35 / 39
第35章「公爵の選択」
王都の朝は、上品な嘘でできている。
昨夜まであれほど騒がしかった噂も、石畳の上では何事もなかったように薄く伸び、香水の匂いに紛れていく。
公爵は執務室の机に向かっていた。だが、紙の文字は目に入らない。
決裁書の山。赤い封蝋。領地報告。後見に関する書簡——そして、未亡人エリザの追加資料。
いつもなら、仕事の重みが心を整える。
今朝は違う。紙が重い。
重いのは紙ではない。——黙って差し出してきたものの重さだと、もう分かってしまった。
扉が静かに叩かれる。
「閣下」
執事ユリウスの声。
公爵は短く「入れ」と返した。
入室したユリウスは机上を一瞥し、何も言わずに察する。昨夜の空気が、この部屋にまだ残っている。
「王妃殿下より、侍従長を通じて書簡が届いております」
差し出された白い封書。封蝋は王家の色。
公爵は受け取ったが、封は切らない。切らずとも内容は読める。
——適切な対応を。
公爵は封書を机に置き、封蝋を指先でなぞった。押しつぶすように。
「……対応、か」
低い独り言に、ユリウスが淡々と続ける。
「社交界は、昨夜の出来事を物語に変えております。
誰が抱き留めたか。誰が声を荒げたか。誰が怯えたか。——どの順に」
公爵の喉が熱くなる。
怯えた目。あの一歩。
それが噂話の材料になることが、耐え難い。
「止めろ」
「止めるには、上書きが必要です」
感情ではない。現実の言い方だった。
公爵は立ち上がり、窓の外を見た。王都はいつも通り動いている。
何もなかったかのように。——それが、ひどく残酷だ。
「……俺は、どうすべきだ」
呟くと、ユリウスが一歩近づいた。
執事が主に近づくのは、叱責のときだけだ。
「閣下。私室で謝罪を重ねても、噂は止まりません。
そして——お嬢様の心も戻りません」
公爵は唇を噛む。
謝った。言葉を選ぼうとした。
それでも、彼女の目は戻らなかった。
「……説明できないことがある」
声が、言い訳の形になる。悪癖だと分かっているのに、喉が勝手にそれを選ぶ。
ユリウスは切り捨てない。
ただ、逃げ道を塞ぐように言った。
「説明できないことがあるなら、“説明できる範囲で”示すべきです」
公爵の視線が、机の端の資料へ落ちる。
遺児。領地。約束。危険。
守る義務——それは事実だ。
だが、その事実を盾にして、肝心な人を傷つけたのもまた事実だった。
「……エリザの件は、軽々しく口にできない」
「はい。ですから、順序がございます」
ユリウスは封書とは別の書類を差し出した。王妃宮からの口頭伝達の控え。要点だけが短い。
「王妃殿下は昨夜の件を公爵家の問題として扱われます。
——つまり、場を用意なさる」
公爵の指が止まる。
「場……?」
「ええ。噂の前で、筋を通す場です」
公爵は息を吐いた。逃げたい。
だが逃げた瞬間、噂が勝つ。
そして彼女が折れる。
——もう、折らせない。
公爵は机に手をつき、腹の底で決めた。
「王妃殿下に——謁見を願う」
ユリウスの目が、僅かに揺れる。許されるかどうかではない。主が“選んだ”ことへの安堵だ。
「承知いたしました。
ですが、閣下。謁見はお願いでは済みません」
公爵が視線を上げる。
「……何が必要だ」
ユリウスは無慈悲なほど正確に答えた。
「頭を下げる覚悟です。
王妃殿下に対してではなく——お嬢様の名誉に対して」
胸が痛む。名誉。
彼女が守ってきたものを、昨夜、自分の声で傷つけた。
「……分かっている」
「いいえ、閣下」
ユリウスが一歩踏み込む。
「分かっているなら、言葉にしてください。
誰の前で、何を示すのか。——逃げない、と」
公爵は拳を握った。握って、開いた。
その動作を、今日は逃げのために使わない。
「……公の場で、示す」
ユリウスが一礼する。
「では、準備をいたします」
公爵は机上の白い封書を手に取った。王妃の鍵。——同時に、最後の猶予。
封書を胸に押し当てる。自分に言い聞かせるように。
「俺は、曖昧にしない。
誰の名誉を守るのか。誰の隣に立つのか——決める」
背中に、ユリウスの声が落ちる。
「閣下。巧い言葉は不要です。
必要なのは、責任を取る言葉だけ」
扉が閉まった。
執務室に残ったのは、紙の匂いではなく、昨夜の余熱だった。
公爵は封蝋に爪をかける。
——逃げない。
それは初めて、体裁より先に選ぶ決意。
封が切れる音は小さい。
それでも胸の奥では、雷のように鳴った。
公爵は白い紙に視線を落としたまま、低く呟く。
「……リリアーヌ。
今度は、俺が公の場で、お前を守る」
その頃、静養の離れでは、リリアーヌのもとへ返事を待つ男が訪れていた。
昨夜まであれほど騒がしかった噂も、石畳の上では何事もなかったように薄く伸び、香水の匂いに紛れていく。
公爵は執務室の机に向かっていた。だが、紙の文字は目に入らない。
決裁書の山。赤い封蝋。領地報告。後見に関する書簡——そして、未亡人エリザの追加資料。
いつもなら、仕事の重みが心を整える。
今朝は違う。紙が重い。
重いのは紙ではない。——黙って差し出してきたものの重さだと、もう分かってしまった。
扉が静かに叩かれる。
「閣下」
執事ユリウスの声。
公爵は短く「入れ」と返した。
入室したユリウスは机上を一瞥し、何も言わずに察する。昨夜の空気が、この部屋にまだ残っている。
「王妃殿下より、侍従長を通じて書簡が届いております」
差し出された白い封書。封蝋は王家の色。
公爵は受け取ったが、封は切らない。切らずとも内容は読める。
——適切な対応を。
公爵は封書を机に置き、封蝋を指先でなぞった。押しつぶすように。
「……対応、か」
低い独り言に、ユリウスが淡々と続ける。
「社交界は、昨夜の出来事を物語に変えております。
誰が抱き留めたか。誰が声を荒げたか。誰が怯えたか。——どの順に」
公爵の喉が熱くなる。
怯えた目。あの一歩。
それが噂話の材料になることが、耐え難い。
「止めろ」
「止めるには、上書きが必要です」
感情ではない。現実の言い方だった。
公爵は立ち上がり、窓の外を見た。王都はいつも通り動いている。
何もなかったかのように。——それが、ひどく残酷だ。
「……俺は、どうすべきだ」
呟くと、ユリウスが一歩近づいた。
執事が主に近づくのは、叱責のときだけだ。
「閣下。私室で謝罪を重ねても、噂は止まりません。
そして——お嬢様の心も戻りません」
公爵は唇を噛む。
謝った。言葉を選ぼうとした。
それでも、彼女の目は戻らなかった。
「……説明できないことがある」
声が、言い訳の形になる。悪癖だと分かっているのに、喉が勝手にそれを選ぶ。
ユリウスは切り捨てない。
ただ、逃げ道を塞ぐように言った。
「説明できないことがあるなら、“説明できる範囲で”示すべきです」
公爵の視線が、机の端の資料へ落ちる。
遺児。領地。約束。危険。
守る義務——それは事実だ。
だが、その事実を盾にして、肝心な人を傷つけたのもまた事実だった。
「……エリザの件は、軽々しく口にできない」
「はい。ですから、順序がございます」
ユリウスは封書とは別の書類を差し出した。王妃宮からの口頭伝達の控え。要点だけが短い。
「王妃殿下は昨夜の件を公爵家の問題として扱われます。
——つまり、場を用意なさる」
公爵の指が止まる。
「場……?」
「ええ。噂の前で、筋を通す場です」
公爵は息を吐いた。逃げたい。
だが逃げた瞬間、噂が勝つ。
そして彼女が折れる。
——もう、折らせない。
公爵は机に手をつき、腹の底で決めた。
「王妃殿下に——謁見を願う」
ユリウスの目が、僅かに揺れる。許されるかどうかではない。主が“選んだ”ことへの安堵だ。
「承知いたしました。
ですが、閣下。謁見はお願いでは済みません」
公爵が視線を上げる。
「……何が必要だ」
ユリウスは無慈悲なほど正確に答えた。
「頭を下げる覚悟です。
王妃殿下に対してではなく——お嬢様の名誉に対して」
胸が痛む。名誉。
彼女が守ってきたものを、昨夜、自分の声で傷つけた。
「……分かっている」
「いいえ、閣下」
ユリウスが一歩踏み込む。
「分かっているなら、言葉にしてください。
誰の前で、何を示すのか。——逃げない、と」
公爵は拳を握った。握って、開いた。
その動作を、今日は逃げのために使わない。
「……公の場で、示す」
ユリウスが一礼する。
「では、準備をいたします」
公爵は机上の白い封書を手に取った。王妃の鍵。——同時に、最後の猶予。
封書を胸に押し当てる。自分に言い聞かせるように。
「俺は、曖昧にしない。
誰の名誉を守るのか。誰の隣に立つのか——決める」
背中に、ユリウスの声が落ちる。
「閣下。巧い言葉は不要です。
必要なのは、責任を取る言葉だけ」
扉が閉まった。
執務室に残ったのは、紙の匂いではなく、昨夜の余熱だった。
公爵は封蝋に爪をかける。
——逃げない。
それは初めて、体裁より先に選ぶ決意。
封が切れる音は小さい。
それでも胸の奥では、雷のように鳴った。
公爵は白い紙に視線を落としたまま、低く呟く。
「……リリアーヌ。
今度は、俺が公の場で、お前を守る」
その頃、静養の離れでは、リリアーヌのもとへ返事を待つ男が訪れていた。
あなたにおすすめの小説
私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ
みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。
婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。
これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。
愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。
毎日20時30分に投稿
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
【感謝】
第19回恋愛小説大賞にて奨励賞を受賞しました。
ありがとうございます。
[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜
h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」
二人は再び手を取り合うことができるのか……。
全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)
【完結】ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
【完結】大好きな幼馴染には愛している人がいるようです。だからわたしは頑張って仕事に生きようと思います。
たろ
恋愛
幼馴染のロード。
学校を卒業してロードは村から街へ。
街の警備隊の騎士になり、気がつけば人気者に。
ダリアは大好きなロードの近くにいたくて街に出て子爵家のメイドとして働き出した。
なかなか会うことはなくても同じ街にいるだけでも幸せだと思っていた。いつかは終わらせないといけない片思い。
ロードが恋人を作るまで、夢を見ていようと思っていたのに……何故か自分がロードの恋人になってしまった。
それも女避けのための(仮)の恋人に。
そしてとうとうロードには愛する女性が現れた。
ダリアは、静かに身を引く決意をして………
★ 短編から長編に変更させていただきます。
すみません。いつものように話が長くなってしまいました。
愛しているからこそ、彼の望み通り婚約解消をしようと思います【完結済み】
皇 翼
恋愛
「俺は、お前の様な馬鹿な女と結婚などするつもりなどない。だからお前と婚約するのは、表面上だけだ。俺が22になり、王位を継承するその時にお前とは婚約を解消させてもらう。分かったな?」
お見合いの場。二人きりになった瞬間開口一番に言われた言葉がこれだった。
初対面の人間にこんな発言をする人間だ。好きになるわけない……そう思っていたのに、恋とはままならない。共に過ごして、彼の色んな表情を見ている内にいつの間にか私は彼を好きになってしまっていた――。
好き……いや、愛しているからこそ、彼を縛りたくない。だからこのまま潔く消えることで、婚約解消したいと思います。
******
・感想欄は完結してから開きます。
旦那様は離縁をお望みでしょうか
村上かおり
恋愛
ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。
けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。
バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。
侯爵令嬢ソフィアの結婚
今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚した。これは金が欲しい父の思惑と、高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない。
そもそもヴィンセントには恋人がいて、その恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ。
結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら屋に住むように言われて……
表紙はかなさんのファンアートです✨
ありがとうございます😊
2024.07.05