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第6章|ミレーユ、悪びれず笑う
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「礼節は大切だ」
アーヴィンの言葉が落ちた瞬間、茶会室の空気は“整った”ように見えた。
誰も声を荒げていない。誰も泣き崩れていない。誰も席を立っていない。
——だから周囲は、問題が解決したと思う。
けれど、リディアの胸の奥だけが知っていた。
整ったのは“場”であって、“夫婦”ではない。
ミレーユは、涙を拭った指先をそのまま胸元へ戻し、花が咲くように笑った。
あまりにも軽やかで、あまりにも無邪気で——その無邪気さが、最も残酷だった。
「妃殿下、すごいですわ。わたくし、王宮は堅苦しいところだと伺っていましたけれど……妃殿下がいらっしゃると、すべてが“正しく”なるのですね」
“正しく”。
さっきリディアが使った言葉を、甘く包み直して返してくる。
褒め言葉の形をした檻。
——正しいなら、感情を挟むな。正しいなら、我慢しろ。
リディアは微笑んだ。
その微笑みは、もう自分のためではない。王宮のための仮面だ。
「ありがたく受け取りますわ、伯爵令嬢」
言葉だけを、礼の形で返す。
心は渡さない。渡したら、削られる。
ミレーユは頷き、そして首を傾げた。
「では……今後は、きちんと『王太子殿下』とお呼びしますわ」
そう言った直後、彼女は一拍置いて——小さな声で、わざとらしく付け足した。
「……けれど、殿下はお優しいから。わたくし、つい、心が近づいてしまって」
言葉の最後に、視線がアーヴィンへ絡みつく。
“私の心は殿下に向いています”と宣言するように。
アーヴィンは、困ったように眉を寄せた。
叱らない。止めない。
ただ、曖昧な沈黙でやり過ごす。
その沈黙の隙間に、取り巻きのエステルがすっと入り込んだ。
エステルは扇を口元に当て、控えめに笑う。
控えめに——けれど、声はきちんと届くように。
「妃殿下は本当に立派ですわ。殿下のお務めを、いつも完璧にお支えになって」
一見、賛辞。
だが、その言い方は、なぜか“遠い”。
妃は妻ではなく、支える道具。
妃は感情を持たず、完璧であるべき存在。
その含みが、薄い刃になってリディアの喉に触れる。
リディアは、カップの縁を指先でなぞった。
指が震えないように、白磁の冷たさに意識を移す。
「恐れ入ります」
短く返すと、エステルの目がほんのわずかに細まった。
「けれど……少しだけ、不思議ですの」
エステルが言う。
“少しだけ”という前置きが、最も危険だ。
「妃殿下ほどお美しく、賢く、完璧な方でも……殿下に対して、そんなに厳密に線を引かれるのですね」
あくまで、疑問の形。
あくまで、純粋な好奇心の形。
だからこそ、悪意が否定しにくい。
ミレーユが、少し驚いたように目を瞬かせて見せた。
“エステルったら、そんなこと言ってはだめよ”とでも言うように。
けれど、その顔の裏で、楽しんでいるのが見える。
「エステル……」
ミレーユが小さく咎める。形だけ。
そしてすぐに、リディアへ向き直る。
「妃殿下、わたくし、あなたを責めたいわけではないのです。ただ……殿下は、優しすぎるでしょう?」
優しすぎる。
それは、褒め言葉のようでいて、リディアを責める言葉にもなる。
——あなたが厳しいから、殿下が苦しい。
——あなたが線を引くから、殿下が疲れる。
リディアの胸の奥に、静かに怒りが灯る。
けれど怒りは、燃え上がる前に凍らせる。
燃えたら負ける。燃えたら“狭量な妃”の噂が完成する。
だからリディアは、声をさらに柔らかくした。
「殿下の優しさは、国にとっての宝です。だからこそ、私たちは礼節を守り、殿下を守らねばなりません」
“私たちは”。
仲間の形にしながら、線を引く。
あなたは今、守っていない側だと示す。
ミレーユは、くすりと笑った。
悪びれない笑いだ。
ルールを守るふりをして、ルールの上に立つ笑い。
「まあ。妃殿下の言葉は、いつも勉強になりますわ」
そして、彼女は砂糖壺に手を伸ばした。
——勝手に触れるな。
言葉が喉で跳ねた。
けれど、リディアは微笑んで耐える。
“正しさ”を盾にするには、冷静でいなければならないから。
ミレーユは砂糖壺の蓋を開け、角砂糖をつまみ、カップへ落とす。
音が小さく響く。
その小さな音が、リディアには“侵食”の足音に聞こえた。
アーヴィンは、何も言わない。
それは些細なことだと判断しているのか、見えていないのか。
どちらでも——リディアにとっては同じだった。
エステルが、また扇の影で囁く。
「……殿下は、やさしい方ですものね。妃殿下の“正しさ”に、疲れてしまわれないといいけれど」
囁きは風のように軽い。
けれど、その言葉は、重い鎖のように胸に絡む。
アデラが扇を閉じた。
小さな音。
それは“噂の始まり”を告げる合図のようだった。
リディアは、紅茶を飲んだ。
さっきよりも、少しだけ苦い。
——侵食は、怒鳴ることで始まるのではない。
——笑顔と、甘い声と、些細な手つきで始まる。
そして、最も残酷なのは。
それを止められるはずの人が、
ただ沈黙していることだった。
アーヴィンの言葉が落ちた瞬間、茶会室の空気は“整った”ように見えた。
誰も声を荒げていない。誰も泣き崩れていない。誰も席を立っていない。
——だから周囲は、問題が解決したと思う。
けれど、リディアの胸の奥だけが知っていた。
整ったのは“場”であって、“夫婦”ではない。
ミレーユは、涙を拭った指先をそのまま胸元へ戻し、花が咲くように笑った。
あまりにも軽やかで、あまりにも無邪気で——その無邪気さが、最も残酷だった。
「妃殿下、すごいですわ。わたくし、王宮は堅苦しいところだと伺っていましたけれど……妃殿下がいらっしゃると、すべてが“正しく”なるのですね」
“正しく”。
さっきリディアが使った言葉を、甘く包み直して返してくる。
褒め言葉の形をした檻。
——正しいなら、感情を挟むな。正しいなら、我慢しろ。
リディアは微笑んだ。
その微笑みは、もう自分のためではない。王宮のための仮面だ。
「ありがたく受け取りますわ、伯爵令嬢」
言葉だけを、礼の形で返す。
心は渡さない。渡したら、削られる。
ミレーユは頷き、そして首を傾げた。
「では……今後は、きちんと『王太子殿下』とお呼びしますわ」
そう言った直後、彼女は一拍置いて——小さな声で、わざとらしく付け足した。
「……けれど、殿下はお優しいから。わたくし、つい、心が近づいてしまって」
言葉の最後に、視線がアーヴィンへ絡みつく。
“私の心は殿下に向いています”と宣言するように。
アーヴィンは、困ったように眉を寄せた。
叱らない。止めない。
ただ、曖昧な沈黙でやり過ごす。
その沈黙の隙間に、取り巻きのエステルがすっと入り込んだ。
エステルは扇を口元に当て、控えめに笑う。
控えめに——けれど、声はきちんと届くように。
「妃殿下は本当に立派ですわ。殿下のお務めを、いつも完璧にお支えになって」
一見、賛辞。
だが、その言い方は、なぜか“遠い”。
妃は妻ではなく、支える道具。
妃は感情を持たず、完璧であるべき存在。
その含みが、薄い刃になってリディアの喉に触れる。
リディアは、カップの縁を指先でなぞった。
指が震えないように、白磁の冷たさに意識を移す。
「恐れ入ります」
短く返すと、エステルの目がほんのわずかに細まった。
「けれど……少しだけ、不思議ですの」
エステルが言う。
“少しだけ”という前置きが、最も危険だ。
「妃殿下ほどお美しく、賢く、完璧な方でも……殿下に対して、そんなに厳密に線を引かれるのですね」
あくまで、疑問の形。
あくまで、純粋な好奇心の形。
だからこそ、悪意が否定しにくい。
ミレーユが、少し驚いたように目を瞬かせて見せた。
“エステルったら、そんなこと言ってはだめよ”とでも言うように。
けれど、その顔の裏で、楽しんでいるのが見える。
「エステル……」
ミレーユが小さく咎める。形だけ。
そしてすぐに、リディアへ向き直る。
「妃殿下、わたくし、あなたを責めたいわけではないのです。ただ……殿下は、優しすぎるでしょう?」
優しすぎる。
それは、褒め言葉のようでいて、リディアを責める言葉にもなる。
——あなたが厳しいから、殿下が苦しい。
——あなたが線を引くから、殿下が疲れる。
リディアの胸の奥に、静かに怒りが灯る。
けれど怒りは、燃え上がる前に凍らせる。
燃えたら負ける。燃えたら“狭量な妃”の噂が完成する。
だからリディアは、声をさらに柔らかくした。
「殿下の優しさは、国にとっての宝です。だからこそ、私たちは礼節を守り、殿下を守らねばなりません」
“私たちは”。
仲間の形にしながら、線を引く。
あなたは今、守っていない側だと示す。
ミレーユは、くすりと笑った。
悪びれない笑いだ。
ルールを守るふりをして、ルールの上に立つ笑い。
「まあ。妃殿下の言葉は、いつも勉強になりますわ」
そして、彼女は砂糖壺に手を伸ばした。
——勝手に触れるな。
言葉が喉で跳ねた。
けれど、リディアは微笑んで耐える。
“正しさ”を盾にするには、冷静でいなければならないから。
ミレーユは砂糖壺の蓋を開け、角砂糖をつまみ、カップへ落とす。
音が小さく響く。
その小さな音が、リディアには“侵食”の足音に聞こえた。
アーヴィンは、何も言わない。
それは些細なことだと判断しているのか、見えていないのか。
どちらでも——リディアにとっては同じだった。
エステルが、また扇の影で囁く。
「……殿下は、やさしい方ですものね。妃殿下の“正しさ”に、疲れてしまわれないといいけれど」
囁きは風のように軽い。
けれど、その言葉は、重い鎖のように胸に絡む。
アデラが扇を閉じた。
小さな音。
それは“噂の始まり”を告げる合図のようだった。
リディアは、紅茶を飲んだ。
さっきよりも、少しだけ苦い。
——侵食は、怒鳴ることで始まるのではない。
——笑顔と、甘い声と、些細な手つきで始まる。
そして、最も残酷なのは。
それを止められるはずの人が、
ただ沈黙していることだった。
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