「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第5章|リディア、礼節として穏やかに正す

 リディアが口にしたのは、どこまでも“正しい言葉”だった。

 王宮において、王太子を私的に呼ぶことは慎むべき。
 まして王太子妃の前で——それは礼節ではなく、挑発になる。

 それでも、正しさは必ずしも人を味方につけない。
 正しさは時に、場を凍らせる。

 ミレーユの瞳に、光るものが浮かんだ。涙は、心の弱さではなく武器だ。
 彼女はそれを自覚していないふりが、とても上手い。

「……妃殿下。わたくし、そんなつもりでは」

 声が震える。頬が赤い。唇が小さく結ばれる。
 ——可哀想な令嬢、という形に整えられていく。

 エステルが、扇の影で小さく息を吐いた。
 「ほらね」という嘲りが混ざっている。

 アデラは何も言わない。
 ただ、笑顔のまま扇を胸元で揺らし、目だけで“どちらが勝つか”を見守っていた。

 この場にいる誰よりも静かに、最も残酷に。

 リディアは、カップをソーサーに戻した。音を立てない。
 指先を重ね、背筋を伸ばす。

 怒っているように見せてはいけない。
 傷ついているように見せてもいけない。

 王太子妃が揺らげば、王宮は嗅ぎつける。
 揺らぎの匂いは、すぐ噂になる。

「伯爵令嬢」

 リディアは優しく呼びかけた。
 声の温度だけは、落とさない。

「あなたが“そんなつもりではない”ことは、理解いたします。けれど——王宮は、意図よりも“形”を重んじます」

 “形”。
 それは礼節のこと。立場のこと。席次のこと。呼称のこと。
 妃が守らなければならない、国の輪郭。

「殿下のお立場は、私たちよりずっと重い。だからこそ、殿下の周りにいる者は、殿下を守る振る舞いを選ぶべきです」

 言葉は丁寧。
 だが、核心ははっきりしている。

 ——あなたのその呼び方は、殿下を危うくする。

 ミレーユは一瞬、目を丸くした。
 そして、次の瞬間、笑った。涙を残したままの笑み。

「……妃殿下は、本当にお強いのですね。わたくし、そんなふうに考えたことがなくて」

 褒めているようで、刺してくる。
 “強い”という言葉は、女を孤立させる時に使われる。
 強いなら、平気でしょう。強いなら、我慢できるでしょう。強いなら——守られなくても。

 リディアの心の奥で、何かがきしんだ。
 けれど表情は、微笑みのまま。

「強いのではありません。妃としての務めです」

 言い切った瞬間、ミナの肩がほんの少し下がった。
 主の“ブレない声”に、救われたように。

 アーヴィンは、黙っていた。

 その沈黙が、リディアの耳にだけ大きく響く。
 ——あなたは、今、何を思っているの。
 ——私が正しいと言ってくれる? それとも、場を荒立てるなと言う?

 リディアは、彼に視線を向けない。
 向けたら、期待が漏れる。期待は、最も残酷な裏切りを連れてくる。

「殿下」

 リディアは、あくまで“確認”の形で言った。
 夫に縋る声ではなく、王太子に報告する声。

「今後、王宮内では『殿下』、もしくは『王太子殿下』とお呼びすることを、徹底なさるのがよろしいかと存じます」

 正しい。誰も反論できない。
 だからこそ——返答する者の人柄が、露わになる。

 アーヴィンは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
 その仕草が、迷いを示す。

「……そうだな。礼節は大切だ」

 言葉は正しい。
 しかし、そこに“妻を守る温度”がなかった。

 リディアの胸の奥が、すっと冷える。

 ——今の言葉は、私のためではない。
 ——“場のため”だ。

 ミレーユが、すぐにその隙間を嗅ぎ取った。
 彼女は涙を拭い、少しだけ首を傾げる。

「殿下……ではなく、王太子殿下。わたくし、以後気をつけます。妃殿下のお言葉を、よく胸に刻みますわ」

 “妃殿下のお言葉”。
 わざと強調する。まるでリディアが厳しく叱ったように見せる。

 エステルが小さく笑った。
 アデラの目が、さらに愉しげに細まる。

 リディアは、気づいた。

 この令嬢は、ルールを守るふりをして、ルールそのものを“妃のわがまま”に変換する。
 正しさを、孤独に変える。

 そして——今この場で、最も重要な人が、まだ何もしていない。

 アーヴィンは、沈黙したまま。
 止めない。守りもしない。
 ただ、“穏便に”を選ぶ顔。

 リディアは、微笑みを深くした。
 その微笑みが、少しだけ薄くなる。

「ありがとうございます、伯爵令嬢。では、話を戻しましょう」

 何事もなかったように、茶会を続ける。
 妃の務めとして、場を整える。

 ——正しくあろうとするほど、心が削れていく。

 リディアは紅茶を飲んだ。
 香りは確かに同じなのに、味だけが遠かった。

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