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第36章「公の宣言」
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王妃宮の大広間は、夜の舞踏会より静かだった。
音楽がない分、息遣いと視線が擦れる気配だけがはっきりと残る。
天井から下がるシャンデリアの光は、淡いのに容赦がない。
輝きは、人の顔色も、ためらいも、取り繕いも、等しく照らした。
——ここは、噂が生まれる場所ではない。
噂に判決が下る場所だ。
列席しているのは、王妃の側近、諸侯の代表、宮廷の重鎮たち。
それから、昨夜の舞踏会で「見た」と言う者たち——見て、語って、面白がった者たち。
王妃は玉座の一段下、椅子に腰掛けていた。
姿勢は優雅で、目は冷たいほど澄んでいる。
「本日は、公爵家より申し出がありました」
王妃の声が広間に落ちる。
それだけで、ざわめきは薄紙のように裂け、空気が引き締まった。
公爵は一歩前に出た。
軍装ではない。正装。社交の装い。——だからこそ、逃げられない。
背後に控えるユリウスは無表情のまま、しかし視線だけで告げる。
(形だけで終わらせるな)
公爵は喉を鳴らした。
言葉を選ぶ時間は、与えられているようで、ない。
昨夜の自分の声が、耳の奥で蘇る。
——触るな。
——俺の前で、あいつの腕を取るな。
あれは、守る言葉ではなかった。
ただの所有だった。
公爵は視線を上げた。
広間の端、王妃の近くに座らされているリリアーヌがいる。
静養中だと聞いた。
それでも彼女は、ここへ来た。
来たというより——呼ばれた。
噂の中に置き去りにされたままではいられないから。
ドレスは淡い色だ。けれど顔色は薄い。
微笑はある。だが、あれは社交の道具だ。心ではない。
そして、その少し後ろにガブリエルが立っていた。
護衛のように、しかし守りのためだけに立っている距離。
噂はすでに、図を描いている。
公爵の恋は誰か
令嬢は捨てられたのか
未亡人は勝者か
その図を、今日ここで壊さなければならない。
王妃が、ほんの僅かに顎を引いた。
——さあ。
公爵は息を吸った。
「昨夜の舞踏会において、私の不適切な言動がございました」
形式の言葉。
だが形式は必要だ。ここは社交の法廷だから。
誰かが小さく頷き、誰かが口元を歪める。
言い訳が始まるという顔だ。
公爵はその視線を受け止めたまま、続けた。
「私は、彼女を怯えさせた」
広間の空気が、ほんの少し変わる。
謝罪の形ではなく、認めた。逃げずに。
リリアーヌの睫毛が、僅かに揺れた。
しかし彼女は目を上げない。
公爵は拳を握りそうになって、開いた。
感情で押せば、また同じ過ちを繰り返す。
「そして私は、言葉を引っ込めることで、彼女の名誉を守り損ねた」
言葉を引っ込める——。
その言い方が出た瞬間、何人かが目を見開く。
——男たちは語らないことを美徳にしがちだ。
だが今日、その美徳が否定された。
王妃は何も言わない。
言わないことで、次を促している。
公爵は視線をリリアーヌへ向けた。
この先は、彼女に届けばいい。
だが同時に、全員に聞こえなければ意味がない。
「私は、守る義務がある案件を抱えております」
ざわめきが走る。
——エリザの名が、誰かの喉の奥で鳴った気配。
公爵はそこで止めた。
言えば彼女の立場が傷つく。
守るべきものは確かにある。
だが、守るべきものはそれだけではない。
公爵は言葉を切り替える。
事情ではなく、意志へ。
「だからと言って、彼女を——リリアーヌを、曖昧にしたままにする理由にはならない」
リリアーヌの指先が、膝の上で小さく動いた。
冷える癖。
誰も気づかず、彼だけが今さら気づいたもの。
公爵は息を吐いた。
ここで逃げたら、一生逃げる。
「私が敬い、共に歩みたいのは——リリアーヌだ」
言い終えた瞬間、広間が沈む。
水底のように静かになる。
誰も笑えない。
誰も勝手な物語を語れない。
王妃の目だけが、変わらず冷静に光っていた。
リリアーヌは、顔を上げない。
すぐには信じない。
信じたら、また壊れるから。
公爵はそれを分かっている。
だから甘い言葉を足さない。
代わりに、責任を足す。
「私は、彼女の名誉を守る。
そして——今後、彼女の意思を、社交の道具にしない」
言い切る。
手段にしないという誓いは、彼にとって最も苦い誓いだ。
体裁で動く癖を捨てるということだから。
王妃が、ゆっくりと口を開いた。
「公爵。あなたの言葉は、“意思”として受け取りました」
王妃は視線をリリアーヌへ向ける。
「リリアーヌ。あなたの意思は?」
広間が息を止める。
——選ばれる側が、選ぶ側に戻される。
リリアーヌは一拍、間を置いた。
その間は短いのに、長い。
彼女はゆっくり立ち上がり、礼をする。
微笑は薄い。けれど、声は澄んでいた。
「王妃殿下。
私の意思は——今ここで“答え”として差し出すには、まだ整っておりません」
誰かがざわめきかける。
だが王妃が指先を一度だけ動かし、静けさが戻る。
リリアーヌは続けた。
「ただ一つ、申し上げます。
私は、噂の中で誰かに決められることを、もう望みません」
それは宣言だった。
公爵の言葉に従う宣言ではない。
自分を取り戻す宣言だ。
公爵の胸が痛む。
同時に、少しだけ救われる。
彼女が消えない方へ、足を出したから。
そこへ、ガブリエルが一歩前に出た。
王妃に対して無礼にならない距離、しかし逃げない距離。
「王妃殿下。発言の許可を」
王妃は目を細める。
「許します。短く」
ガブリエルは頷いた。
そして公爵を見た。
「公爵。俺は彼女を守る。
——彼女が自分で選ぶ、その邪魔をする者から」
釘は柔らかい。だが刃は鋭い。
奪うと告白した男の、最後の礼節。
公爵の喉が焼ける。
嫉妬が胸を叩く。
けれど今、噛みつくな。
公爵はただ、低く答えた。
「分かっている」
分かっているの意味は一つではない。
敵を認める意味。
そして、自分が遅れた意味。
王妃が口元をわずかに緩めた。
微笑ではない。結論を下す者の静かな表情だ。
「本日の場は、ここまで。
社交界に伝えます。——公爵はリリアーヌを敬い、共に歩みたいと公言した。
これ以上、彼女の名誉を玩具にする者があれば、王妃宮が相手をする」
王妃宮が相手をする
それは、噂に終止符を打つ言葉だった。
空気がほどける。
人々は礼をし、引き始める。
だが視線だけは残していく。
物語は終わらない。——ただ、勝手には作れなくなった。
公爵は動けなかった。
リリアーヌが立ち上がり、侍女長に支えられるのを見ているだけ。
彼女は公爵を見ない。
見ないことで、距離を守る。
公爵が一歩踏み出そうとした瞬間、侍女長が先に目で止めた。
——今は、追うな。
彼女の静養を、場の余韻で壊すな。
公爵は足を止めた。
今夜の自分は、止まるべきところで止まれた。
リリアーヌが扉の前で、ほんの一瞬だけ振り返る。
視線は公爵に届かない。届かないが、消えてもいない。
そして、誰にも聞こえないほど小さく、唇が動いた。
(……今度は、言葉で)
公爵は胸の奥で、それを受け取った。
——まだ、終わっていない。
だが、始め直せる。
公爵は王妃へ向き直り、深く礼をした。
公爵としてではない。
一人の男として、“責任”を背負う礼。
王妃は短く頷く。
「遅い男は嫌われます。……けれど、遅い男が“遅さを認めた”なら、まだ救いはある」
その言葉が、背中に刺さる。
公爵は礼を解き、初めて、自分の意志で呼吸をした。
——公の場で言った。
次は、彼女の前で言う番だ。
その番が来るまで、逃げない。
窓の外、王都の朝は相変わらず上品な嘘をまとっている。
けれど今日だけは、嘘の上から真実が一枚、貼り付けられた気がした。
静養の離れで、リリアーヌは答えを出さないと決めた夜、エリザがもう一度、訪ねてくる。
音楽がない分、息遣いと視線が擦れる気配だけがはっきりと残る。
天井から下がるシャンデリアの光は、淡いのに容赦がない。
輝きは、人の顔色も、ためらいも、取り繕いも、等しく照らした。
——ここは、噂が生まれる場所ではない。
噂に判決が下る場所だ。
列席しているのは、王妃の側近、諸侯の代表、宮廷の重鎮たち。
それから、昨夜の舞踏会で「見た」と言う者たち——見て、語って、面白がった者たち。
王妃は玉座の一段下、椅子に腰掛けていた。
姿勢は優雅で、目は冷たいほど澄んでいる。
「本日は、公爵家より申し出がありました」
王妃の声が広間に落ちる。
それだけで、ざわめきは薄紙のように裂け、空気が引き締まった。
公爵は一歩前に出た。
軍装ではない。正装。社交の装い。——だからこそ、逃げられない。
背後に控えるユリウスは無表情のまま、しかし視線だけで告げる。
(形だけで終わらせるな)
公爵は喉を鳴らした。
言葉を選ぶ時間は、与えられているようで、ない。
昨夜の自分の声が、耳の奥で蘇る。
——触るな。
——俺の前で、あいつの腕を取るな。
あれは、守る言葉ではなかった。
ただの所有だった。
公爵は視線を上げた。
広間の端、王妃の近くに座らされているリリアーヌがいる。
静養中だと聞いた。
それでも彼女は、ここへ来た。
来たというより——呼ばれた。
噂の中に置き去りにされたままではいられないから。
ドレスは淡い色だ。けれど顔色は薄い。
微笑はある。だが、あれは社交の道具だ。心ではない。
そして、その少し後ろにガブリエルが立っていた。
護衛のように、しかし守りのためだけに立っている距離。
噂はすでに、図を描いている。
公爵の恋は誰か
令嬢は捨てられたのか
未亡人は勝者か
その図を、今日ここで壊さなければならない。
王妃が、ほんの僅かに顎を引いた。
——さあ。
公爵は息を吸った。
「昨夜の舞踏会において、私の不適切な言動がございました」
形式の言葉。
だが形式は必要だ。ここは社交の法廷だから。
誰かが小さく頷き、誰かが口元を歪める。
言い訳が始まるという顔だ。
公爵はその視線を受け止めたまま、続けた。
「私は、彼女を怯えさせた」
広間の空気が、ほんの少し変わる。
謝罪の形ではなく、認めた。逃げずに。
リリアーヌの睫毛が、僅かに揺れた。
しかし彼女は目を上げない。
公爵は拳を握りそうになって、開いた。
感情で押せば、また同じ過ちを繰り返す。
「そして私は、言葉を引っ込めることで、彼女の名誉を守り損ねた」
言葉を引っ込める——。
その言い方が出た瞬間、何人かが目を見開く。
——男たちは語らないことを美徳にしがちだ。
だが今日、その美徳が否定された。
王妃は何も言わない。
言わないことで、次を促している。
公爵は視線をリリアーヌへ向けた。
この先は、彼女に届けばいい。
だが同時に、全員に聞こえなければ意味がない。
「私は、守る義務がある案件を抱えております」
ざわめきが走る。
——エリザの名が、誰かの喉の奥で鳴った気配。
公爵はそこで止めた。
言えば彼女の立場が傷つく。
守るべきものは確かにある。
だが、守るべきものはそれだけではない。
公爵は言葉を切り替える。
事情ではなく、意志へ。
「だからと言って、彼女を——リリアーヌを、曖昧にしたままにする理由にはならない」
リリアーヌの指先が、膝の上で小さく動いた。
冷える癖。
誰も気づかず、彼だけが今さら気づいたもの。
公爵は息を吐いた。
ここで逃げたら、一生逃げる。
「私が敬い、共に歩みたいのは——リリアーヌだ」
言い終えた瞬間、広間が沈む。
水底のように静かになる。
誰も笑えない。
誰も勝手な物語を語れない。
王妃の目だけが、変わらず冷静に光っていた。
リリアーヌは、顔を上げない。
すぐには信じない。
信じたら、また壊れるから。
公爵はそれを分かっている。
だから甘い言葉を足さない。
代わりに、責任を足す。
「私は、彼女の名誉を守る。
そして——今後、彼女の意思を、社交の道具にしない」
言い切る。
手段にしないという誓いは、彼にとって最も苦い誓いだ。
体裁で動く癖を捨てるということだから。
王妃が、ゆっくりと口を開いた。
「公爵。あなたの言葉は、“意思”として受け取りました」
王妃は視線をリリアーヌへ向ける。
「リリアーヌ。あなたの意思は?」
広間が息を止める。
——選ばれる側が、選ぶ側に戻される。
リリアーヌは一拍、間を置いた。
その間は短いのに、長い。
彼女はゆっくり立ち上がり、礼をする。
微笑は薄い。けれど、声は澄んでいた。
「王妃殿下。
私の意思は——今ここで“答え”として差し出すには、まだ整っておりません」
誰かがざわめきかける。
だが王妃が指先を一度だけ動かし、静けさが戻る。
リリアーヌは続けた。
「ただ一つ、申し上げます。
私は、噂の中で誰かに決められることを、もう望みません」
それは宣言だった。
公爵の言葉に従う宣言ではない。
自分を取り戻す宣言だ。
公爵の胸が痛む。
同時に、少しだけ救われる。
彼女が消えない方へ、足を出したから。
そこへ、ガブリエルが一歩前に出た。
王妃に対して無礼にならない距離、しかし逃げない距離。
「王妃殿下。発言の許可を」
王妃は目を細める。
「許します。短く」
ガブリエルは頷いた。
そして公爵を見た。
「公爵。俺は彼女を守る。
——彼女が自分で選ぶ、その邪魔をする者から」
釘は柔らかい。だが刃は鋭い。
奪うと告白した男の、最後の礼節。
公爵の喉が焼ける。
嫉妬が胸を叩く。
けれど今、噛みつくな。
公爵はただ、低く答えた。
「分かっている」
分かっているの意味は一つではない。
敵を認める意味。
そして、自分が遅れた意味。
王妃が口元をわずかに緩めた。
微笑ではない。結論を下す者の静かな表情だ。
「本日の場は、ここまで。
社交界に伝えます。——公爵はリリアーヌを敬い、共に歩みたいと公言した。
これ以上、彼女の名誉を玩具にする者があれば、王妃宮が相手をする」
王妃宮が相手をする
それは、噂に終止符を打つ言葉だった。
空気がほどける。
人々は礼をし、引き始める。
だが視線だけは残していく。
物語は終わらない。——ただ、勝手には作れなくなった。
公爵は動けなかった。
リリアーヌが立ち上がり、侍女長に支えられるのを見ているだけ。
彼女は公爵を見ない。
見ないことで、距離を守る。
公爵が一歩踏み出そうとした瞬間、侍女長が先に目で止めた。
——今は、追うな。
彼女の静養を、場の余韻で壊すな。
公爵は足を止めた。
今夜の自分は、止まるべきところで止まれた。
リリアーヌが扉の前で、ほんの一瞬だけ振り返る。
視線は公爵に届かない。届かないが、消えてもいない。
そして、誰にも聞こえないほど小さく、唇が動いた。
(……今度は、言葉で)
公爵は胸の奥で、それを受け取った。
——まだ、終わっていない。
だが、始め直せる。
公爵は王妃へ向き直り、深く礼をした。
公爵としてではない。
一人の男として、“責任”を背負う礼。
王妃は短く頷く。
「遅い男は嫌われます。……けれど、遅い男が“遅さを認めた”なら、まだ救いはある」
その言葉が、背中に刺さる。
公爵は礼を解き、初めて、自分の意志で呼吸をした。
——公の場で言った。
次は、彼女の前で言う番だ。
その番が来るまで、逃げない。
窓の外、王都の朝は相変わらず上品な嘘をまとっている。
けれど今日だけは、嘘の上から真実が一枚、貼り付けられた気がした。
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登場人物
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・イーライ 学園の園芸員。
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