貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ

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第四章 ライラックの決別と、新たなる演技

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カイル侯爵が嫉妬に燃え、荒々しく私室を去った後も、リリーはその場から動けずにいた。
ライラックのブローチを握りしめたまま、まるで時間そのものが止まったかのように。

カイルの怒声は、もはや彼女にとって慣れ親しんだ雑音に過ぎない。
だが――クリスとの間に横たわった、取り返しのつかない距離だけは、静かに、確実に心を蝕んでいた。

(クリストファー様は、もう私を必要としていない)

舞踏会で向けられた冷たい視線。
そして、アメリア令嬢へ注がれていた、穏やかで迷いのない眼差し。

カイルが口にした
「伯爵令嬢との縁談で頭がいっぱいだ」
という言葉が、現実の重みを伴って胸に沈む。

自分が送った
「ご心配には及びません」
という一文は、きっと彼にはこう届いたのだ。

――私は、カイル侯爵との生活を選びました。
――あなたは、もう必要ありません。

それ以来、クリスからの連絡は途絶えた。
二人だけが知る逢瀬の場所も、今は沈黙を守るばかりだ。

リリーはゆっくりと立ち上がり、机に向かった。
開かれた侯爵家の財務帳簿には、異常とも言えるほどの入金が記されている。

一目で分かった。
侯爵家の負債を、ほぼ一掃する額だ。

(……クリストファー様ね)

そう悟りながらも、それを愛だとは思わなかった。

(きっと、アメリア令嬢の家と関係の深い侯爵家を救っただけ。
私個人を想ってのことではないわ)

その援助は、皮肉にも、
リリーが侯爵邸に留まり続ける理由を奪った。

本来なら――
夫の元を去り、クリスの未来から完全に身を引くべきだ。

だが、彼女の胸には、もう一つ、消えない感情があった。

――カイルへの、報復。

自分を憎み、冷遇し続けた男を、
リリーは、まだ許せずにいた。



翌日から、リリーの態度は一変した。

これまでの「冷たい美女」という仮面の上に、
彼女はさらに一枚、仮面を重ねる。

――夫カイル侯爵を深く愛し、献身的に支える、理想の妻。

社交の場では率先して夫を立て、
彼が苦手とする役割を引き受け、
人前では常に一歩後ろに寄り添った。

ある午後の茶会でのこと。

「侯爵様は、新しい鉱山事業に強い関心をお持ちなのです。
私は専門的なことは分かりませんが……その情熱を、心から応援しておりますの」

そう言って、リリーは隣のカイルへ、柔らかく微笑みかけた。

完璧だった。
声の調子も、視線の角度も、微笑みの深さも。

カイルは戸惑いを隠せなかった。
かつて、自分を憎んでいるはずの妻が、なぜこれほどまでに献身的なのか。

(……皮肉か?
それとも、クリスに捨てられた事実を隠すための芝居か?)

彼はその行為を、ますます屈辱として受け取った。

そして、人前であえて突き放す。

「妻は、義務を果たしているだけだ。
私への愛など、あるはずがない」

その言葉は、社交界に冷たく響いた。


やがて、噂は社交界を巡り、当然のようにクリスの耳にも届く。

「リリー夫人は、侯爵を深く愛しているらしい」
「侯爵家が立ち直ったのは、夫人の献身あってこそだ」

それらの言葉は、
彼が抱えていた疑念を、動かしがたい確信へと変えた。

(……やはり、彼女はカイルを選んだ)

自分との関係は、
侯爵夫人という立場から逃れるための、
一時の慰めに過ぎなかったのか。

クリスは、自分が密かに差し伸べた援助が、
結果的にリリーをカイルの元へ縛り付けてしまったことに、
耐え難い後悔を覚える。

彼女の「完璧な妻」という振る舞いは、
愛する夫との生活を守るための、最終的な拒絶。

そう、彼は受け取ってしまった。

公爵としての義務と、失われた愛への絶望が、彼を前へ押し出す。
クリスは感情を切り離し、伯爵令嬢アメリアとの政略的な関係を進め始めた。

もはや、彼の視界にリリーの姿はない。

孤独な私室で、クリスは勲章を強く握りしめる。
それは、かつて彼女に贈った、ライラックのブローチによく似た意匠だった。

――彼女が、幸せでありますように。

誤解は、
愛するがゆえの献身という、最も壊れにくい絆を通して、
二人の心を、永遠に引き裂こうとしていたのです。



後書き

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

この章では、
「相手を想って選んだ行動が、最も深い誤解になる」
その連鎖を描いています。

リリーは、愛する人の未来を守るために仮面を重ね、
クリスは、その仮面を真実だと信じることで身を引きました。
誰も嘘をついていないのに、
誰も本心を伝えられていない――
その静かな残酷さが、三人を別々の方向へ押し出していきます。

ライラックのブローチと、クリスの勲章。
同じ形をした想いは、今やすれ違ったまま、
互いの胸の奥で眠ることしかできません。

この先、
仮面はいつか剥がれるのか。
誤解は、真実へと辿り着けるのか。
そして、最も傷つくのは誰なのか――。

引き続き、物語を見守っていただけたら嬉しいです。
次話も、どうぞよろしくお願いいたします。
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