あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第35章「公爵の選択」

 王都の朝は、上品な嘘でできている。
 昨夜まであれほど騒がしかった噂も、石畳の上では何事もなかったように薄く伸び、香水の匂いに紛れていく。

 公爵は執務室の机に向かっていた。だが、紙の文字は目に入らない。
 決裁書の山。赤い封蝋。領地報告。後見に関する書簡——そして、未亡人エリザの追加資料。

 いつもなら、仕事の重みが心を整える。
 今朝は違う。紙が重い。
 重いのは紙ではない。——黙って差し出してきたものの重さだと、もう分かってしまった。

 扉が静かに叩かれる。

 「閣下」

 執事ユリウスの声。
 公爵は短く「入れ」と返した。

 入室したユリウスは机上を一瞥し、何も言わずに察する。昨夜の空気が、この部屋にまだ残っている。

 「王妃殿下より、侍従長を通じて書簡が届いております」

 差し出された白い封書。封蝋は王家の色。
 公爵は受け取ったが、封は切らない。切らずとも内容は読める。

 ——適切な対応を。

 公爵は封書を机に置き、封蝋を指先でなぞった。押しつぶすように。

 「……対応、か」

 低い独り言に、ユリウスが淡々と続ける。

 「社交界は、昨夜の出来事を物語に変えております。
 誰が抱き留めたか。誰が声を荒げたか。誰が怯えたか。——どの順に」

 公爵の喉が熱くなる。
 怯えた目。あの一歩。
 それが噂話の材料になることが、耐え難い。

 「止めろ」

 「止めるには、上書きが必要です」

 感情ではない。現実の言い方だった。

 公爵は立ち上がり、窓の外を見た。王都はいつも通り動いている。
 何もなかったかのように。——それが、ひどく残酷だ。

 「……俺は、どうすべきだ」

 呟くと、ユリウスが一歩近づいた。
 執事が主に近づくのは、叱責のときだけだ。

 「閣下。私室で謝罪を重ねても、噂は止まりません。
 そして——お嬢様の心も戻りません」

 公爵は唇を噛む。
 謝った。言葉を選ぼうとした。
 それでも、彼女の目は戻らなかった。

 「……説明できないことがある」

 声が、言い訳の形になる。悪癖だと分かっているのに、喉が勝手にそれを選ぶ。

 ユリウスは切り捨てない。
 ただ、逃げ道を塞ぐように言った。

 「説明できないことがあるなら、“説明できる範囲で”示すべきです」

 公爵の視線が、机の端の資料へ落ちる。
 遺児。領地。約束。危険。
 守る義務——それは事実だ。

 だが、その事実を盾にして、肝心な人を傷つけたのもまた事実だった。

 「……エリザの件は、軽々しく口にできない」

 「はい。ですから、順序がございます」

 ユリウスは封書とは別の書類を差し出した。王妃宮からの口頭伝達の控え。要点だけが短い。

 「王妃殿下は昨夜の件を公爵家の問題として扱われます。
 ——つまり、場を用意なさる」

 公爵の指が止まる。

 「場……?」

 「ええ。噂の前で、筋を通す場です」

 公爵は息を吐いた。逃げたい。
 だが逃げた瞬間、噂が勝つ。
 そして彼女が折れる。

 ——もう、折らせない。

 公爵は机に手をつき、腹の底で決めた。

 「王妃殿下に——謁見を願う」

 ユリウスの目が、僅かに揺れる。許されるかどうかではない。主が“選んだ”ことへの安堵だ。

 「承知いたしました。
 ですが、閣下。謁見はお願いでは済みません」

 公爵が視線を上げる。

 「……何が必要だ」

 ユリウスは無慈悲なほど正確に答えた。

 「頭を下げる覚悟です。
 王妃殿下に対してではなく——お嬢様の名誉に対して」

 胸が痛む。名誉。
 彼女が守ってきたものを、昨夜、自分の声で傷つけた。

 「……分かっている」

 「いいえ、閣下」

 ユリウスが一歩踏み込む。

 「分かっているなら、言葉にしてください。
 誰の前で、何を示すのか。——逃げない、と」

 公爵は拳を握った。握って、開いた。
 その動作を、今日は逃げのために使わない。

 「……公の場で、示す」

 ユリウスが一礼する。

 「では、準備をいたします」

 公爵は机上の白い封書を手に取った。王妃の鍵。——同時に、最後の猶予。

 封書を胸に押し当てる。自分に言い聞かせるように。

 「俺は、曖昧にしない。
 誰の名誉を守るのか。誰の隣に立つのか——決める」

 背中に、ユリウスの声が落ちる。

 「閣下。巧い言葉は不要です。
 必要なのは、責任を取る言葉だけ」

 扉が閉まった。

 執務室に残ったのは、紙の匂いではなく、昨夜の余熱だった。
 公爵は封蝋に爪をかける。

 ——逃げない。

 それは初めて、体裁より先に選ぶ決意。

 封が切れる音は小さい。
 それでも胸の奥では、雷のように鳴った。

 公爵は白い紙に視線を落としたまま、低く呟く。

 「……リリアーヌ。
 今度は、俺が公の場で、お前を守る」

 その頃、静養の離れでは、リリアーヌのもとへ返事を待つ男が訪れていた。

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