4 / 60
第4章|私的呼称「アーヴィン様」→周囲のざわめき(アデラが見てる)
窓辺の椅子に腰を下ろした瞬間、リディアは背筋をまっすぐに整えた。
手は重ねる。指先は揺らさない。表情は微笑みの形を保つ。——それが、王太子妃の“防具”だった。
椅子の背に残る、他人の体温。
その薄い温かさが、消えない。
リディアは紅茶の香りを吸い込み、静かに喉を潤した。
熱が落ち着かせるのではない。落ち着いているふりを、続けさせてくれるだけ。
アーヴィンは、今もなお状況を測っているようだった。視線が、リディアの手元とミレーユの表情を行き来する。何か言うべきだと分かっている。けれど、言葉が見つからない。——その“間”が、リディアの胸に二つ目のひびを入れる。
「伯爵令嬢、今日は挨拶だけのはずだったな」
彼は穏やかな口調で言った。
穏やかすぎるほどに。
「はい、もちろんですわ。けれど殿下、こうして少しお話しできたら——わたくし、とても幸せですの」
ミレーユは頬を赤らめ、指先でネックレスに触れた。演技ではないように見える。
だからこそ厄介だ。悪意が剥き出しでないほど、人は止めにくい。
ミレーユの隣で、取り巻きの令嬢——子爵令嬢エステルが、扇の影からそっと笑った。
“見ていなさい”という笑いだ。
その時、茶会室の扉がもう一度開いた。
女官が、控えめな歩幅で入室する。背後に続くのは、侯爵令嬢アデラ。
王宮の社交を取り仕切る者の一人——噂の流れを知り、流れを変えられる女。
アデラは浅い礼をし、柔らかい笑顔を作った。
「失礼いたします。殿下、妃殿下。女官長より、明日の舞踏会の席次案の最終確認をと……」
わざとだ。
ここに来る理由を“公務”にして、今日の光景を見届けに来た。
リディアは、すぐに理解した。
この王宮は、いつも誰かが“見ている”。見て、測って、使う。
「ご苦労さま。後で確認しよう」
アーヴィンが言い、アデラは一歩下がる。
しかし彼女の視線は、窓辺の席に釘づけだった。——椅子の位置、距離、誰が誰を向いているか。その一つひとつを、社交の女王は記録している。
そして、起こった。
「アーヴィン様」
ミレーユが、当然のように名を呼んだ。
距離を詰めるための、甘い呼び方で。
茶会室の空気が、目に見えない音を立てて割れた。
扉付近にいた女官たちが、ほんの少しだけ息を止める。
近衛騎士ルシアンの肩がわずかに強張る。
侍女ミナが一歩、踏み出しかけて——止まる。主が止めると分かっているから。
アデラの目が、細くなる。
笑顔は崩さないまま、興味の火だけが灯る。
リディアの胸の奥が、ひやりと冷えた。
——“殿下”ではない。
——“王太子殿下”でもない。
——まして、“王太子妃の前”で、それをする。
私的呼称は、ただの呼び名ではない。
立場の境界線を曖昧にし、周囲に“特別”を印象づけるための道具だ。
「そう呼ぶのは……」
リディアは、声を出しかけた。
けれど、言葉を探す前に——ミレーユがさらに進む。
「わたくし、ずっと憧れていたのです。お噂の通り、殿下は本当にお優しい。……ね、アーヴィン様」
甘い声。
その甘さが、王宮の沈黙に染み込む。
アーヴィンは、わずかに眉を寄せた。
不快ではない。困惑。——そして、何より、場を壊したくないという顔。
それが、リディアには一番痛い。
あなたは、誰の“場”を守るの。
私の場? それとも、彼女の感情?
アデラの扇が、ほんの少し揺れた。
その仕草は、噂が生まれる音に似ていた。
エステルが、抑えた声で囁く。
わざとリディアに聞こえるように。
「まぁ……殿下と令嬢は、随分親しいのね。お妃様の前で……勇気がおありだこと」
言葉は褒める形。
けれど中身は刺。
リディアは微笑みを深くした。
微笑みの奥で、心がひとつ、沈む。
そして、穏やかな声で告げた。
「伯爵令嬢ミレーユ」
呼び捨てにしない。怒鳴らない。
ただ、礼節の名前で、距離を確定させる。
「王宮において、殿下を私的に呼ぶことは慎むべきです。特に——王太子妃である私の前では」
正しい言葉だった。
妃として、誰も否定できない“正しさ”。
その“正しさ”が、今度は別の熱を呼び起こす。
ミレーユの頬が、赤くなる。恥ではない。反発だ。
「……でも、妃殿下。わたくし、失礼だとは思わなくて……」
ミレーユの目に、涙が浮かぶ。早い。うまい。
そして、助け舟が欲しい時、人は必ず“守ってくれる人”を見る。
ミレーユの視線が、アーヴィンへ向かう。
アーヴィンは口を開きかけて、閉じた。
その一瞬の迷いを、アデラは見逃さない。
侍女ミナも見逃さない。
——そして、リディアも。
リディアは、胸の中だけで息を吐いた。
次に来るのは、ミレーユの反撃ではない。
取り巻きの煽りでもない。
噂でもない。
——夫の、“たった一言”だ。
窓辺の光が、白く冷えていく。
誰にも見えないところで、リディアの心が、静かにもう一歩退いた。
手は重ねる。指先は揺らさない。表情は微笑みの形を保つ。——それが、王太子妃の“防具”だった。
椅子の背に残る、他人の体温。
その薄い温かさが、消えない。
リディアは紅茶の香りを吸い込み、静かに喉を潤した。
熱が落ち着かせるのではない。落ち着いているふりを、続けさせてくれるだけ。
アーヴィンは、今もなお状況を測っているようだった。視線が、リディアの手元とミレーユの表情を行き来する。何か言うべきだと分かっている。けれど、言葉が見つからない。——その“間”が、リディアの胸に二つ目のひびを入れる。
「伯爵令嬢、今日は挨拶だけのはずだったな」
彼は穏やかな口調で言った。
穏やかすぎるほどに。
「はい、もちろんですわ。けれど殿下、こうして少しお話しできたら——わたくし、とても幸せですの」
ミレーユは頬を赤らめ、指先でネックレスに触れた。演技ではないように見える。
だからこそ厄介だ。悪意が剥き出しでないほど、人は止めにくい。
ミレーユの隣で、取り巻きの令嬢——子爵令嬢エステルが、扇の影からそっと笑った。
“見ていなさい”という笑いだ。
その時、茶会室の扉がもう一度開いた。
女官が、控えめな歩幅で入室する。背後に続くのは、侯爵令嬢アデラ。
王宮の社交を取り仕切る者の一人——噂の流れを知り、流れを変えられる女。
アデラは浅い礼をし、柔らかい笑顔を作った。
「失礼いたします。殿下、妃殿下。女官長より、明日の舞踏会の席次案の最終確認をと……」
わざとだ。
ここに来る理由を“公務”にして、今日の光景を見届けに来た。
リディアは、すぐに理解した。
この王宮は、いつも誰かが“見ている”。見て、測って、使う。
「ご苦労さま。後で確認しよう」
アーヴィンが言い、アデラは一歩下がる。
しかし彼女の視線は、窓辺の席に釘づけだった。——椅子の位置、距離、誰が誰を向いているか。その一つひとつを、社交の女王は記録している。
そして、起こった。
「アーヴィン様」
ミレーユが、当然のように名を呼んだ。
距離を詰めるための、甘い呼び方で。
茶会室の空気が、目に見えない音を立てて割れた。
扉付近にいた女官たちが、ほんの少しだけ息を止める。
近衛騎士ルシアンの肩がわずかに強張る。
侍女ミナが一歩、踏み出しかけて——止まる。主が止めると分かっているから。
アデラの目が、細くなる。
笑顔は崩さないまま、興味の火だけが灯る。
リディアの胸の奥が、ひやりと冷えた。
——“殿下”ではない。
——“王太子殿下”でもない。
——まして、“王太子妃の前”で、それをする。
私的呼称は、ただの呼び名ではない。
立場の境界線を曖昧にし、周囲に“特別”を印象づけるための道具だ。
「そう呼ぶのは……」
リディアは、声を出しかけた。
けれど、言葉を探す前に——ミレーユがさらに進む。
「わたくし、ずっと憧れていたのです。お噂の通り、殿下は本当にお優しい。……ね、アーヴィン様」
甘い声。
その甘さが、王宮の沈黙に染み込む。
アーヴィンは、わずかに眉を寄せた。
不快ではない。困惑。——そして、何より、場を壊したくないという顔。
それが、リディアには一番痛い。
あなたは、誰の“場”を守るの。
私の場? それとも、彼女の感情?
アデラの扇が、ほんの少し揺れた。
その仕草は、噂が生まれる音に似ていた。
エステルが、抑えた声で囁く。
わざとリディアに聞こえるように。
「まぁ……殿下と令嬢は、随分親しいのね。お妃様の前で……勇気がおありだこと」
言葉は褒める形。
けれど中身は刺。
リディアは微笑みを深くした。
微笑みの奥で、心がひとつ、沈む。
そして、穏やかな声で告げた。
「伯爵令嬢ミレーユ」
呼び捨てにしない。怒鳴らない。
ただ、礼節の名前で、距離を確定させる。
「王宮において、殿下を私的に呼ぶことは慎むべきです。特に——王太子妃である私の前では」
正しい言葉だった。
妃として、誰も否定できない“正しさ”。
その“正しさ”が、今度は別の熱を呼び起こす。
ミレーユの頬が、赤くなる。恥ではない。反発だ。
「……でも、妃殿下。わたくし、失礼だとは思わなくて……」
ミレーユの目に、涙が浮かぶ。早い。うまい。
そして、助け舟が欲しい時、人は必ず“守ってくれる人”を見る。
ミレーユの視線が、アーヴィンへ向かう。
アーヴィンは口を開きかけて、閉じた。
その一瞬の迷いを、アデラは見逃さない。
侍女ミナも見逃さない。
——そして、リディアも。
リディアは、胸の中だけで息を吐いた。
次に来るのは、ミレーユの反撃ではない。
取り巻きの煽りでもない。
噂でもない。
——夫の、“たった一言”だ。
窓辺の光が、白く冷えていく。
誰にも見えないところで、リディアの心が、静かにもう一歩退いた。
あなたにおすすめの小説
【完結】ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
【完結】これをもちまして、終了とさせていただきます
楽歩
恋愛
異世界から王宮に現れたという“女神の使徒”サラ。公爵令嬢のルシアーナの婚約者である王太子は、簡単に心奪われた。
伝承に語られる“女神の使徒”は時代ごとに現れ、国に奇跡をもたらす存在と言われている。婚約解消を告げる王、口々にルシアーナの処遇を言い合う重臣。
そんな混乱の中、ルシアーナは冷静に状況を見据えていた。
「王妃教育には、国の内部機密が含まれている。君がそれを知ったまま他家に嫁ぐことは……困難だ。女神アウレリア様を祀る神殿にて、王家の監視のもと、一生を女神に仕えて過ごすことになる」
神殿に閉じ込められて一生を過ごす? 冗談じゃないわ。
「お話はもうよろしいかしら?」
王族や重臣たち、誰もが自分の思惑通りに動くと考えている中で、ルシアーナは静かに、己の存在感を突きつける。
※39話、約9万字で完結予定です。最後までお付き合いいただけると嬉しいですm(__)m
幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました
ゆぷしろん
恋愛
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。
けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。
やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。
――もう、この結婚には見切りをつけよう。
夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。
身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。
一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。
幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。
「離縁状の印が乾く前に、王太子殿下から花束が届きました」〜五年間「置物」と呼ばれた侯爵夫人、夫が青ざめるのは王家との縁が切れてからでした〜
まさき
恋愛
侯爵夫人として過ごした五年間、夫に名前を呼ばれたことが一度もなかった。
愛人を夜会に連れてきた翌朝、私は離縁状を置いて屋敷を出た。
夫は「すぐ戻る」と思っていたらしい。
でも届いたのは、王太子殿下からの白薔薇だった。
「五年、待ちすぎました。今度こそ私の隣に」
幼馴染の殿下は、いつも私を「アメリア」と呼んでくれた。
ただそれだけで、五年分の何かが、ほどけていった。
夫が全てを失うのはこれからの話。
私が本当の笑顔を取り戻すのも、これからの話。
【完結】恋は、終わったのです
楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。
今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。
『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』
身長を追い越してしまった時からだろうか。
それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。
あるいは――あの子に出会った時からだろうか。
――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。
【完結】私を裏切った不倫夫に「どなたですか?」と微笑むまで 〜没落令嬢の復讐劇〜
恋せよ恋
恋愛
「早くあんな女と別れて、可愛い子と一緒になりたいよ」
不倫中の夫が笑う声を聞き、絶望の中で事故に遭うジェシカ。
結婚五年目に授かったお腹の子を失った彼女は、
「記憶を失ったフリ」で夫と地獄の婚家を捨てることを決意。
元男爵令嬢の薄幸ヒロインは、修道院で静かに時を過ごす。
独り身領主の三歳の男の子に懐かれ、なぜか領主まで登場!
無実の罪をなすりつけ、私を使い潰した報いを受けなさい。
記憶喪失を装った没落令嬢による、「ざまぁ」が幕を開ける!
※本作品には、馬車事故による流産の描写が含まれます。
苦手な方はご注意ください。主人公が絶対に幸せになる
物語ですので、安心してお読みいただければ幸いです。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!