冷たい王妃の生活

柴田はつみ

文字の大きさ
10 / 10

最終章「誓いの夜」

しおりを挟む
 夜の王都は、雪解けの匂いをほんのわずかに含んでいた。
 王宮の塔は灯火をまとい、風が高窓をなでるたび、薄い鈴の音のような魔法の共鳴が鳴る。
 小広間で互いの誤解を解いたその足で、私はアレクシスに導かれて王の私室へ向かった。

 長廊の先、最後の扉が開く。
 広すぎない、しかし静けさの行き届いた部屋だった。壁にかかる地図と剣、窓辺の本。机の上には封の切られていない書状が積まれ、硝子壺には雪薔薇が一枝活けられている。
 その白が、夜の青の中でかすかに輝いていた。

「……落ち着くのね」
「仕事部屋は広すぎる。ここは、俺が人でいられる場所だ」
 彼は微笑の気配だけを見せ、卓上の燭台に火を移した。炎がゆっくりと増え、室内の影を追いやっていく。

「聞いてほしいことがある」
「ええ」
「明日、王宮の使者がファルネーゼ領へ向かう。――正式な縁切りの取り消しと、再婚の許しを願い出る手続きだ」

 心臓が、不意に強く打った。
「再婚……」
「政略としてではない。君と俺の意志として。宮廷が何を言おうと、俺はもう間違わない」
 彼のまなざしは真っ直ぐだった。過去に自ら積み上げた氷の壁を、ひとつずつ砕いてきた男の目。

「陛下。……いいえ、アレクシス」
 私は名を呼ぶ。呼んで、胸の奥が熱くなるのを確かめる。
「約束できる? 言葉だけではなく、日々を続ける約束を」
「できる。言葉も、行動も惜しまない」

 彼は机の引き出しから小さな包みを取り出し、私の掌に置いた。
 紺の布をほどくと、銀の指輪が現れる。雪薔薇を模した彫金が細やかに連なり、中心に小さな星の欠片のような魔石が埋め込まれている。

「星見の間の床石から割れた破片だ。君が王妃だったころ、初めて共に儀式の打合せをした夜に、あの床に落としたランタンの欠片――ずっと取っておいた」
「……そんな昔から」
「捨てられなかった。手から離したら、二度と君に触れられない気がして」

 笑ってしまう。泣きそうになりながら。
「不器用ね」
「自覚はある」

 指輪が薬指に触れた瞬間、指先から静かな温もりが昇った。魔石が私の魔力と共鳴し、雪薔薇の彫りに淡い光が灯る。
 アレクシスの手が私の手を包み、額がそっと触れる距離で囁く。

「リディア。俺と、家族になってくれ」
「……はい」

 言葉は驚くほど軽く唇から落ちたのに、胸の奥では金の鐘がゆっくり鳴り続けている。
 彼がほっと息を吐くのが分かった。強くも弱くもない、確かな抱擁。三年の空白の分だけ長く、けれど埋めようと焦ることのない抱擁だった。

 窓の外、王都の上空を一筋の光が走る。
 見張り塔で放たれた合図の魔法――遠征から近衛の一隊が戻った知らせだろう。
 夜の静けさに、戻ってくる音と、始まっていく音が重なる。

「カインのことも、伝えておくべきだ」
「え?」
「明朝、近衛詰所で任を戻す。誤解の原因は俺にもある。彼は良い盾だ。君が森へ行くなら、堂々と護衛に付け」
「……ありがとう」
「俺は嫉妬深い。だが、君を狭い檻に入れたくはない」

 その言い回しに微笑む。
「私も、あなたを独りで戦わせない」

 短い沈黙。
 彼が視線を外して窓の外の暗を見、すぐに戻す。
「怖かったんだ。君の前で臆病だと明かすことが。王は常に正しく強くあるべきだと教えられてきたから」
「王は一人で王じゃないわ。隣にいる人が、その強さを毎日作るの。……私は、そうなりたい」

 その一言で、彼の肩から目に見えない重さがほどけたのがわかった。
 彼は私の手をとり、窓辺へ導く。ガラスの向こうで夜風が光を震わせ、街の灯が遠くに散る星座のように広がる。

「見ろ。――あれが俺たちの国だ」
 囁きに、胸が満ちる。
 王妃としてではなく、一人の女として、一人の男の隣で見る国の風景。
 目の奥がじん、と温かい。

「……踊る?」
 ふいに彼が問う。
「音楽は?」
「魔法の小箱がある」
 机の奥から取り出された木箱に触れると、弦の音色が静かに流れ出す。
 私は裾を摘み、彼に一礼した。彼は最上の礼で応え、手を差し出す。

 足さばきはゆっくりと、呼吸のように。
 始めのうちは遠慮が混じるが、二巡、三巡と重ねるうち、互いの重心が自然に絡み合っていく。
 視線と視線。指先と指先。
 長い空白が、音符の間を埋める休符みたいに、曲に深さを与えていた。

 音が止む。
 世界が、二人の鼓動だけになる。
 彼の唇が近づき、そして触れた。短く、確かに。
 続く二度目は、問いかけるように。三度目は、答えを確かめるように。

「愛している、リディア」
「私も、アレクシス」

 名を呼び合うとき、過去形はどこにもいなかった。
 ただ、いまここにある現在と、これから続く未来だけがあった。

 やがて、窓の外の空がすこし白み、遠くの屋根に薄い霜の色が戻る。
 夜と朝の境目に立ちながら、彼が小さく笑う。

「明日から忙しくなる。再婚の手続き、議会の説得、宰相の渋い顔、ミレーネの難しい忠言」
「全部、ここで聞くわ。あなたの隣で」
「頼もしい王妃だ」
「まだ“王妃”じゃないわ」
「なら、早くそう呼ばせてくれ」

 二人で笑う。
 笑いながら、私はふと窓に触れ、指で曇りガラスに雪薔薇を描いた。
 花弁の中心に、星の点をひとつ。

「誓いましょう」
「誓おう」

 彼は私の手をとり、右手を胸に、左手を窓の外へかざす。
 王が戦に赴く前に交わす簡素な誓い方――けれど私たちにとっては十分だった。

「病めるときも、健やかなるときも、国が荒れる夜にも、豊穣の夏にも。俺は君を選び続ける」
「疑う朝も、泣く夕べも、笑う昼も。私はあなたの隣で、あなたを選び続ける」

 それは祝詞でも契約でもない。
 ただ二人の、たしかな言葉だった。

 外で、夜警の交代を告げる角笛が鳴る。
 最初の光が塔の縁を撫で、部屋の雪薔薇がほんのりと色を持つ。
 指輪の魔石がかすかに応え、私たちの指に柔らかな光輪を作った。

「おはよう、リディア」
「おはよう、アレクシス」

 長い夜は、ここで終わった。
 同じ屋根の下、同じ窓から同じ国を見て、同じ名を呼ぶ朝が始まる。

―― 完 ――
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された公爵令嬢は心を閉ざして生きていく

おいどん
恋愛
「アメリアには申し訳ないが…婚約を破棄させてほしい」 私はグランシエール公爵家の令嬢、アメリア・グランシエール。 決して誰かを恨んだり、憎んだりしてはいけない。 苦しみを胸の奥に閉じ込めて生きるアメリアの前に、元婚約者の従兄、レオナールが現れる。 「俺は、アメリアの味方だ」 「では、残された私は何のためにいるのですか!?」

【本編完結】笑顔で離縁してください 〜貴方に恋をしてました〜

桜夜
恋愛
「旦那様、私と離縁してください!」 私は今までに見せたことがないような笑顔で旦那様に離縁を申し出た……。 私はアルメニア王国の第三王女でした。私には二人のお姉様がいます。一番目のエリーお姉様は頭脳明晰でお優しく、何をするにも完璧なお姉様でした。二番目のウルルお姉様はとても美しく皆の憧れの的で、ご結婚をされた今では社交界の女性達をまとめております。では三番目の私は……。 王族では国が豊かになると噂される瞳の色を持った平凡な女でした… そんな私の旦那様は騎士団長をしており女性からも人気のある公爵家の三男の方でした……。 平凡な私が彼の方の隣にいてもいいのでしょうか? なので離縁させていただけませんか? 旦那様も離縁した方が嬉しいですよね?だって……。 *小説家になろう、カクヨムにも投稿しています

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

もう演じなくて結構です

梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。 愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。 11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。   感想などいただけると、嬉しいです。 11/14 完結いたしました。 11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。

王子様への置き手紙

あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯ 小説家になろうにも掲載しています。

記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。 穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。 ——あの日までは。 突如として王都を揺るがした 「王太子サフィル、重傷」の報せ。 駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。 ※本作品は別サイトにて掲載中です

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

処理中です...