あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第28章|王妃の席順

 舞踏会は、踊る者だけのものではない。
 視線と噂が、音楽の裏で踊る夜だ。

 リリアーヌは扉の外の回廊で、一度だけ深く息を吸った。
 肺に入る空気は冷たく、胸の奥まで澄みきっている。
 ——泣かないために、冷える。冷えた分だけ、折れない。

「少し、外に出る?」

 ガブリエルが、背筋を崩さないまま聞いた。
 “逃げる”ではなく“整える”ための提案。

「大丈夫。……戻りましょう」

 リリアーヌは微笑んだ。
 薄い微笑は、鎧だ。
 誰にも割らせないための。

 広間へ戻ると、拍手と笑い声が渦のように流れ込んでくる。
 ガブリエルが腕を差し出し、リリアーヌは指先を乗せた。

 ——その瞬間、視線が集まる。

 悪意ではない。
 けれど、悪意がなくても人は刺す。
 「どうして公爵じゃないの」
 「結局、心変わり?」
 「公爵様の初恋が——」

 言葉にならない囁きが、背中へ針のように刺さる。

 リリアーヌは、針を抜かない。
 抜けば血が出るから。
 刺さったまま、歩けるふりをする。

「リリアーヌ様」

 儀礼長ルチアが近づいてきた。
 完璧に整えられた微笑と、計算された距離。
 彼女の敬意は、感情ではなく秩序に向く。

「今夜の席順につきまして、王妃陛下よりお言付けがございます」

 リリアーヌは、ほんの一瞬だけ瞬きを忘れた。
 “王妃から”——その言葉の重みが、背筋を正させる。

「承知しました」

「こちらへ」

 ルチアは歩みを導く。
 広間の奥——玉座に近い、最も光の当たる場所。
 そこに、王妃がいた。

 王妃セレスティーヌ。
 美しいだけではなく、視線が鋭い。
 柔らかい微笑で、人の嘘も迷いも剥ぐ人。

 リリアーヌが礼を取ると、王妃は静かに手を上げた。

「リリアーヌ、顔を上げて」

 命令ではなく、許しの言葉だった。
 リリアーヌは顔を上げる。

 王妃の瞳が、リリアーヌの頬の白さ、唇の色の薄さ、指先の冷たさを一瞬で読み取る。
 次に、ガブリエルへ。
 最後に——少し離れた場所にいるアレクシスへ。

 アレクシスは、その視線だけで背筋を強張らせた。
 王妃に叱られる前の男の顔だ。

「ガブリエル卿」

 王妃が言う。

「今夜、リリアーヌの護り役を引き受けてくれて感謝します」

「光栄です、陛下」

 ガブリエルは深く礼をした。
 王妃は頷き、それからリリアーヌへ視線を戻した。

「あなたは、良い子ね」

 その一言に、胸が痛む。
 良い子——それは、我慢が上手な子に向けられる言葉でもある。

 リリアーヌは笑った。
 笑うしかない。

「恐れ入ります、陛下」

「恐れ入らなくていい。今夜は——私が恐れている」

 王妃の声は穏やかなのに、空気が変わる。
 静かに、王宮が王妃のものになる。

「噂が、あなたを傷つけることを」

 リリアーヌの喉が詰まった。
 言葉が出ない。
 “傷ついていません”と言えば嘘になる。
 “傷ついています”と言えば弱く見える。

 王妃は、その迷いを許さないように続けた。

「だから席順を戻します。——“あなた中心”に」

 ルチアがすぐに合図を出し、侍女と侍従たちが動く。
 椅子が一つ、二つ、音もなく移される。
 花の配置まで整え直される。

 リリアーヌは、目の前の光景を見て、息を呑んだ。
 こんなに公然と、王妃が手を入れるのは珍しい。
 それはつまり——王妃が“態度”を示している。

 噂へ。
 社交界へ。
 そして、何より——アレクシスへ。

「陛下、それは……」

 リリアーヌが小さく言いかけると、王妃は微笑んだ。

「礼節は、人を縛るためではなく守るためにある。
 あなたは礼節を守ってきた。だから今度は、礼節があなたを守る番よ」

 言葉が、胸の奥へ落ちる。
 守られる、という感覚が久しぶりすぎて、怖い。

 王妃は視線をアレクシスへ移した。

「アレクシス公爵」

 名を呼ばれ、広間の音が一段下がったように感じる。
 周囲が“何が起きるか”を嗅ぎ取っている。

 アレクシスは一歩進み、礼を取った。

「陛下」

「あなたは今夜、どこに立つの?」

 質問は簡単だった。
 けれど、彼にとっては剣より重い。

 アレクシスの唇が、わずかに開く。
 言えない。
 言うべき言葉を、持っていない。

 王妃の声が、さらに低くなる。

「立てない場所があるのなら、そこは——あなたが自分で手放した場所です」

 リリアーヌの胸が揺れる。
 痛いのに、少しだけ——救われる。

 アレクシスが反論しようとして、止まった。
 王妃の言葉は正しい。
 正しすぎて、彼の逃げ道を奪う。

 ガブリエルは、視線を下げたまま動かない。
 勝ち誇らない。
 ただ、リリアーヌの隣に“いる”。

 王妃は、最後にリリアーヌへ言った。

「今夜の席で、あなたが誰の隣に座るか——それは私が決めます。
 けれど、あなたの心が誰の隣に座るかは……あなたが決めなさい」

 リリアーヌは、ゆっくり頷いた。

「……承知しました」

 その返事は、ただの礼ではない。
 “自分で選ぶ”という誓いに近い。

 王妃が合図をすると、ルチアが淡々と宣言する。

「席順を改めます。
 公爵令嬢リリアーヌ様を中心に——」

 広間が静まる。
 噂が、息を止める。

 アレクシスが、リリアーヌを見た。
 今夜初めて、真正面から。
 言葉が、喉で詰まっているのが分かる。

 リリアーヌは微笑んだ。
 薄い微笑ではなく、静かな微笑。

 ——この席は、私の居場所だ。

 王妃の手で守られたのではない。
 私が礼節で守ってきた居場所を、王妃が“見える形”にしてくれただけ。

(引き)
 ルチアが淡々と続きを告げる。

「……そして、公爵アレクシス様は——」

 その言葉の先で、空気がさらに凍る。
 アレクシスが、初めて“決めなければならない”場所へ追い込まれていく。

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