「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第4章|私的呼称「アーヴィン様」→周囲のざわめき(アデラが見てる)

 窓辺の椅子に腰を下ろした瞬間、リディアは背筋をまっすぐに整えた。
 手は重ねる。指先は揺らさない。表情は微笑みの形を保つ。——それが、王太子妃の“防具”だった。

 椅子の背に残る、他人の体温。
 その薄い温かさが、消えない。

 リディアは紅茶の香りを吸い込み、静かに喉を潤した。
 熱が落ち着かせるのではない。落ち着いているふりを、続けさせてくれるだけ。

 アーヴィンは、今もなお状況を測っているようだった。視線が、リディアの手元とミレーユの表情を行き来する。何か言うべきだと分かっている。けれど、言葉が見つからない。——その“間”が、リディアの胸に二つ目のひびを入れる。

「伯爵令嬢、今日は挨拶だけのはずだったな」

 彼は穏やかな口調で言った。
 穏やかすぎるほどに。

「はい、もちろんですわ。けれど殿下、こうして少しお話しできたら——わたくし、とても幸せですの」

 ミレーユは頬を赤らめ、指先でネックレスに触れた。演技ではないように見える。
 だからこそ厄介だ。悪意が剥き出しでないほど、人は止めにくい。

 ミレーユの隣で、取り巻きの令嬢——子爵令嬢エステルが、扇の影からそっと笑った。
 “見ていなさい”という笑いだ。

 その時、茶会室の扉がもう一度開いた。

 女官が、控えめな歩幅で入室する。背後に続くのは、侯爵令嬢アデラ。
 王宮の社交を取り仕切る者の一人——噂の流れを知り、流れを変えられる女。

 アデラは浅い礼をし、柔らかい笑顔を作った。

「失礼いたします。殿下、妃殿下。女官長より、明日の舞踏会の席次案の最終確認をと……」

 わざとだ。
 ここに来る理由を“公務”にして、今日の光景を見届けに来た。

 リディアは、すぐに理解した。
 この王宮は、いつも誰かが“見ている”。見て、測って、使う。

「ご苦労さま。後で確認しよう」

 アーヴィンが言い、アデラは一歩下がる。
 しかし彼女の視線は、窓辺の席に釘づけだった。——椅子の位置、距離、誰が誰を向いているか。その一つひとつを、社交の女王は記録している。

 そして、起こった。

「アーヴィン様」

 ミレーユが、当然のように名を呼んだ。
 距離を詰めるための、甘い呼び方で。

 茶会室の空気が、目に見えない音を立てて割れた。

 扉付近にいた女官たちが、ほんの少しだけ息を止める。
 近衛騎士ルシアンの肩がわずかに強張る。
 侍女ミナが一歩、踏み出しかけて——止まる。主が止めると分かっているから。

 アデラの目が、細くなる。
 笑顔は崩さないまま、興味の火だけが灯る。

 リディアの胸の奥が、ひやりと冷えた。
 ——“殿下”ではない。
 ——“王太子殿下”でもない。
 ——まして、“王太子妃の前”で、それをする。

 私的呼称は、ただの呼び名ではない。
 立場の境界線を曖昧にし、周囲に“特別”を印象づけるための道具だ。

「そう呼ぶのは……」

 リディアは、声を出しかけた。
 けれど、言葉を探す前に——ミレーユがさらに進む。

「わたくし、ずっと憧れていたのです。お噂の通り、殿下は本当にお優しい。……ね、アーヴィン様」

 甘い声。
 その甘さが、王宮の沈黙に染み込む。

 アーヴィンは、わずかに眉を寄せた。
 不快ではない。困惑。——そして、何より、場を壊したくないという顔。

 それが、リディアには一番痛い。

 あなたは、誰の“場”を守るの。
 私の場? それとも、彼女の感情?

 アデラの扇が、ほんの少し揺れた。
 その仕草は、噂が生まれる音に似ていた。

 エステルが、抑えた声で囁く。
 わざとリディアに聞こえるように。

「まぁ……殿下と令嬢は、随分親しいのね。お妃様の前で……勇気がおありだこと」

 言葉は褒める形。
 けれど中身は刺。

 リディアは微笑みを深くした。
 微笑みの奥で、心がひとつ、沈む。

 そして、穏やかな声で告げた。

「伯爵令嬢ミレーユ」

 呼び捨てにしない。怒鳴らない。
 ただ、礼節の名前で、距離を確定させる。

「王宮において、殿下を私的に呼ぶことは慎むべきです。特に——王太子妃である私の前では」

 正しい言葉だった。
 妃として、誰も否定できない“正しさ”。

 その“正しさ”が、今度は別の熱を呼び起こす。
 ミレーユの頬が、赤くなる。恥ではない。反発だ。

「……でも、妃殿下。わたくし、失礼だとは思わなくて……」

 ミレーユの目に、涙が浮かぶ。早い。うまい。
 そして、助け舟が欲しい時、人は必ず“守ってくれる人”を見る。

 ミレーユの視線が、アーヴィンへ向かう。

 アーヴィンは口を開きかけて、閉じた。
 その一瞬の迷いを、アデラは見逃さない。
 侍女ミナも見逃さない。
 ——そして、リディアも。

 リディアは、胸の中だけで息を吐いた。

 次に来るのは、ミレーユの反撃ではない。
 取り巻きの煽りでもない。
 噂でもない。

 ——夫の、“たった一言”だ。

 窓辺の光が、白く冷えていく。
 誰にも見えないところで、リディアの心が、静かにもう一歩退いた。

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