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最終章「誓いの夜」
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夜の王都は、雪解けの匂いをほんのわずかに含んでいた。
王宮の塔は灯火をまとい、風が高窓をなでるたび、薄い鈴の音のような魔法の共鳴が鳴る。
小広間で互いの誤解を解いたその足で、私はアレクシスに導かれて王の私室へ向かった。
長廊の先、最後の扉が開く。
広すぎない、しかし静けさの行き届いた部屋だった。壁にかかる地図と剣、窓辺の本。机の上には封の切られていない書状が積まれ、硝子壺には雪薔薇が一枝活けられている。
その白が、夜の青の中でかすかに輝いていた。
「……落ち着くのね」
「仕事部屋は広すぎる。ここは、俺が人でいられる場所だ」
彼は微笑の気配だけを見せ、卓上の燭台に火を移した。炎がゆっくりと増え、室内の影を追いやっていく。
「聞いてほしいことがある」
「ええ」
「明日、王宮の使者がファルネーゼ領へ向かう。――正式な縁切りの取り消しと、再婚の許しを願い出る手続きだ」
心臓が、不意に強く打った。
「再婚……」
「政略としてではない。君と俺の意志として。宮廷が何を言おうと、俺はもう間違わない」
彼のまなざしは真っ直ぐだった。過去に自ら積み上げた氷の壁を、ひとつずつ砕いてきた男の目。
「陛下。……いいえ、アレクシス」
私は名を呼ぶ。呼んで、胸の奥が熱くなるのを確かめる。
「約束できる? 言葉だけではなく、日々を続ける約束を」
「できる。言葉も、行動も惜しまない」
彼は机の引き出しから小さな包みを取り出し、私の掌に置いた。
紺の布をほどくと、銀の指輪が現れる。雪薔薇を模した彫金が細やかに連なり、中心に小さな星の欠片のような魔石が埋め込まれている。
「星見の間の床石から割れた破片だ。君が王妃だったころ、初めて共に儀式の打合せをした夜に、あの床に落としたランタンの欠片――ずっと取っておいた」
「……そんな昔から」
「捨てられなかった。手から離したら、二度と君に触れられない気がして」
笑ってしまう。泣きそうになりながら。
「不器用ね」
「自覚はある」
指輪が薬指に触れた瞬間、指先から静かな温もりが昇った。魔石が私の魔力と共鳴し、雪薔薇の彫りに淡い光が灯る。
アレクシスの手が私の手を包み、額がそっと触れる距離で囁く。
「リディア。俺と、家族になってくれ」
「……はい」
言葉は驚くほど軽く唇から落ちたのに、胸の奥では金の鐘がゆっくり鳴り続けている。
彼がほっと息を吐くのが分かった。強くも弱くもない、確かな抱擁。三年の空白の分だけ長く、けれど埋めようと焦ることのない抱擁だった。
窓の外、王都の上空を一筋の光が走る。
見張り塔で放たれた合図の魔法――遠征から近衛の一隊が戻った知らせだろう。
夜の静けさに、戻ってくる音と、始まっていく音が重なる。
「カインのことも、伝えておくべきだ」
「え?」
「明朝、近衛詰所で任を戻す。誤解の原因は俺にもある。彼は良い盾だ。君が森へ行くなら、堂々と護衛に付け」
「……ありがとう」
「俺は嫉妬深い。だが、君を狭い檻に入れたくはない」
その言い回しに微笑む。
「私も、あなたを独りで戦わせない」
短い沈黙。
彼が視線を外して窓の外の暗を見、すぐに戻す。
「怖かったんだ。君の前で臆病だと明かすことが。王は常に正しく強くあるべきだと教えられてきたから」
「王は一人で王じゃないわ。隣にいる人が、その強さを毎日作るの。……私は、そうなりたい」
その一言で、彼の肩から目に見えない重さがほどけたのがわかった。
彼は私の手をとり、窓辺へ導く。ガラスの向こうで夜風が光を震わせ、街の灯が遠くに散る星座のように広がる。
「見ろ。――あれが俺たちの国だ」
囁きに、胸が満ちる。
王妃としてではなく、一人の女として、一人の男の隣で見る国の風景。
目の奥がじん、と温かい。
「……踊る?」
ふいに彼が問う。
「音楽は?」
「魔法の小箱がある」
机の奥から取り出された木箱に触れると、弦の音色が静かに流れ出す。
私は裾を摘み、彼に一礼した。彼は最上の礼で応え、手を差し出す。
足さばきはゆっくりと、呼吸のように。
始めのうちは遠慮が混じるが、二巡、三巡と重ねるうち、互いの重心が自然に絡み合っていく。
視線と視線。指先と指先。
長い空白が、音符の間を埋める休符みたいに、曲に深さを与えていた。
音が止む。
世界が、二人の鼓動だけになる。
彼の唇が近づき、そして触れた。短く、確かに。
続く二度目は、問いかけるように。三度目は、答えを確かめるように。
「愛している、リディア」
「私も、アレクシス」
名を呼び合うとき、過去形はどこにもいなかった。
ただ、いまここにある現在と、これから続く未来だけがあった。
やがて、窓の外の空がすこし白み、遠くの屋根に薄い霜の色が戻る。
夜と朝の境目に立ちながら、彼が小さく笑う。
「明日から忙しくなる。再婚の手続き、議会の説得、宰相の渋い顔、ミレーネの難しい忠言」
「全部、ここで聞くわ。あなたの隣で」
「頼もしい王妃だ」
「まだ“王妃”じゃないわ」
「なら、早くそう呼ばせてくれ」
二人で笑う。
笑いながら、私はふと窓に触れ、指で曇りガラスに雪薔薇を描いた。
花弁の中心に、星の点をひとつ。
「誓いましょう」
「誓おう」
彼は私の手をとり、右手を胸に、左手を窓の外へかざす。
王が戦に赴く前に交わす簡素な誓い方――けれど私たちにとっては十分だった。
「病めるときも、健やかなるときも、国が荒れる夜にも、豊穣の夏にも。俺は君を選び続ける」
「疑う朝も、泣く夕べも、笑う昼も。私はあなたの隣で、あなたを選び続ける」
それは祝詞でも契約でもない。
ただ二人の、たしかな言葉だった。
外で、夜警の交代を告げる角笛が鳴る。
最初の光が塔の縁を撫で、部屋の雪薔薇がほんのりと色を持つ。
指輪の魔石がかすかに応え、私たちの指に柔らかな光輪を作った。
「おはよう、リディア」
「おはよう、アレクシス」
長い夜は、ここで終わった。
同じ屋根の下、同じ窓から同じ国を見て、同じ名を呼ぶ朝が始まる。
―― 完 ――
王宮の塔は灯火をまとい、風が高窓をなでるたび、薄い鈴の音のような魔法の共鳴が鳴る。
小広間で互いの誤解を解いたその足で、私はアレクシスに導かれて王の私室へ向かった。
長廊の先、最後の扉が開く。
広すぎない、しかし静けさの行き届いた部屋だった。壁にかかる地図と剣、窓辺の本。机の上には封の切られていない書状が積まれ、硝子壺には雪薔薇が一枝活けられている。
その白が、夜の青の中でかすかに輝いていた。
「……落ち着くのね」
「仕事部屋は広すぎる。ここは、俺が人でいられる場所だ」
彼は微笑の気配だけを見せ、卓上の燭台に火を移した。炎がゆっくりと増え、室内の影を追いやっていく。
「聞いてほしいことがある」
「ええ」
「明日、王宮の使者がファルネーゼ領へ向かう。――正式な縁切りの取り消しと、再婚の許しを願い出る手続きだ」
心臓が、不意に強く打った。
「再婚……」
「政略としてではない。君と俺の意志として。宮廷が何を言おうと、俺はもう間違わない」
彼のまなざしは真っ直ぐだった。過去に自ら積み上げた氷の壁を、ひとつずつ砕いてきた男の目。
「陛下。……いいえ、アレクシス」
私は名を呼ぶ。呼んで、胸の奥が熱くなるのを確かめる。
「約束できる? 言葉だけではなく、日々を続ける約束を」
「できる。言葉も、行動も惜しまない」
彼は机の引き出しから小さな包みを取り出し、私の掌に置いた。
紺の布をほどくと、銀の指輪が現れる。雪薔薇を模した彫金が細やかに連なり、中心に小さな星の欠片のような魔石が埋め込まれている。
「星見の間の床石から割れた破片だ。君が王妃だったころ、初めて共に儀式の打合せをした夜に、あの床に落としたランタンの欠片――ずっと取っておいた」
「……そんな昔から」
「捨てられなかった。手から離したら、二度と君に触れられない気がして」
笑ってしまう。泣きそうになりながら。
「不器用ね」
「自覚はある」
指輪が薬指に触れた瞬間、指先から静かな温もりが昇った。魔石が私の魔力と共鳴し、雪薔薇の彫りに淡い光が灯る。
アレクシスの手が私の手を包み、額がそっと触れる距離で囁く。
「リディア。俺と、家族になってくれ」
「……はい」
言葉は驚くほど軽く唇から落ちたのに、胸の奥では金の鐘がゆっくり鳴り続けている。
彼がほっと息を吐くのが分かった。強くも弱くもない、確かな抱擁。三年の空白の分だけ長く、けれど埋めようと焦ることのない抱擁だった。
窓の外、王都の上空を一筋の光が走る。
見張り塔で放たれた合図の魔法――遠征から近衛の一隊が戻った知らせだろう。
夜の静けさに、戻ってくる音と、始まっていく音が重なる。
「カインのことも、伝えておくべきだ」
「え?」
「明朝、近衛詰所で任を戻す。誤解の原因は俺にもある。彼は良い盾だ。君が森へ行くなら、堂々と護衛に付け」
「……ありがとう」
「俺は嫉妬深い。だが、君を狭い檻に入れたくはない」
その言い回しに微笑む。
「私も、あなたを独りで戦わせない」
短い沈黙。
彼が視線を外して窓の外の暗を見、すぐに戻す。
「怖かったんだ。君の前で臆病だと明かすことが。王は常に正しく強くあるべきだと教えられてきたから」
「王は一人で王じゃないわ。隣にいる人が、その強さを毎日作るの。……私は、そうなりたい」
その一言で、彼の肩から目に見えない重さがほどけたのがわかった。
彼は私の手をとり、窓辺へ導く。ガラスの向こうで夜風が光を震わせ、街の灯が遠くに散る星座のように広がる。
「見ろ。――あれが俺たちの国だ」
囁きに、胸が満ちる。
王妃としてではなく、一人の女として、一人の男の隣で見る国の風景。
目の奥がじん、と温かい。
「……踊る?」
ふいに彼が問う。
「音楽は?」
「魔法の小箱がある」
机の奥から取り出された木箱に触れると、弦の音色が静かに流れ出す。
私は裾を摘み、彼に一礼した。彼は最上の礼で応え、手を差し出す。
足さばきはゆっくりと、呼吸のように。
始めのうちは遠慮が混じるが、二巡、三巡と重ねるうち、互いの重心が自然に絡み合っていく。
視線と視線。指先と指先。
長い空白が、音符の間を埋める休符みたいに、曲に深さを与えていた。
音が止む。
世界が、二人の鼓動だけになる。
彼の唇が近づき、そして触れた。短く、確かに。
続く二度目は、問いかけるように。三度目は、答えを確かめるように。
「愛している、リディア」
「私も、アレクシス」
名を呼び合うとき、過去形はどこにもいなかった。
ただ、いまここにある現在と、これから続く未来だけがあった。
やがて、窓の外の空がすこし白み、遠くの屋根に薄い霜の色が戻る。
夜と朝の境目に立ちながら、彼が小さく笑う。
「明日から忙しくなる。再婚の手続き、議会の説得、宰相の渋い顔、ミレーネの難しい忠言」
「全部、ここで聞くわ。あなたの隣で」
「頼もしい王妃だ」
「まだ“王妃”じゃないわ」
「なら、早くそう呼ばせてくれ」
二人で笑う。
笑いながら、私はふと窓に触れ、指で曇りガラスに雪薔薇を描いた。
花弁の中心に、星の点をひとつ。
「誓いましょう」
「誓おう」
彼は私の手をとり、右手を胸に、左手を窓の外へかざす。
王が戦に赴く前に交わす簡素な誓い方――けれど私たちにとっては十分だった。
「病めるときも、健やかなるときも、国が荒れる夜にも、豊穣の夏にも。俺は君を選び続ける」
「疑う朝も、泣く夕べも、笑う昼も。私はあなたの隣で、あなたを選び続ける」
それは祝詞でも契約でもない。
ただ二人の、たしかな言葉だった。
外で、夜警の交代を告げる角笛が鳴る。
最初の光が塔の縁を撫で、部屋の雪薔薇がほんのりと色を持つ。
指輪の魔石がかすかに応え、私たちの指に柔らかな光輪を作った。
「おはよう、リディア」
「おはよう、アレクシス」
長い夜は、ここで終わった。
同じ屋根の下、同じ窓から同じ国を見て、同じ名を呼ぶ朝が始まる。
―― 完 ――
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