あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第38章「令嬢の確認」

 静養の離れは、王妃宮の光よりもずっと優しい。
 同じ昼なのに、ここでは陽射しが角を丸くして入ってくる。カーテン越しの明るさは、痛みを見えにくくするための薄い布みたいだ。

 リリアーヌは長椅子に身を預け、膝の上で指を組んだ。
 指先はまだ冷える。冷える癖は、癖で片づけられるほど小さくないのに。

 ——公の場で言った。
 ——私が敬い、共に歩みたいのはリリアーヌだ。

 あの言葉は、耳には残っている。
 けれど胸には、まだ届かない。胸は「また壊れるかもしれない」を先に数える。

 侍女長が静かに入ってきた。

 「リリアーヌ様。面会の申し出がございます。……公爵閣下です」

 リリアーヌは瞬きをした。
 答えは分かっているのに、口にするための呼吸が必要だった。

 「……通して」

 侍女長は一礼する。
 ただしその背中は、いつでも扉を閉められるように固い。——守りの背中だ。

 扉が開く。

 公爵が入ってきた。
 外套を脱いでいる。剣帯もない。いつもの“仕事の鎧”を外した格好。それが、余計に怖い。

 リリアーヌは立たない。礼も深くしない。
 静養の名目があるからではない。——礼節に逃げたくないからだ。

 公爵は、部屋の中央で足を止めた。
 近づかない。命令もしない。侍女長の条件を守るためではなく、今日の自分が“守るべき形”を理解しているから。

 「……体調は」

 短い問い。
 彼にしては、ひどく慎重だ。

 「医師の言う通りですわ。……眠れるようには」

 最後まで言い切れず、リリアーヌは口を閉じた。
 眠れるようになったのは事実。けれど、それは“安心”ではなく“疲れて倒れる”に近い眠りだ。

 公爵の視線が、彼女の手元に落ちる。
 指先の白さ。冷えの残り。

 「……すまない」

 その言葉に、リリアーヌのまつ毛がわずかに揺れた。
 謝罪の形はいくらでもある。形は、信じない。

 公爵は言い訳を飲み込み、言葉を選び直す。

 「公の場で言った。……だが、あれは“噂のため”ではない」

 噂のため。
 名誉のため。
 ——そう言われた瞬間、胸がまた冷たくなる。

 リリアーヌは、微笑みを作らなかった。
 代わりに、静かな声で言う。

 「閣下は、いつも“正しいこと”を選びます」

 責めてはいない。
 でも、褒めてもいない。

 公爵の喉が鳴った。
 自分の正しさが、彼女を追い詰めたことを、彼はようやく知っている。

 「……正しいだけでは、守れない」

 リリアーヌはその言葉を受け止めない。
 受け止めたら、また期待してしまうから。

 「閣下」

 呼び方を整える。
 整えないと、声が崩れる。

 「今日は、何のために来られたのですか」

 公爵が息を吸う。
 そして、短く答えた。

 「確認のためだ」

 リリアーヌの指が、膝の上でほどけかけた。
 確認。——それは、彼女がずっと欲しかったもののはずなのに、今は怖い。

 公爵は一歩も近づかないまま、続けた。

 「お前が、俺の言葉を信じられないことは分かっている。
 ……だから、逃げ道のある聞き方はしない」

 リリアーヌは、小さく息を呑む。

 「リリアーヌ。——聞きたいことがあるなら、聞け」

 部屋の空気が、すっと澄んだ。
 沈黙ではない。張り詰めた静けさ。逃げ道のない静けさ。

 侍女長が一歩、壁際へ退く。
 ここからは、彼女の意思と告げる距離だ。

 リリアーヌは、視線を落とした。
 心の奥に沈めてきた質問は、一つしかない。
 でもその質問は、言った瞬間に、何かが決まってしまう。

 ——だから、今まで言えなかった。

 彼女は唇を噛み、そして顔を上げた。

 「……閣下」

 声が震えないのが、怖い。
 涙が出ないのが、怖い。

 「片思いの相手は、誰ですか?」

 空気が止まる。

 公爵の瞳が、わずかに揺れた。
 逃げる男なら、ここで“事情”を語る。
 曖昧な言葉で、逃げる。

 けれど彼は、今日、逃げないために来た。

 公爵は唇を開き、言った。

 「……お前だ」

 それだけで、胸の奥の何かが軋む。

 リリアーヌは微笑まなかった。
 喜びより先に、痛みが来る。——どうして今まで言わなかったのか。

 「嘘」

 絞り出した声は、冷たくはない。
 ただ、弱い。

 公爵は首を振る。
 強く否定しない。強く否定すれば、命令に聞こえるから。

 「嘘じゃない」

 そして、言葉を続ける。
 不器用な男が、初めて“言葉を足す”ことを選ぶ。

 「昔から、好きだった。
 だが言えば——お前が私の前からいなくなると思った。」

 リリアーヌの胸が、痛く跳ねた。
 縛る。そういう優しさの形が、彼の悪癖だ。

 公爵は視線を落とし、手を握り、開いた。


「守る義務の件がある。   あれを口にすれば、別の誰かが傷つく。……それが怖かった」

 リリアーヌは、息を吐いた。
 理解はできる。理解はできるのに、理解が救いにならない。

 「だから、私が傷ついていいと?」

 声が少しだけ刺になる。
 初めての、刺。

 公爵の眉が動き、表情が痛む。

 「違う」

 短く言ってから、言い直す。

 「……違う。
 俺は、傷つけていいと思っていたわけじゃない。
 ただ——お前なら耐えると、勝手に決めた」

 その告白は、彼の最も醜い部分だ。
 けれど、隠さずに言った。
 だからこそ、リリアーヌの胸は震える。

 「耐えると決めたのは、私じゃない」

 リリアーヌは、そこで初めて目を逸らした。
 泣きたいからではない。
 泣いたら、これまでの“持ちこたえ”が崩れるからだ。

 公爵は、焦って近づかない。
 代わりに、言葉で追う。

 「すまない。
 俺は、耐えさせた。……それを美徳にしていた」

 侍女長が、ほんの僅かに目を細める。
 執事ユリウスの叱責が、届いている証拠。

 リリアーヌはゆっくり、公爵を見る。
 彼の目には、所有がない。
 あるのは、遅すぎた自責と、怖さだ。

 「……私を選ぶと言いましたね」

 「言った」

 「なら、私が一つ、条件を出します」

 公爵の瞳が揺れる。
 条件。ガブリエルの言葉が脳裏をかすめたのだろう。
 だが彼は黙って頷いた。——聞く、と。

 リリアーヌは、静かに言う。

 「私の前で、“義務”を盾にしないで」

 公爵の喉が鳴った。
 否定できない。盾にしてきた。

 「分かった」

 「そして」

 リリアーヌは、一拍置いた。
 ここが一番怖い。
 でも、今日言わなければ、一生言えない。

 「私が“自分で選ぶ”まで、答えを急かさないで」

 公爵は目を閉じ、短く息を吐いた。
 拒むのではなく、飲み込むための呼吸だった。

 「……分かった」

 その返事は、彼にとっては敗北だ。
けれど、彼女にとっては救いだ。

 リリアーヌは、胸の奥で小さく何かがほどけるのを感じた。
 完全にはほどけない。
 でも、ほどけ始めた。

 公爵は、最後に一言だけ言った。

 「お前が選ぶまで、俺は逃げない」

 逃げない。
 その言葉は、甘くない。
 けれど、甘い言葉より重い。

 リリアーヌは、視線を落とし、頷きも否定もしなかった。
 代わりに、吐息で言う。

 「……今日の名前は、預かっておきます」

 公爵の口元が、ほんの僅かに動いた。
 笑みではない。痛みと安堵の混ざった歪み。

 侍女長が、そっと咳払いをした。
 五分の終わりを告げる、上品な合図。

 公爵は一礼する。
 深く。命令ではなく、頼みでもなく。
 “受け止めた”礼。

 扉へ向かい、そこで足を止めた。

 「リリアーヌ」

 名前を呼ぶ声は、昨夜の刃とは違う。
 触れないのに、触れる声だ。

 「……俺は、お前を泣かせた。
 だから次は、お前が泣ける場所を作る」

 言い終えると、公爵は出ていった。

 扉が閉まる。

 リリアーヌは、しばらく動けなかった。
 胸の奥が痛いまま、温かい。

 ——片思いの相手は誰?

 ——お前だ。

 その答えを、まだ信じ切れない。
 でも、否定し切れない。

 リリアーヌは自分の手を見た。
 冷えた指先が、少しだけ温まっている。

 それが怖くて、少しだけ嬉しかった。

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