貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ

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第六章 破滅の予感と、愛の勲章

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クリス公爵に腕を捻り上げられ、公然と脅された翌朝、カイル侯爵は激しい頭痛とともに目を覚ました。
腕には、昨夜の出来事を否定しようのない青黒い痣が残っている。

――私は、公爵の権限をもって、侯爵家からあなたを排除する。

その言葉が、何度も何度も脳裏に蘇った。

カイルは、クリスがリリーを愛していることを知っていた。
だが、公爵位を賭してまで行動するとは思っていなかった。
昨夜の冷酷な眼差しは、あれが単なる威嚇ではないことを、雄弁に物語っている。

恐怖が、背骨を這い上がる。

最も嫌悪し、劣等感を刺激され続けてきた男に、
妻も、家も、すべて奪われるかもしれない。

リリーへの憎悪と、彼女を失うことへの恐怖――
それは愛ではなく、所有欲と屈辱に近い感情だったが、
今やカイルの精神を逃げ場なく追い詰めていた。

クリスが「自分は愛されている」と本気で信じていることに、
激しい怒りを覚える一方で、
その男が本気で動いたとき、自分がいかに無力かを、思い知らされてもいた。

「リリアーヌ……!」

完璧な笑顔。献身的な態度。
その裏に隠された、冷たいクリスへの想いを想像するたび、
カイルの憎悪は、さらに濃く、暗くなっていく。



その日の午後、リリーは私室で事務仕事を片付けながら、
カイルの様子が昨夜から明らかにおかしいことに気づいていた。

顔色は蒼白で、苛立ちは抑えきれず、
まるで何かに追い詰められているかのようだ。

(……クリストファー様?)

胸に、嫌な予感が走る。

(私への拒絶は、もう示したはず。
それなのに、なぜカイル様を刺激するようなことを……)

リリーは、クリスが伯爵令嬢との縁談を進めていると信じている。
その彼が、わざわざカイルに圧をかけたとしたら――
それは、自分が苦しんでいることへの憐れみからだろう。

その考えに、胸が締めつけられる。

「……嫌。クリストファー様に、私を哀れませたくない」

彼の未来の邪魔には、なりたくない。
そう思うほど、リリーは「完璧な妻」の役を、より強く演じる決意を固めていく。

カイルの怒りが、再びクリスに向かうようなことがあってはならない。

彼女はカイルの部屋を訪れ、あえて明るい声で切り出した。

「侯爵様。先日お話しされていた鉱山事業ですが、さらに調べてみましたの。
公爵家と協力体制を取れば、より大きな利益が見込めると思いますわ」

それは、
私はあなたと、この家の未来を選んでいます
という、明確な意思表示のつもりだった。

だが、カイルには違って聞こえた。

――脅された直後に、この話題。
――弱みを握っているという、無言の示威。

彼は動揺を隠しきれなかったが、
昨夜の言葉の重みが、リリーを公然と拒むことを許さなかった。

「……検討しよう」

絞り出すような返事。
そこには、いつもの冷淡さはなく、弱さが滲んでいた。

その変化を、リリーは危険な兆候として受け取る。

(クリストファー様……どうか、私を忘れてください)

あなたの未来のために、
私は、この役を演じ切らなければならない。


一方、公爵邸に戻ったクリスは、
カイルに浴びせた脅しの言葉を、静かに悔いていた。

(なぜ、あそこまで感情的になった……)

リリーは、カイルを愛し、彼の元で幸せなのだ。
そう信じてきた。
ならば、自分の出る幕など、どこにもないはずだ。

だが――
カイルが彼女の献身を踏みにじる姿を見ると、
どうしても感情が抑えきれなかった。

それは嫉妬ではない。
自分が彼女の幸せのために手放した愛が、
無造作に扱われているように感じたからだ。

クリスは机の引き出しを開け、一枚のハンカチを取り出した。
ライラックの花が、小さく刺繍されている。

秘密の逢瀬の際、
彼女が時折、身につけていたもの。

掌に乗せたその隅に、
一本の髪が、丁寧に縫い留められているのを見つけ、息を呑む。

リリーは、愛を言葉にすることはなかった。
だが、この刺繍と、この髪の毛は――
言葉以上の誓いではないのか。

もし、彼女が本当にカイルを愛しているのなら、
なぜ、こんなものを自分に託したのか。

(……リリー)

胸の奥に、初めて疑念が芽生える。

――君は、本当にカイルを愛しているのか。
――それとも、私を守るために、何かを隠しているのか。

長年、固く閉ざされていた誤解に、
この小さなハンカチが、かすかなひびを入れた。

絶望と疑念、そして微かな希望の狭間で、
クリスの心は、静かに、しかし確かに揺れ始めていたのです。



後書き

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

この章では、
三人それぞれが**「正しい」と信じた行動**が、
さらに深い誤解を生んでいく様子を描いています。

カイルは、失う恐怖から疑心を深め、
リリーは、守るために仮面を固くし、
クリスは、信じてきた“彼女の幸せ”に、初めて小さな疑問を抱きました。

ライラックのブローチと、刺繍入りのハンカチ。
言葉にされなかった想いだけが、
今もそれぞれの胸の奥に残り続けています。

誤解はまだ解けていません。
けれど、この章で生まれた**わずかな「ひび」**が、
やがて何を壊し、何を明らかにするのか――。

次話では、
この疑念が動き出します。

引き続き、物語を見守っていただけたら嬉しいです。
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