリアーヌは、その腕に指先を置いた。

 背後にいるアレクシスが、息を吸う音がした。
 呼び止めるのか。
 言い切るのか。
 追うのか。

 ——音楽が、次の曲へ移る。
 広間の中央に人が集まる。
 踊る輪ができる。

 リリアーヌが一歩踏み出した、そのとき。

「……待て」

 短い声。
 その声には、初めて“命令”ではないものが混じっていた。

 焦り。
 怖れ。
 そして——

「俺は、今夜……」

 続きが出ない。
 出せない。

 リリアーヌは振り返らずに言った。
 小さく、でも確かに。

「今夜、言えない言葉は——明日も言えません」

(引き)
 足元の大理石が、冷たい。
 リリアーヌの背後で、アレクシスの声が初めて掠れた。

「……違う。そうじゃない。
 リリアーヌ——」

 その“違う”の中身を、彼は言えるのか。
 言えないのか。
 リリアーヌは音楽の輪へ踏み出しながら、指先をきつく結んだ。
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