貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ

文字の大きさ
4 / 28

第四章 ライラックの決別と、新たなる演技

しおりを挟む
カイル侯爵が嫉妬に燃え、荒々しく私室を去った後も、リリーはその場から動けずにいた。
ライラックのブローチを握りしめたまま、まるで時間そのものが止まったかのように。

カイルの怒声は、もはや彼女にとって慣れ親しんだ雑音に過ぎない。
だが――クリスとの間に横たわった、取り返しのつかない距離だけは、静かに、確実に心を蝕んでいた。

(クリストファー様は、もう私を必要としていない)

舞踏会で向けられた冷たい視線。
そして、アメリア令嬢へ注がれていた、穏やかで迷いのない眼差し。

カイルが口にした
「伯爵令嬢との縁談で頭がいっぱいだ」
という言葉が、現実の重みを伴って胸に沈む。

自分が送った
「ご心配には及びません」
という一文は、きっと彼にはこう届いたのだ。

――私は、カイル侯爵との生活を選びました。
――あなたは、もう必要ありません。

それ以来、クリスからの連絡は途絶えた。
二人だけが知る逢瀬の場所も、今は沈黙を守るばかりだ。

リリーはゆっくりと立ち上がり、机に向かった。
開かれた侯爵家の財務帳簿には、異常とも言えるほどの入金が記されている。

一目で分かった。
侯爵家の負債を、ほぼ一掃する額だ。

(……クリストファー様ね)

そう悟りながらも、それを愛だとは思わなかった。

(きっと、アメリア令嬢の家と関係の深い侯爵家を救っただけ。
私個人を想ってのことではないわ)

その援助は、皮肉にも、
リリーが侯爵邸に留まり続ける理由を奪った。

本来なら――
夫の元を去り、クリスの未来から完全に身を引くべきだ。

だが、彼女の胸には、もう一つ、消えない感情があった。

――カイルへの、報復。

自分を憎み、冷遇し続けた男を、
リリーは、まだ許せずにいた。



翌日から、リリーの態度は一変した。

これまでの「冷たい美女」という仮面の上に、
彼女はさらに一枚、仮面を重ねる。

――夫カイル侯爵を深く愛し、献身的に支える、理想の妻。

社交の場では率先して夫を立て、
彼が苦手とする役割を引き受け、
人前では常に一歩後ろに寄り添った。

ある午後の茶会でのこと。

「侯爵様は、新しい鉱山事業に強い関心をお持ちなのです。
私は専門的なことは分かりませんが……その情熱を、心から応援しておりますの」

そう言って、リリーは隣のカイルへ、柔らかく微笑みかけた。

完璧だった。
声の調子も、視線の角度も、微笑みの深さも。

カイルは戸惑いを隠せなかった。
かつて、自分を憎んでいるはずの妻が、なぜこれほどまでに献身的なのか。

(……皮肉か?
それとも、クリスに捨てられた事実を隠すための芝居か?)

彼はその行為を、ますます屈辱として受け取った。

そして、人前であえて突き放す。

「妻は、義務を果たしているだけだ。
私への愛など、あるはずがない」

その言葉は、社交界に冷たく響いた。


やがて、噂は社交界を巡り、当然のようにクリスの耳にも届く。

「リリー夫人は、侯爵を深く愛しているらしい」
「侯爵家が立ち直ったのは、夫人の献身あってこそだ」

それらの言葉は、
彼が抱えていた疑念を、動かしがたい確信へと変えた。

(……やはり、彼女はカイルを選んだ)

自分との関係は、
侯爵夫人という立場から逃れるための、
一時の慰めに過ぎなかったのか。

クリスは、自分が密かに差し伸べた援助が、
結果的にリリーをカイルの元へ縛り付けてしまったことに、
耐え難い後悔を覚える。

彼女の「完璧な妻」という振る舞いは、
愛する夫との生活を守るための、最終的な拒絶。

そう、彼は受け取ってしまった。

公爵としての義務と、失われた愛への絶望が、彼を前へ押し出す。
クリスは感情を切り離し、伯爵令嬢アメリアとの政略的な関係を進め始めた。

もはや、彼の視界にリリーの姿はない。

孤独な私室で、クリスは勲章を強く握りしめる。
それは、かつて彼女に贈った、ライラックのブローチによく似た意匠だった。

――彼女が、幸せでありますように。

誤解は、
愛するがゆえの献身という、最も壊れにくい絆を通して、
二人の心を、永遠に引き裂こうとしていたのです。



後書き

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

この章では、
「相手を想って選んだ行動が、最も深い誤解になる」
その連鎖を描いています。

リリーは、愛する人の未来を守るために仮面を重ね、
クリスは、その仮面を真実だと信じることで身を引きました。
誰も嘘をついていないのに、
誰も本心を伝えられていない――
その静かな残酷さが、三人を別々の方向へ押し出していきます。

ライラックのブローチと、クリスの勲章。
同じ形をした想いは、今やすれ違ったまま、
互いの胸の奥で眠ることしかできません。

この先、
仮面はいつか剥がれるのか。
誤解は、真実へと辿り着けるのか。
そして、最も傷つくのは誰なのか――。

引き続き、物語を見守っていただけたら嬉しいです。
次話も、どうぞよろしくお願いいたします。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ
恋愛
社交界で“国王の妾”と陰口を叩かれる謎の公爵夫人リュミエール。彼女は王命により、絶世の美貌を誇る英雄アラン公爵の妻となったが、その結婚は「公爵が哀れ」「妻は汚名の女」と同情と嘲笑の的だった。 けれど真実は――リュミエールは国王シオンの“妾”ではなく、異母妹。王家の血筋を巡る闇と政争から守るため、彼女は真実を口にできない。夫アランにさえ、打ち明ければ彼を巻き込んでしまうから。 一方アランもまた、王命と王宮の思惑の中で彼女を守るため、あえて距離を取り冷たく振る舞う。

沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ
恋愛
公爵家の令嬢シャルロッテは、政略結婚で財閥御曹司カリウスと結ばれた。 最初は形式だけの結婚だったが、優しく包み込むような夫の愛情に、彼女の心は次第に解けていく。 しかし、蜜月のあと訪れたのは小さな誤解の連鎖だった。 カリウスの秘書との噂、消えた指輪、隠された手紙――そして「君を幸せにできない」という冷たい言葉。 離婚届の上に、涙が落ちる。 それでもシャルロッテは信じたい。 あの日、薔薇の庭で誓った“永遠”を。 すれ違いと沈黙の夜を越えて、二人の愛はもう一度咲くのだろうか。

二年間の花嫁

柴田はつみ
恋愛
名門公爵家との政略結婚――それは、彼にとっても、私にとっても期間限定の約束だった。 公爵アランにはすでに将来を誓い合った女性がいる。私はただ、その日までの“仮の妻”でしかない。 二年後、契約が終われば彼の元を去らなければならないと分かっていた。 それでも構わなかった。 たとえ短い時間でも、ずっと想い続けてきた彼のそばにいられるなら――。 けれど、私の知らないところで、アランは密かに策略を巡らせていた。 この結婚は、ただの義務でも慈悲でもない。 彼にとっても、私を手放すつもりなど初めからなかったのだ。 やがて二人の距離は少しずつ近づき、契約という鎖が、甘く熱い絆へと変わっていく。 期限が迫る中、真実の愛がすべてを覆す。 ――これは、嘘から始まった恋が、永遠へと変わる物語。

「二年だけの公爵夫人~奪い合う愛と偽りの契約~」二年間の花嫁 パラレルワールド

柴田はつみ
恋愛
二年だけの契約結婚―― その相手は、幼い頃から密かに想い続けた公爵アラン。 だが、彼には将来を誓い合った相手がいる。 私はただの“かりそめの妻”にすぎず、期限が来れば静かに去る運命。 それでもいい。ただ、少しの間だけでも彼のそばにいたい――そう思っていた。 けれど、現実は甘くなかった。 社交界では意地悪な貴婦人たちが舞踏会やお茶会で私を嘲笑い、 アランを狙う身分の低い令嬢が巧妙な罠を仕掛けてくる。 さらに――アランが密かに想っていると噂される未亡人。 彼女はアランの親友の妻でありながら、彼を誘惑することをやめない。 優雅な微笑みの裏で仕掛けられる、巧みな誘惑作戦。 そしてもう一人。 血のつながらない義兄が、私を愛していると告げてきた。 その視線は、兄としてではなく、一人の男としての熱を帯びて――。 知らぬ間に始まった、アランと義兄による“奪い合い”。 だが誰も知らない。アランは、かつて街で私が貧しい子にパンを差し出す姿を見て、一目惚れしていたことを。 この結婚も、その出会いから始まった彼の策略だったことを。 愛と誤解、嫉妬と執着が交錯する二年間。 契約の終わりに待つのは別れか、それとも――。

推しの幸せが私の願い(のはず)! ~勘違い令嬢は、伯爵様の「溺愛」に気づかない~

柴田はつみ
恋愛
事故で命を落としたオタク女子が転生したのは、生前に愛読していたファンタジー小説の世界。そして彼女が生まれ変わったのは――最推しキャラ・アルフレッド伯爵の幼馴染である、公爵令嬢エルセだった。 「推しが、生きてる……動いてる……尊い……!」 感激に震えるエルセだったが、アルフレッドの視線の先には、いつも別の令嬢・カトレアの姿がある。 「そうか……彼は彼女が好きなんだ。推しの恋を応援するのが、ファンの使命だよね!」 そう決意したエルセは、身を引くために婚約破棄を企てたり、言い寄ってくる第一王子・リュカとの縁談を進めようとする。 しかし――真実はまるで違っていた。 アルフレッドがカトレアを見ていたのは、「エルセへの贈り物」を相談していただけ。彼の本命は、最初から最後まで、エルセただひとり。 エルセが遠ざかろうとすればするほど、アルフレッドの独占欲と執着は加速していく。 「どうして僕から逃げるの、エルセ?」 「……だって、あなたはカトレア様が好きなんでしょう……!(涙)」 すれ違い続ける想い、噛み合わないまま高まっていく切なさ―― 勘違いから始まる、拗れ甘いラブストーリー

月夜に散る白百合は、君を想う

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。 彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。 しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。 一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。 家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。 しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。 偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。

陛下を捨てた理由

甘糖むい
恋愛
美しく才能あふれる侯爵令嬢ジェニエルは、幼い頃から王子セオドールの婚約者として約束され、完璧な王妃教育を受けてきた。20歳で結婚した二人だったが、3年経っても子供に恵まれず、彼女には「問題がある」という噂が広がりはじめる始末。 そんな中、セオドールが「オリヴィア」という女性を王宮に連れてきたことで、夫婦の関係は一変し始める。 ※改定、追加や修正を予告なくする場合がございます。ご了承ください。

硝子の婚約と偽りの戴冠

柴田はつみ
恋愛
幼い頃から、第一王女アリアと隣国の王子レオンは、誰もが疑わない「未来の国王夫妻」として育てられてきた。 政略で結ばれた関係でありながら、二人の間には確かな絆があった。幼馴染として共に過ごした年月の中で、アリアは感情を表に出さないながらも、レオンをただ一人、深く愛していた。 すべてが順調に進んでいるはずだった。 戴冠式と成婚を目前に控えた、その日までは。 歯車が狂い始めたのは、妹のセシルが涙に濡れた顔で、突然アリアの元へ駆け込んできた夜だった。 震える声で語られたのは、信じ難い言葉―― 「……レオン様に、愛を告白されたの」 アリアは即座に否定した。信じるはずがない。あのレオンが、そんな裏切りをするはずがないと。 だが、その確信は、夜の庭園で無惨に打ち砕かれる。 月明かりの下。 レオンは、確かにセシルを抱き寄せていた。 後に明らかになる真実は、あまりにも残酷だった。 姉に対する劣等感を長年募らせてきたセシルが仕掛けた、周到な罠。そして――レオンが決して知られてはならない「ある弱み」を、彼女が握っていたという事実。 それは、愛ではなかった。 だが、アリアの未来を根こそぎ奪うには、十分すぎる裏切りだった。

処理中です...