「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

文字の大きさ
3 / 10

第3章|妃の席に座る(一撃目)

しおりを挟む
 扉が開いた瞬間、茶会室の空気が一段、整った。

 王太子アーヴィンの入室は、いつも音が少ない。けれど、その存在感だけは確実に場を支配する。護衛の近衛騎士ルシアンが一歩遅れて影のように付き、補佐官トーマスが資料を抱えて控えに留まる。

「リディア」

 彼はいつも通り、短く名を呼んだ。
 その呼び方が、今日は少しだけ遠く聞こえる。

「お待ちしておりました、殿下」

 リディアは微笑み、立ち上がりかけて——やめた。ここは午後の茶会。形式よりも、夫婦の距離が大切なはずの場所。だから、いつものように“座ったまま迎える”ことが、二人の約束のように思えていた。

 けれど。

 窓辺の席に、先客がいた。

 ミレーユが、ためらいなくそこに腰を下ろしている。
 しかも——座っているのは、リディアの席だった。

 白いクロス、銀のスプーン、砂糖壺。すべてが“いつも通り”の配置のままなのに、ひとつだけ、違う。
 椅子にかかる背筋の伸び方が、違う。
 そこに“当然のように居る”という顔が、違う。

 その瞬間、リディアの体の中で何かが凍った。

 ——違う。
 ——ここは、あなたの席ではない。

 喉まで上がった言葉は、すぐに引っ込んだ。
 妃は、叫ばない。妃は、騒がない。妃は、恥をかかせない。——恥をかかせれば、自分も恥をかく。王宮では、夫の顔も同時に汚す。

 だからリディアは、笑った。

 笑って、黙って、息を整えた。

「まあ、殿下。お越しになったのですね!」

 ミレーユがぱっと顔を輝かせ、椅子から半分だけ立ち上がった。半分だけ。
 礼は取るが、席は譲らない。そんな立ち上がり方だった。

 アーヴィンは、一瞬だけ動きを止めた。
 視線が、リディアとミレーユの間を往復する。その目に困惑が浮かぶのが、リディアにははっきり見えた。

「……伯爵令嬢ミレーユか。今日は、挨拶に?」

 声は丁寧。
 けれど、その丁寧さが、リディアには少しだけ痛かった。——あなたは今、誰の場を整えているの?

「はい。どうしてもお目にかかりたくて。妃殿下にも、ご挨拶を申し上げたばかりですの」

 ミレーユの言葉は、正しい。
 正しいのに、居場所が正しくない。

 リディアは、ゆっくりと窓辺へ歩いた。
 立ち位置は、わずかにミレーユの斜め後ろ。主役の座を奪い合うのではなく、礼節で“場”を取り戻す位置。

 ミナが、息を吸い込む音がした。
 侍女長ヘレナの指が、布の端を強く握る。
 女官たちの視線が、リディアの一挙手一投足に吸い寄せられる。

 ——ここで、妃が崩れたら終わり。

 リディアは、カップに手を伸ばした。
 自分の席が奪われたなら、せめて手だけは自分のものに戻す。
 カップの柄に指をかける。その瞬間——

「あら、ごめんなさい。これ、妃殿下の?」

 ミレーユが、まるで“今気づいた”みたいな顔で笑った。
 そして、悪びれずにカップを持ち上げる。自分の前へ引き寄せる。
 リディアの席に置かれていたものを、平然と。

 空気が、きしんだ。

 リディアは息を止め、次に、ゆっくり吐いた。
 心臓が早鐘を打つ。けれど顔は崩さない。崩したら、負ける。

「伯爵令嬢」

 声は柔らかい。
 けれど、はっきりと名を呼ばない。距離を取る呼び方だ。

「この席は、王太子妃の席です」

 言葉にした瞬間、背中の奥に熱が走る。
 自分が、ようやく“言えた”ことに、ほっとする気持ちもある。

 ミレーユは目を瞬かせた。
 きょとんとした顔。悪意がないふりをする顔。
 そして、笑う。

「まあ……そんなに、厳密なのですね。茶会は、お茶をいただくだけなのに」

 その言い方が、いちばん厄介だった。
 ——妃の席を、ただの椅子に貶める。

 リディアは微笑みを深くした。
 心が折れないように、微笑みで支える。

「王宮では、“席”は礼節そのものです。特にこの場は——私と殿下の、午後の茶会の場ですから」

 言葉を選ぶ。
 角を立てすぎず、それでも明確に線を引く。これが妃の戦い方。

 ミレーユは一瞬、唇の端を引きつらせた。
 けれどすぐに、花が咲くような笑顔に戻る。

「では……お譲りしますわ。妃殿下」

 そう言って、ゆっくりと立つ。
 立つのに、椅子を引く手が遅い。
 ほんの一拍、“場”を自分のものとして長く味わうような間。

 リディアはその間を、黙って耐えた。
 耐えることが、勝ちになる世界がある。

 アーヴィンは、その一連を見つめたまま、何も言わない。
 止めない。けれど、守りもしない。
 その沈黙が、リディアの胸の奥に小さなひびを入れた。

 ミレーユが席を離れ、ようやく椅子が空く。
 リディアは座ろうとして——ふと、椅子の背に触れた。

 ほんの少しだけ温かい。
 さっきまで、別の人がそこにいた証拠。

 その温度が、嫌だった。
 自分の居場所が、他人の体温で上書きされる感覚が。

 リディアはゆっくり腰を下ろし、姿勢を整えた。
 顔は微笑んだまま。手元は震えないように重ねる。

 そして、胸の内だけで呟く。

 ——ここは、私の席。
 ——私は、王太子妃。

 けれど。

 窓辺の光が、いつもより白く冷たく見えた。
 “唯一の安らぎ”だったはずの場所に、初めて影が落ちた。

 ミレーユは、すぐ隣の席に座り直す。
 今度は、王太子の席に少し近い位置を選んで。

 その距離の取り方が、次の侵食を予告していた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛

柴田はつみ
恋愛
王国随一の名門に生まれたリディア王妃と、若き国王アレクシス。 二人は幼なじみで、三年前の政略結婚から穏やかな日々を過ごしてきた。 だが王の帰還は途絶え、宮廷に「王が隣国の姫と夜を共にした」との噂が流れる。 信じたいのに、確信に変わる光景を見てしまった夜。 王妃の孤独が始まり、沈黙の愛がゆっくりと崩れていく――。 誤解と嫉妬の果てに、愛を取り戻せるのか。 王宮を舞台に描く、切なく美しい愛の再生物語。

王妃はただ、殺されないことを願う

柴田はつみ
恋愛
一度目の人生で、愛する国王の剣によって結婚半年で殺されたお飾り王妃リリアナ。彼女は運命に抗うことなく、隣国から送られた「呪いの血を持つ王妃」として処断された。 しかし、リリアナは婚礼直後に時を戻して転生する。二度目の人生、彼女に残された時間は、運命の冬至の夜会までの半年間。 リリアナは、以前のような無垢な愛を国王アレスに捧げることをやめ、「殺されない」ため、そして「愛する人を裏切り者にしたくない」ために、冷徹な「お飾りの王妃」として振る舞い始める。

硝子の婚約と偽りの戴冠

柴田はつみ
恋愛
幼い頃から、第一王女アリアと隣国の王子レオンは、誰もが疑わない「未来の国王夫妻」として育てられてきた。 政略で結ばれた関係でありながら、二人の間には確かな絆があった。幼馴染として共に過ごした年月の中で、アリアは感情を表に出さないながらも、レオンをただ一人、深く愛していた。 すべてが順調に進んでいるはずだった。 戴冠式と成婚を目前に控えた、その日までは。 歯車が狂い始めたのは、妹のセシルが涙に濡れた顔で、突然アリアの元へ駆け込んできた夜だった。 震える声で語られたのは、信じ難い言葉―― 「……レオン様に、愛を告白されたの」 アリアは即座に否定した。信じるはずがない。あのレオンが、そんな裏切りをするはずがないと。 だが、その確信は、夜の庭園で無惨に打ち砕かれる。 月明かりの下。 レオンは、確かにセシルを抱き寄せていた。 後に明らかになる真実は、あまりにも残酷だった。 姉に対する劣等感を長年募らせてきたセシルが仕掛けた、周到な罠。そして――レオンが決して知られてはならない「ある弱み」を、彼女が握っていたという事実。 それは、愛ではなかった。 だが、アリアの未来を根こそぎ奪うには、十分すぎる裏切りだった。

完結 愛される自信を失ったのは私の罪

音爽(ネソウ)
恋愛
顔も知らないまま婚約した二人。貴族では当たり前の出会いだった。 それでも互いを尊重して歩み寄るのである。幸いにも両人とも一目で気に入ってしまう。 ところが「従妹」称する少女が現れて「私が婚約するはずだった返せ」と宣戦布告してきた。

沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ
恋愛
公爵家の令嬢シャルロッテは、政略結婚で財閥御曹司カリウスと結ばれた。 最初は形式だけの結婚だったが、優しく包み込むような夫の愛情に、彼女の心は次第に解けていく。 しかし、蜜月のあと訪れたのは小さな誤解の連鎖だった。 カリウスの秘書との噂、消えた指輪、隠された手紙――そして「君を幸せにできない」という冷たい言葉。 離婚届の上に、涙が落ちる。 それでもシャルロッテは信じたい。 あの日、薔薇の庭で誓った“永遠”を。 すれ違いと沈黙の夜を越えて、二人の愛はもう一度咲くのだろうか。

王子様への置き手紙

あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯ 小説家になろうにも掲載しています。

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...