貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ

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第五章 臨界点の嫉妬と、男たちの対立

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リリーの徹底した「完璧な妻」の振る舞いは、瞬く間に社交界の話題となった。
かつて冷え切っていた侯爵夫妻が、まるで見違えるように円満になった――人々はそう受け取った。

だが、その実態は、カイル侯爵にとって耐え難い地獄だった。

ある晩餐会でのこと。
リリーは自然な仕草でカイルのネクタイの歪みを直し、囁く。

「侯爵様。今夜のお話、皆さま本当に熱心に聞いておられましたわ」

指先が首筋に触れた、その一瞬。
カイルの背筋に、冷たいものが走った。

美しい微笑み。愛情に満ちた声。
――だが、それは彼にとって、最も冷酷な嘲笑にしか思えなかった。

(この女は、私を愚弄している)

自分が愛されていないことを、彼女は知っている。
それでも、衆人環視の中で完璧な「愛」を演じきる――
その冷徹さが、カイルの劣等感を容赦なく抉った。

(私を使って、クリスへの愛を守っているのだ……)

カイルは確信していた。
この献身は、クリスの未来のためのもの。
そして同時に、自分への――報復なのだと。


カイルの異様な緊張は、ほどなくクリスの耳にも届いた。

クリスは、リリーがカイルを選んだのだと信じている。
だからこそ、理解できなかった。

なぜ、彼女の献身を、カイルは拒み続けるのか。

「……なぜだ?」

リリーの愛を手にした男は、世界で最も幸福であるはずだ。
それなのに、カイルは彼女を避け、冷遇し、苛立ちを隠そうともしない。

その態度は、クリスの胸に、消したはずの疑念を呼び戻した。

――本当に、彼女は幸せなのか。

彼は、身を引いたつもりだった。
リリーの幸福を、遠くから見守ると決めていた。

だが、カイルの振る舞いは、その「幸福」を脅かしているようにしか見えなかった。



ある夜。
侯爵家の私的な晩餐会が終わった後、カイルは酒に酔い、人気のない回廊をふらついていた。

そこに現れたのは、後始末のために公爵邸から足を運んでいたクリスだった。

濁った目。荒れた呼吸。
そして、リリーへの、歪んだ憎悪。

それを目にした瞬間、クリスの忍耐は尽きた。

「カイル侯爵。――あなたの、リリー夫人への態度は何だ」

低く、鋭い声。
カイルはふらつきながらも、睨み返す。

「私の夫婦の問題だ。公爵が口を出すことではない!」

「口を出すな、だと?」

クリスは一歩、踏み出した。

「彼女は、あれほどあなたに尽くしている。
それなのに、なぜ蔑ろにする。――彼女は、あなたの元で幸せなはずだろう!」

怒りが、声に滲む。
リリーの愛を得ながら、それを踏みにじる男が、どうしても許せなかった。

カイルの胸に、鋭い痛みが走る。

「幸せだと……?」

嗄れた笑いが漏れた。

「彼女の笑顔は、すべてお前のためだ!
お前の未来を守るために、私を欺き、侮辱している!」

彼は一歩詰め寄り、クリスの胸倉を掴んだ。

「彼女の愛を一身に受けておきながら……
なぜ今さら、私に説教をする!」

クリスは静かに、その手を振り払った。
冷え切った目で、カイルを見据える。

「……あなたは、決定的に勘違いをしている」

低く、断じる声。

「リリー夫人は、あなたを深く愛しているからこそ、侯爵家を支えている。
私の知る彼女は、一度決めた愛を裏切るような女ではない」

その言葉は、刃だった。

カイルの中で、何かが崩れる。

――この男は、本気で信じている。
リリーが、自分を愛していると。

「……っ、偽善者め!」

怒号が回廊に響く。

「だから、あの伯爵令嬢と手を組んでいるのだろう!
彼女の愛を疑っているからだ!」

拳が振り上げられる。
だが、クリスは冷静にそれを受け止め、カイルの腕を捻り上げた。

「これ以上、彼女を傷つけるなら」

低く、凍るような声が落ちる。

「公爵の権限をもって、あなたを侯爵家から排除する」

回廊が、静まり返った。

押さえつけられたまま、カイルは初めて悟る。
自分の嫉妬と劣等感が、すべてを壊そうとしていることを。

息を呑む彼の耳に、
遠くで響く音楽だけが、虚しく流れていた。
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