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第3章|妃の席に座る(一撃目)
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扉が開いた瞬間、茶会室の空気が一段、整った。
王太子アーヴィンの入室は、いつも音が少ない。けれど、その存在感だけは確実に場を支配する。護衛の近衛騎士ルシアンが一歩遅れて影のように付き、補佐官トーマスが資料を抱えて控えに留まる。
「リディア」
彼はいつも通り、短く名を呼んだ。
その呼び方が、今日は少しだけ遠く聞こえる。
「お待ちしておりました、殿下」
リディアは微笑み、立ち上がりかけて——やめた。ここは午後の茶会。形式よりも、夫婦の距離が大切なはずの場所。だから、いつものように“座ったまま迎える”ことが、二人の約束のように思えていた。
けれど。
窓辺の席に、先客がいた。
ミレーユが、ためらいなくそこに腰を下ろしている。
しかも——座っているのは、リディアの席だった。
白いクロス、銀のスプーン、砂糖壺。すべてが“いつも通り”の配置のままなのに、ひとつだけ、違う。
椅子にかかる背筋の伸び方が、違う。
そこに“当然のように居る”という顔が、違う。
その瞬間、リディアの体の中で何かが凍った。
——違う。
——ここは、あなたの席ではない。
喉まで上がった言葉は、すぐに引っ込んだ。
妃は、叫ばない。妃は、騒がない。妃は、恥をかかせない。——恥をかかせれば、自分も恥をかく。王宮では、夫の顔も同時に汚す。
だからリディアは、笑った。
笑って、黙って、息を整えた。
「まあ、殿下。お越しになったのですね!」
ミレーユがぱっと顔を輝かせ、椅子から半分だけ立ち上がった。半分だけ。
礼は取るが、席は譲らない。そんな立ち上がり方だった。
アーヴィンは、一瞬だけ動きを止めた。
視線が、リディアとミレーユの間を往復する。その目に困惑が浮かぶのが、リディアにははっきり見えた。
「……伯爵令嬢ミレーユか。今日は、挨拶に?」
声は丁寧。
けれど、その丁寧さが、リディアには少しだけ痛かった。——あなたは今、誰の場を整えているの?
「はい。どうしてもお目にかかりたくて。妃殿下にも、ご挨拶を申し上げたばかりですの」
ミレーユの言葉は、正しい。
正しいのに、居場所が正しくない。
リディアは、ゆっくりと窓辺へ歩いた。
立ち位置は、わずかにミレーユの斜め後ろ。主役の座を奪い合うのではなく、礼節で“場”を取り戻す位置。
ミナが、息を吸い込む音がした。
侍女長ヘレナの指が、布の端を強く握る。
女官たちの視線が、リディアの一挙手一投足に吸い寄せられる。
——ここで、妃が崩れたら終わり。
リディアは、カップに手を伸ばした。
自分の席が奪われたなら、せめて手だけは自分のものに戻す。
カップの柄に指をかける。その瞬間——
「あら、ごめんなさい。これ、妃殿下の?」
ミレーユが、まるで“今気づいた”みたいな顔で笑った。
そして、悪びれずにカップを持ち上げる。自分の前へ引き寄せる。
リディアの席に置かれていたものを、平然と。
空気が、きしんだ。
リディアは息を止め、次に、ゆっくり吐いた。
心臓が早鐘を打つ。けれど顔は崩さない。崩したら、負ける。
「伯爵令嬢」
声は柔らかい。
けれど、はっきりと名を呼ばない。距離を取る呼び方だ。
「この席は、王太子妃の席です」
言葉にした瞬間、背中の奥に熱が走る。
自分が、ようやく“言えた”ことに、ほっとする気持ちもある。
ミレーユは目を瞬かせた。
きょとんとした顔。悪意がないふりをする顔。
そして、笑う。
「まあ……そんなに、厳密なのですね。茶会は、お茶をいただくだけなのに」
その言い方が、いちばん厄介だった。
——妃の席を、ただの椅子に貶める。
リディアは微笑みを深くした。
心が折れないように、微笑みで支える。
「王宮では、“席”は礼節そのものです。特にこの場は——私と殿下の、午後の茶会の場ですから」
言葉を選ぶ。
角を立てすぎず、それでも明確に線を引く。これが妃の戦い方。
ミレーユは一瞬、唇の端を引きつらせた。
けれどすぐに、花が咲くような笑顔に戻る。
「では……お譲りしますわ。妃殿下」
そう言って、ゆっくりと立つ。
立つのに、椅子を引く手が遅い。
ほんの一拍、“場”を自分のものとして長く味わうような間。
リディアはその間を、黙って耐えた。
耐えることが、勝ちになる世界がある。
アーヴィンは、その一連を見つめたまま、何も言わない。
止めない。けれど、守りもしない。
その沈黙が、リディアの胸の奥に小さなひびを入れた。
ミレーユが席を離れ、ようやく椅子が空く。
リディアは座ろうとして——ふと、椅子の背に触れた。
ほんの少しだけ温かい。
さっきまで、別の人がそこにいた証拠。
その温度が、嫌だった。
自分の居場所が、他人の体温で上書きされる感覚が。
リディアはゆっくり腰を下ろし、姿勢を整えた。
顔は微笑んだまま。手元は震えないように重ねる。
そして、胸の内だけで呟く。
——ここは、私の席。
——私は、王太子妃。
けれど。
窓辺の光が、いつもより白く冷たく見えた。
“唯一の安らぎ”だったはずの場所に、初めて影が落ちた。
ミレーユは、すぐ隣の席に座り直す。
今度は、王太子の席に少し近い位置を選んで。
その距離の取り方が、次の侵食を予告していた。
王太子アーヴィンの入室は、いつも音が少ない。けれど、その存在感だけは確実に場を支配する。護衛の近衛騎士ルシアンが一歩遅れて影のように付き、補佐官トーマスが資料を抱えて控えに留まる。
「リディア」
彼はいつも通り、短く名を呼んだ。
その呼び方が、今日は少しだけ遠く聞こえる。
「お待ちしておりました、殿下」
リディアは微笑み、立ち上がりかけて——やめた。ここは午後の茶会。形式よりも、夫婦の距離が大切なはずの場所。だから、いつものように“座ったまま迎える”ことが、二人の約束のように思えていた。
けれど。
窓辺の席に、先客がいた。
ミレーユが、ためらいなくそこに腰を下ろしている。
しかも——座っているのは、リディアの席だった。
白いクロス、銀のスプーン、砂糖壺。すべてが“いつも通り”の配置のままなのに、ひとつだけ、違う。
椅子にかかる背筋の伸び方が、違う。
そこに“当然のように居る”という顔が、違う。
その瞬間、リディアの体の中で何かが凍った。
——違う。
——ここは、あなたの席ではない。
喉まで上がった言葉は、すぐに引っ込んだ。
妃は、叫ばない。妃は、騒がない。妃は、恥をかかせない。——恥をかかせれば、自分も恥をかく。王宮では、夫の顔も同時に汚す。
だからリディアは、笑った。
笑って、黙って、息を整えた。
「まあ、殿下。お越しになったのですね!」
ミレーユがぱっと顔を輝かせ、椅子から半分だけ立ち上がった。半分だけ。
礼は取るが、席は譲らない。そんな立ち上がり方だった。
アーヴィンは、一瞬だけ動きを止めた。
視線が、リディアとミレーユの間を往復する。その目に困惑が浮かぶのが、リディアにははっきり見えた。
「……伯爵令嬢ミレーユか。今日は、挨拶に?」
声は丁寧。
けれど、その丁寧さが、リディアには少しだけ痛かった。——あなたは今、誰の場を整えているの?
「はい。どうしてもお目にかかりたくて。妃殿下にも、ご挨拶を申し上げたばかりですの」
ミレーユの言葉は、正しい。
正しいのに、居場所が正しくない。
リディアは、ゆっくりと窓辺へ歩いた。
立ち位置は、わずかにミレーユの斜め後ろ。主役の座を奪い合うのではなく、礼節で“場”を取り戻す位置。
ミナが、息を吸い込む音がした。
侍女長ヘレナの指が、布の端を強く握る。
女官たちの視線が、リディアの一挙手一投足に吸い寄せられる。
——ここで、妃が崩れたら終わり。
リディアは、カップに手を伸ばした。
自分の席が奪われたなら、せめて手だけは自分のものに戻す。
カップの柄に指をかける。その瞬間——
「あら、ごめんなさい。これ、妃殿下の?」
ミレーユが、まるで“今気づいた”みたいな顔で笑った。
そして、悪びれずにカップを持ち上げる。自分の前へ引き寄せる。
リディアの席に置かれていたものを、平然と。
空気が、きしんだ。
リディアは息を止め、次に、ゆっくり吐いた。
心臓が早鐘を打つ。けれど顔は崩さない。崩したら、負ける。
「伯爵令嬢」
声は柔らかい。
けれど、はっきりと名を呼ばない。距離を取る呼び方だ。
「この席は、王太子妃の席です」
言葉にした瞬間、背中の奥に熱が走る。
自分が、ようやく“言えた”ことに、ほっとする気持ちもある。
ミレーユは目を瞬かせた。
きょとんとした顔。悪意がないふりをする顔。
そして、笑う。
「まあ……そんなに、厳密なのですね。茶会は、お茶をいただくだけなのに」
その言い方が、いちばん厄介だった。
——妃の席を、ただの椅子に貶める。
リディアは微笑みを深くした。
心が折れないように、微笑みで支える。
「王宮では、“席”は礼節そのものです。特にこの場は——私と殿下の、午後の茶会の場ですから」
言葉を選ぶ。
角を立てすぎず、それでも明確に線を引く。これが妃の戦い方。
ミレーユは一瞬、唇の端を引きつらせた。
けれどすぐに、花が咲くような笑顔に戻る。
「では……お譲りしますわ。妃殿下」
そう言って、ゆっくりと立つ。
立つのに、椅子を引く手が遅い。
ほんの一拍、“場”を自分のものとして長く味わうような間。
リディアはその間を、黙って耐えた。
耐えることが、勝ちになる世界がある。
アーヴィンは、その一連を見つめたまま、何も言わない。
止めない。けれど、守りもしない。
その沈黙が、リディアの胸の奥に小さなひびを入れた。
ミレーユが席を離れ、ようやく椅子が空く。
リディアは座ろうとして——ふと、椅子の背に触れた。
ほんの少しだけ温かい。
さっきまで、別の人がそこにいた証拠。
その温度が、嫌だった。
自分の居場所が、他人の体温で上書きされる感覚が。
リディアはゆっくり腰を下ろし、姿勢を整えた。
顔は微笑んだまま。手元は震えないように重ねる。
そして、胸の内だけで呟く。
——ここは、私の席。
——私は、王太子妃。
けれど。
窓辺の光が、いつもより白く冷たく見えた。
“唯一の安らぎ”だったはずの場所に、初めて影が落ちた。
ミレーユは、すぐ隣の席に座り直す。
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