4 / 10
第4章|私的呼称「アーヴィン様」→周囲のざわめき(アデラが見てる)
しおりを挟む
窓辺の椅子に腰を下ろした瞬間、リディアは背筋をまっすぐに整えた。
手は重ねる。指先は揺らさない。表情は微笑みの形を保つ。——それが、王太子妃の“防具”だった。
椅子の背に残る、他人の体温。
その薄い温かさが、消えない。
リディアは紅茶の香りを吸い込み、静かに喉を潤した。
熱が落ち着かせるのではない。落ち着いているふりを、続けさせてくれるだけ。
アーヴィンは、今もなお状況を測っているようだった。視線が、リディアの手元とミレーユの表情を行き来する。何か言うべきだと分かっている。けれど、言葉が見つからない。——その“間”が、リディアの胸に二つ目のひびを入れる。
「伯爵令嬢、今日は挨拶だけのはずだったな」
彼は穏やかな口調で言った。
穏やかすぎるほどに。
「はい、もちろんですわ。けれど殿下、こうして少しお話しできたら——わたくし、とても幸せですの」
ミレーユは頬を赤らめ、指先でネックレスに触れた。演技ではないように見える。
だからこそ厄介だ。悪意が剥き出しでないほど、人は止めにくい。
ミレーユの隣で、取り巻きの令嬢——子爵令嬢エステルが、扇の影からそっと笑った。
“見ていなさい”という笑いだ。
その時、茶会室の扉がもう一度開いた。
女官が、控えめな歩幅で入室する。背後に続くのは、侯爵令嬢アデラ。
王宮の社交を取り仕切る者の一人——噂の流れを知り、流れを変えられる女。
アデラは浅い礼をし、柔らかい笑顔を作った。
「失礼いたします。殿下、妃殿下。女官長より、明日の舞踏会の席次案の最終確認をと……」
わざとだ。
ここに来る理由を“公務”にして、今日の光景を見届けに来た。
リディアは、すぐに理解した。
この王宮は、いつも誰かが“見ている”。見て、測って、使う。
「ご苦労さま。後で確認しよう」
アーヴィンが言い、アデラは一歩下がる。
しかし彼女の視線は、窓辺の席に釘づけだった。——椅子の位置、距離、誰が誰を向いているか。その一つひとつを、社交の女王は記録している。
そして、起こった。
「アーヴィン様」
ミレーユが、当然のように名を呼んだ。
距離を詰めるための、甘い呼び方で。
茶会室の空気が、目に見えない音を立てて割れた。
扉付近にいた女官たちが、ほんの少しだけ息を止める。
近衛騎士ルシアンの肩がわずかに強張る。
侍女ミナが一歩、踏み出しかけて——止まる。主が止めると分かっているから。
アデラの目が、細くなる。
笑顔は崩さないまま、興味の火だけが灯る。
リディアの胸の奥が、ひやりと冷えた。
——“殿下”ではない。
——“王太子殿下”でもない。
——まして、“王太子妃の前”で、それをする。
私的呼称は、ただの呼び名ではない。
立場の境界線を曖昧にし、周囲に“特別”を印象づけるための道具だ。
「そう呼ぶのは……」
リディアは、声を出しかけた。
けれど、言葉を探す前に——ミレーユがさらに進む。
「わたくし、ずっと憧れていたのです。お噂の通り、殿下は本当にお優しい。……ね、アーヴィン様」
甘い声。
その甘さが、王宮の沈黙に染み込む。
アーヴィンは、わずかに眉を寄せた。
不快ではない。困惑。——そして、何より、場を壊したくないという顔。
それが、リディアには一番痛い。
あなたは、誰の“場”を守るの。
私の場? それとも、彼女の感情?
アデラの扇が、ほんの少し揺れた。
その仕草は、噂が生まれる音に似ていた。
エステルが、抑えた声で囁く。
わざとリディアに聞こえるように。
「まぁ……殿下と令嬢は、随分親しいのね。お妃様の前で……勇気がおありだこと」
言葉は褒める形。
けれど中身は刺。
リディアは微笑みを深くした。
微笑みの奥で、心がひとつ、沈む。
そして、穏やかな声で告げた。
「伯爵令嬢ミレーユ」
呼び捨てにしない。怒鳴らない。
ただ、礼節の名前で、距離を確定させる。
「王宮において、殿下を私的に呼ぶことは慎むべきです。特に——王太子妃である私の前では」
正しい言葉だった。
妃として、誰も否定できない“正しさ”。
その“正しさ”が、今度は別の熱を呼び起こす。
ミレーユの頬が、赤くなる。恥ではない。反発だ。
「……でも、妃殿下。わたくし、失礼だとは思わなくて……」
ミレーユの目に、涙が浮かぶ。早い。うまい。
そして、助け舟が欲しい時、人は必ず“守ってくれる人”を見る。
ミレーユの視線が、アーヴィンへ向かう。
アーヴィンは口を開きかけて、閉じた。
その一瞬の迷いを、アデラは見逃さない。
侍女ミナも見逃さない。
——そして、リディアも。
リディアは、胸の中だけで息を吐いた。
次に来るのは、ミレーユの反撃ではない。
取り巻きの煽りでもない。
噂でもない。
——夫の、“たった一言”だ。
窓辺の光が、白く冷えていく。
誰にも見えないところで、リディアの心が、静かにもう一歩退いた。
手は重ねる。指先は揺らさない。表情は微笑みの形を保つ。——それが、王太子妃の“防具”だった。
椅子の背に残る、他人の体温。
その薄い温かさが、消えない。
リディアは紅茶の香りを吸い込み、静かに喉を潤した。
熱が落ち着かせるのではない。落ち着いているふりを、続けさせてくれるだけ。
アーヴィンは、今もなお状況を測っているようだった。視線が、リディアの手元とミレーユの表情を行き来する。何か言うべきだと分かっている。けれど、言葉が見つからない。——その“間”が、リディアの胸に二つ目のひびを入れる。
「伯爵令嬢、今日は挨拶だけのはずだったな」
彼は穏やかな口調で言った。
穏やかすぎるほどに。
「はい、もちろんですわ。けれど殿下、こうして少しお話しできたら——わたくし、とても幸せですの」
ミレーユは頬を赤らめ、指先でネックレスに触れた。演技ではないように見える。
だからこそ厄介だ。悪意が剥き出しでないほど、人は止めにくい。
ミレーユの隣で、取り巻きの令嬢——子爵令嬢エステルが、扇の影からそっと笑った。
“見ていなさい”という笑いだ。
その時、茶会室の扉がもう一度開いた。
女官が、控えめな歩幅で入室する。背後に続くのは、侯爵令嬢アデラ。
王宮の社交を取り仕切る者の一人——噂の流れを知り、流れを変えられる女。
アデラは浅い礼をし、柔らかい笑顔を作った。
「失礼いたします。殿下、妃殿下。女官長より、明日の舞踏会の席次案の最終確認をと……」
わざとだ。
ここに来る理由を“公務”にして、今日の光景を見届けに来た。
リディアは、すぐに理解した。
この王宮は、いつも誰かが“見ている”。見て、測って、使う。
「ご苦労さま。後で確認しよう」
アーヴィンが言い、アデラは一歩下がる。
しかし彼女の視線は、窓辺の席に釘づけだった。——椅子の位置、距離、誰が誰を向いているか。その一つひとつを、社交の女王は記録している。
そして、起こった。
「アーヴィン様」
ミレーユが、当然のように名を呼んだ。
距離を詰めるための、甘い呼び方で。
茶会室の空気が、目に見えない音を立てて割れた。
扉付近にいた女官たちが、ほんの少しだけ息を止める。
近衛騎士ルシアンの肩がわずかに強張る。
侍女ミナが一歩、踏み出しかけて——止まる。主が止めると分かっているから。
アデラの目が、細くなる。
笑顔は崩さないまま、興味の火だけが灯る。
リディアの胸の奥が、ひやりと冷えた。
——“殿下”ではない。
——“王太子殿下”でもない。
——まして、“王太子妃の前”で、それをする。
私的呼称は、ただの呼び名ではない。
立場の境界線を曖昧にし、周囲に“特別”を印象づけるための道具だ。
「そう呼ぶのは……」
リディアは、声を出しかけた。
けれど、言葉を探す前に——ミレーユがさらに進む。
「わたくし、ずっと憧れていたのです。お噂の通り、殿下は本当にお優しい。……ね、アーヴィン様」
甘い声。
その甘さが、王宮の沈黙に染み込む。
アーヴィンは、わずかに眉を寄せた。
不快ではない。困惑。——そして、何より、場を壊したくないという顔。
それが、リディアには一番痛い。
あなたは、誰の“場”を守るの。
私の場? それとも、彼女の感情?
アデラの扇が、ほんの少し揺れた。
その仕草は、噂が生まれる音に似ていた。
エステルが、抑えた声で囁く。
わざとリディアに聞こえるように。
「まぁ……殿下と令嬢は、随分親しいのね。お妃様の前で……勇気がおありだこと」
言葉は褒める形。
けれど中身は刺。
リディアは微笑みを深くした。
微笑みの奥で、心がひとつ、沈む。
そして、穏やかな声で告げた。
「伯爵令嬢ミレーユ」
呼び捨てにしない。怒鳴らない。
ただ、礼節の名前で、距離を確定させる。
「王宮において、殿下を私的に呼ぶことは慎むべきです。特に——王太子妃である私の前では」
正しい言葉だった。
妃として、誰も否定できない“正しさ”。
その“正しさ”が、今度は別の熱を呼び起こす。
ミレーユの頬が、赤くなる。恥ではない。反発だ。
「……でも、妃殿下。わたくし、失礼だとは思わなくて……」
ミレーユの目に、涙が浮かぶ。早い。うまい。
そして、助け舟が欲しい時、人は必ず“守ってくれる人”を見る。
ミレーユの視線が、アーヴィンへ向かう。
アーヴィンは口を開きかけて、閉じた。
その一瞬の迷いを、アデラは見逃さない。
侍女ミナも見逃さない。
——そして、リディアも。
リディアは、胸の中だけで息を吐いた。
次に来るのは、ミレーユの反撃ではない。
取り巻きの煽りでもない。
噂でもない。
——夫の、“たった一言”だ。
窓辺の光が、白く冷えていく。
誰にも見えないところで、リディアの心が、静かにもう一歩退いた。
66
あなたにおすすめの小説
『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛
柴田はつみ
恋愛
王国随一の名門に生まれたリディア王妃と、若き国王アレクシス。
二人は幼なじみで、三年前の政略結婚から穏やかな日々を過ごしてきた。
だが王の帰還は途絶え、宮廷に「王が隣国の姫と夜を共にした」との噂が流れる。
信じたいのに、確信に変わる光景を見てしまった夜。
王妃の孤独が始まり、沈黙の愛がゆっくりと崩れていく――。
誤解と嫉妬の果てに、愛を取り戻せるのか。
王宮を舞台に描く、切なく美しい愛の再生物語。
硝子の婚約と偽りの戴冠
柴田はつみ
恋愛
幼い頃から、第一王女アリアと隣国の王子レオンは、誰もが疑わない「未来の国王夫妻」として育てられてきた。
政略で結ばれた関係でありながら、二人の間には確かな絆があった。幼馴染として共に過ごした年月の中で、アリアは感情を表に出さないながらも、レオンをただ一人、深く愛していた。
すべてが順調に進んでいるはずだった。
戴冠式と成婚を目前に控えた、その日までは。
歯車が狂い始めたのは、妹のセシルが涙に濡れた顔で、突然アリアの元へ駆け込んできた夜だった。
震える声で語られたのは、信じ難い言葉――
「……レオン様に、愛を告白されたの」
アリアは即座に否定した。信じるはずがない。あのレオンが、そんな裏切りをするはずがないと。
だが、その確信は、夜の庭園で無惨に打ち砕かれる。
月明かりの下。
レオンは、確かにセシルを抱き寄せていた。
後に明らかになる真実は、あまりにも残酷だった。
姉に対する劣等感を長年募らせてきたセシルが仕掛けた、周到な罠。そして――レオンが決して知られてはならない「ある弱み」を、彼女が握っていたという事実。
それは、愛ではなかった。
だが、アリアの未来を根こそぎ奪うには、十分すぎる裏切りだった。
完結 愛される自信を失ったのは私の罪
音爽(ネソウ)
恋愛
顔も知らないまま婚約した二人。貴族では当たり前の出会いだった。
それでも互いを尊重して歩み寄るのである。幸いにも両人とも一目で気に入ってしまう。
ところが「従妹」称する少女が現れて「私が婚約するはずだった返せ」と宣戦布告してきた。
王妃はただ、殺されないことを願う
柴田はつみ
恋愛
一度目の人生で、愛する国王の剣によって結婚半年で殺されたお飾り王妃リリアナ。彼女は運命に抗うことなく、隣国から送られた「呪いの血を持つ王妃」として処断された。
しかし、リリアナは婚礼直後に時を戻して転生する。二度目の人生、彼女に残された時間は、運命の冬至の夜会までの半年間。
リリアナは、以前のような無垢な愛を国王アレスに捧げることをやめ、「殺されない」ため、そして「愛する人を裏切り者にしたくない」ために、冷徹な「お飾りの王妃」として振る舞い始める。
沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―
柴田はつみ
恋愛
公爵家の令嬢シャルロッテは、政略結婚で財閥御曹司カリウスと結ばれた。
最初は形式だけの結婚だったが、優しく包み込むような夫の愛情に、彼女の心は次第に解けていく。
しかし、蜜月のあと訪れたのは小さな誤解の連鎖だった。
カリウスの秘書との噂、消えた指輪、隠された手紙――そして「君を幸せにできない」という冷たい言葉。
離婚届の上に、涙が落ちる。
それでもシャルロッテは信じたい。
あの日、薔薇の庭で誓った“永遠”を。
すれ違いと沈黙の夜を越えて、二人の愛はもう一度咲くのだろうか。
王子様への置き手紙
あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯
小説家になろうにも掲載しています。
【本編完結】笑顔で離縁してください 〜貴方に恋をしてました〜
桜夜
恋愛
「旦那様、私と離縁してください!」
私は今までに見せたことがないような笑顔で旦那様に離縁を申し出た……。
私はアルメニア王国の第三王女でした。私には二人のお姉様がいます。一番目のエリーお姉様は頭脳明晰でお優しく、何をするにも完璧なお姉様でした。二番目のウルルお姉様はとても美しく皆の憧れの的で、ご結婚をされた今では社交界の女性達をまとめております。では三番目の私は……。
王族では国が豊かになると噂される瞳の色を持った平凡な女でした…
そんな私の旦那様は騎士団長をしており女性からも人気のある公爵家の三男の方でした……。
平凡な私が彼の方の隣にいてもいいのでしょうか?
なので離縁させていただけませんか?
旦那様も離縁した方が嬉しいですよね?だって……。
*小説家になろう、カクヨムにも投稿しています
『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様
恋せよ恋
恋愛
愛されることを諦めた。だから、私は心を凍らせた。
不誠実な婚約者・ユリアンの冷遇に耐えかねたヤスミンは、
伝説の魔女の元を訪れ、恋心を消し去る「氷の薬」を飲む。
感情を捨て、完璧な「人形」となった彼女を前に、
ユリアンは初めて己の罪と執着に狂い始める。
「お願いだ、前のように僕を愛して泣いてくれ!」
足元に跪き、涙を流して乞う男に、ヤスミンは冷酷に微笑む。
「愛?……あいにく、そのような無駄な感情は捨てましたわ」
一度凍りついた心は、二度と溶けない。
後悔にのたうち回る男と、心を凍らせた冷徹な公爵夫人の、
終わりのない贖罪の記録。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる