6 / 19
第6章|守るための配置換え
しおりを挟む
王宮の表側は、昨夜の舞踏会などなかったかのように整っていた――。
……その“整い”の中で、レイヴンの執務室だけが、微かに息苦しい。
机の上に積まれた報告書の角を、レイヴンは指先で押さえていた。
拳にしてしまえば、紙が裂ける。
裂けたところで、何も戻らない。
ノック。
「殿下。近衛隊長ガイルです」
「入れ」
ガイルが入室し、一礼すると同時に、封のついた薄い書類を差し出した。
いつも通りの所作。いつも通りの無表情。
だが、いつもより声が一段低い。
「侍女長マルタより、“新規採用者リスト”が上がりました」
その言葉で、室内の空気が一瞬だけ止まった。
レイヴンは受け取らない。
受け取らずに、視線だけで封を見た。
(……来たか)
ガイルが続ける。
「配属導線の警備共有として、近衛詰所に回ってきたものです。姓未登録が一名。配属は厨房補助――西棟配膳室導線」
説明の仕方が、すでに答えを含んでいる。
ガイルは“察している”。
そして殿下に“突きつけている”。
レイヴンの喉が、小さく鳴った。
「……名前は」
声が、王太子の声のまま出たのが、自分でも分かった。
冷たく、平らで、感情を隠す声。
ガイルは一拍置く。
それが、唯一の躊躇だった。
「……セシリア、です」
その二音で、胸の奥がひどく痛んだ。
――セシリア。
名前だけなら何度も呼んできた。
口にするたびに胸が温かくなる、はずだった。
それなのに今は、胸の内側を鋭く削る。
ガイルが、封を切らずに言う。
「姓は伏せられています。マルタ殿の判断でしょう。ですが……殿下が昨日命じられた“安全区域”の導線に、同名の新規採用者が入っています」
同名、ではない。
――本人だ。
レイヴンには分かる。
“伯爵家の娘”が侍女になるなど、普通は起きない。
それが起きた理由も、分かる。
逃げるためではない。
檻に入るためでもない。
あの女は、折られても立とうとする。
(……自分の足で、生きるのか)
胸の奥が、誇らしさと痛みで混ざり、息が詰まる。
レイヴンは右鎖骨に指を当てた。
古傷を押さえる癖。
感情を止めるための癖。
ガイルは視線を落としたまま、淡々と報告を続ける。
「採用決裁は本日付。名簿はすでに近衛内で共有されました。必要なら、こちらで“噂の導線”を遮断します」
遮断。
それは守りになる。
同時に、監視にもなる。
レイヴンは短く息を吐き、言った。
「……近衛内で、彼女の名を口にするな」
「は」
「詮索も禁止だ。姓が伏せられている以上、そこに踏み込むな」
「承知しました」
ガイルは即答した。
だが、その即答の裏に、“殿下が壊れないための配慮”があるのを、レイヴンは感じ取ってしまう。
――壊れているのは、自分だ。
忘れられた瞬間、壊れた。
そして今、彼女が王宮で働き始めたと知って、さらに壊れかけている。
レイヴンは、ようやく書類を受け取った。
封を切る指が一瞬だけ止まる。
そこに書かれているのは、ただの名簿のはずだ。
けれど自分にとっては、彼女の“生存証明”だ。
――生きている。自分のいない場所で。
封を切り、目を走らせる。
『セシリア(姓未登録)/配属:厨房補助→西棟配膳室導線』
文字は冷たい。
だが、レイヴンの胸の奥にだけ、熱が灯った。
(……会うな)
会えば、守れなくなる。
会えば、思い出させてしまうかもしれない。
思い出した瞬間、封印が揺れる。
だからこそ――
レイヴンは紙を伏せ、声を硬くした。
「……配置換えは予定通りだ。西棟へ。警備を厚くする」
ガイルが頷く。
「殿下」
「何だ」
「……彼女は、“守られている”ことを知りません」
その一言が、胸に刺さった。
知っていれば、泣かずに済んだ。
知っていれば、誤解しなかった。
けれど知れば、殺される。
レイヴンは答えない。
答えられない。
ただ、王太子の仮面のまま言う。
「……知らなくていい」
レイヴンは小さく呟いた。
「――生きろ、セシリア」
それは命令ではなく、
届かない場所へ落とした、祈りだった。
「昨夜の件、城内の噂は広がり始めています。侍女区画にも影響が出るでしょう」
「……広げるな」
レイヴンの声は冷たい。
しかしそれは怒りではなく、恐怖を押し殺した冷たさだった。
「は。可能な限り封じます。ただ――」
ガイルは躊躇った。
王太子に言いにくいことほど、報告は必要だ。
「セシリア嬢の件です。医官ユーリより、失神は精神的衝撃だけではない可能性があると」
レイヴンの瞳が一瞬、鋭くなる。
「……どういう意味だ」
「記憶の欠落。特定の人物――殿下、あなたに関する記憶だけが抜けている可能性がある、と」
言葉が落ちた瞬間、室内の温度が下がったように感じた。
レイヴンは頷かない。否定もしない。
ただ、机の角を指で押さえた。
拳にしないために、抑えるように。
(やはり……)
彼女は、忘れた。
忘れてしまった。
――守るために起こしたことが、想像以上の代償を払わせた。
だが、記憶が抜けたのは“偶然”ではない。
医官が知らないだけで、王太子は知っている。
セシリアの血。
王宮に古くから結ばれた“封印契約”。
そして――思い出した瞬間に狙われる、危険。
彼女が彼を思い出せば、封印が揺れる。
封印が揺れれば、黒幕が動く。
その黒幕が誰かも、レイヴンは薄々掴んでいた。
だからこそ――
「配置を変える」
レイヴンは言った。
短く、命令として。
ガイルが目を上げる。
「侍女区画ですか?」
「そうだ。……彼女を“安全区域”へ置け」
ガイルは一瞬だけためらった。
安全区域――それは王族に近い場所だ。警備が厚い。
同時に、視線も集まる。噂も増える。
「殿下、王族区域に近づければ逆に目立ちます。噂の餌になります」
レイヴンの唇が、わずかに歪んだ。
「目立つのは構わない。……殺されるよりは」
ガイルが息を呑む。
その言葉に含まれる“事情”を、隊長は理解しきれない。
だが理解できなくても、忠誠がある。
「承知しました。具体的にはどの区画へ?」
レイヴンは一拍置いた。
王宮内には、外部の者が近づけない区画がある。
祈祷室の奥。王家の古い紋章が刻まれた回廊。
そこは警備が厚い。
同時に、“封印”に近い。
近づけすぎれば危険。
離しすぎれば護れない。
矛盾の中で、最も歪みが少ない場所を、レイヴンは選ぶ。
「西棟、第二回廊の配膳室と、厨房補助の導線に入れろ。侍女長マルタの管轄だ」
「……マルタ殿なら口は堅いでしょう」
「余計な情は持たない。だからいい」
レイヴンの声は、どこまでも冷静だった。
冷静であることが、彼の生存戦略だった。
ガイルが頷き、次の報告へ移ろうとした瞬間――
扉が再びノックされた。
「殿下。枢機卿バルド様がお見えです」
レイヴンの瞳が細くなる。
「……通せ」
入ってきたのは、枢機卿バルドだった。
黒衣の裾が床を滑り、胸元の聖印が光を反射する。
笑みは柔らかいのに、目は獲物を数えるように冷たい。
「王太子殿下。昨夜のご決断、誠に勇敢でしたな」
褒め言葉に見せた棘。
レイヴンは返礼の笑みすら浮かべない。
「要件は」
バルドは肩をすくめた。
「聖女候補リディア殿が、殿下のご厚意に深く感謝しております。……彼女は今、王宮での保護を望んでおります」
レイヴンの心臓が、冷たい音を立てた。
(来たか)
リディアを王宮の中心に置けば、権威は強化される。
そしてセシリアへの圧力は増す。
黒幕の都合が良くなる。
レイヴンは答えを曖昧にしない。
「……保護は王宮の判断だ。国王陛下の許可なく決まらない」
バルドは微笑んだ。
「ええ、もちろん。陛下も“清廉な聖女”を歓迎されるでしょう。……ところで」
バルドの視線が、机の上の紙へ落ちる。
『記憶に異常の兆候』の文字。
レイヴンの指先が微かに動く。紙を伏せるには遅い。
だがバルドは気づいたふりをしない。
気づいていないはずがないのに。
「セシリア嬢の容体はいかがですかな。……罪を犯した者ほど、弱い。心を病むのは当然です」
優しい言葉の形をした、毒。
レイヴンの琥珀の瞳が、氷のように冷える。
「……心配は不要だ」
バルドは頷いた。
「ならば安心。……罪人の扱いには慎重を。王宮の浄化のために」
浄化。
その言葉に、レイヴンは吐き気を覚えた。
誰が、誰を浄化するというのか。
ガイルが一歩前に出る。
「枢機卿。殿下はご多忙です。要件が済んだなら――」
バルドは軽く笑って、一礼した。
「失礼。では、また」
枢機卿が去る。
扉が閉まった瞬間、レイヴンは息を吐いた。
深く、重く。
肺の奥に溜まっていた毒を吐き出すように。
ガイルが低い声で言う。
「……殿下。枢機卿は気づいています。セシリア嬢の“異常”に」
「だから急ぐ」
レイヴンは言った。
机の上の紙を掴み、握り潰しそうになるのを堪える。
「彼女を守るための配置換えだ。今日中に手配しろ」
「は」
ガイルは即答し、踵を返す。
扉へ向かう直前、彼は一度だけ振り返った。
「殿下……」
「何だ」
「……彼女を守るために、殿下が“悪役”を背負われたことは、俺も理解しています。ですが」
ガイルの声がわずかに揺れる。
「殿下ご自身が壊れかけている」
レイヴンは返事をしなかった。
壊れている。
それは、昨夜から分かっていた。
――いや、もっと前からだ。
守るために捨てた。
捨てたはずなのに、忘れられた瞬間、失ったものの大きさを思い知らされた。
ガイルが去り、部屋に一人になる。
レイヴンは窓の外を見た。
王宮の中庭。
光が降り、侍女たちが小さく動いている。
その中に、彼女が入る。
今日か明日か――彼が命じた通り、配置が変わる。
近づけない。
でも、視界の中には置いておきたい。
矛盾が、胸を裂く。
レイヴンは低く呟いた。
「……忘れたままでいろ」
それは命令ではなく、祈りだった。
思い出せば、彼女は狙われる。
思い出さなければ、二人は永遠に届かない。
――それでも、彼女が生きる方を選ぶ。
王太子は、自分の心臓を切り捨てるように、静かに目を閉じた。
……その“整い”の中で、レイヴンの執務室だけが、微かに息苦しい。
机の上に積まれた報告書の角を、レイヴンは指先で押さえていた。
拳にしてしまえば、紙が裂ける。
裂けたところで、何も戻らない。
ノック。
「殿下。近衛隊長ガイルです」
「入れ」
ガイルが入室し、一礼すると同時に、封のついた薄い書類を差し出した。
いつも通りの所作。いつも通りの無表情。
だが、いつもより声が一段低い。
「侍女長マルタより、“新規採用者リスト”が上がりました」
その言葉で、室内の空気が一瞬だけ止まった。
レイヴンは受け取らない。
受け取らずに、視線だけで封を見た。
(……来たか)
ガイルが続ける。
「配属導線の警備共有として、近衛詰所に回ってきたものです。姓未登録が一名。配属は厨房補助――西棟配膳室導線」
説明の仕方が、すでに答えを含んでいる。
ガイルは“察している”。
そして殿下に“突きつけている”。
レイヴンの喉が、小さく鳴った。
「……名前は」
声が、王太子の声のまま出たのが、自分でも分かった。
冷たく、平らで、感情を隠す声。
ガイルは一拍置く。
それが、唯一の躊躇だった。
「……セシリア、です」
その二音で、胸の奥がひどく痛んだ。
――セシリア。
名前だけなら何度も呼んできた。
口にするたびに胸が温かくなる、はずだった。
それなのに今は、胸の内側を鋭く削る。
ガイルが、封を切らずに言う。
「姓は伏せられています。マルタ殿の判断でしょう。ですが……殿下が昨日命じられた“安全区域”の導線に、同名の新規採用者が入っています」
同名、ではない。
――本人だ。
レイヴンには分かる。
“伯爵家の娘”が侍女になるなど、普通は起きない。
それが起きた理由も、分かる。
逃げるためではない。
檻に入るためでもない。
あの女は、折られても立とうとする。
(……自分の足で、生きるのか)
胸の奥が、誇らしさと痛みで混ざり、息が詰まる。
レイヴンは右鎖骨に指を当てた。
古傷を押さえる癖。
感情を止めるための癖。
ガイルは視線を落としたまま、淡々と報告を続ける。
「採用決裁は本日付。名簿はすでに近衛内で共有されました。必要なら、こちらで“噂の導線”を遮断します」
遮断。
それは守りになる。
同時に、監視にもなる。
レイヴンは短く息を吐き、言った。
「……近衛内で、彼女の名を口にするな」
「は」
「詮索も禁止だ。姓が伏せられている以上、そこに踏み込むな」
「承知しました」
ガイルは即答した。
だが、その即答の裏に、“殿下が壊れないための配慮”があるのを、レイヴンは感じ取ってしまう。
――壊れているのは、自分だ。
忘れられた瞬間、壊れた。
そして今、彼女が王宮で働き始めたと知って、さらに壊れかけている。
レイヴンは、ようやく書類を受け取った。
封を切る指が一瞬だけ止まる。
そこに書かれているのは、ただの名簿のはずだ。
けれど自分にとっては、彼女の“生存証明”だ。
――生きている。自分のいない場所で。
封を切り、目を走らせる。
『セシリア(姓未登録)/配属:厨房補助→西棟配膳室導線』
文字は冷たい。
だが、レイヴンの胸の奥にだけ、熱が灯った。
(……会うな)
会えば、守れなくなる。
会えば、思い出させてしまうかもしれない。
思い出した瞬間、封印が揺れる。
だからこそ――
レイヴンは紙を伏せ、声を硬くした。
「……配置換えは予定通りだ。西棟へ。警備を厚くする」
ガイルが頷く。
「殿下」
「何だ」
「……彼女は、“守られている”ことを知りません」
その一言が、胸に刺さった。
知っていれば、泣かずに済んだ。
知っていれば、誤解しなかった。
けれど知れば、殺される。
レイヴンは答えない。
答えられない。
ただ、王太子の仮面のまま言う。
「……知らなくていい」
レイヴンは小さく呟いた。
「――生きろ、セシリア」
それは命令ではなく、
届かない場所へ落とした、祈りだった。
「昨夜の件、城内の噂は広がり始めています。侍女区画にも影響が出るでしょう」
「……広げるな」
レイヴンの声は冷たい。
しかしそれは怒りではなく、恐怖を押し殺した冷たさだった。
「は。可能な限り封じます。ただ――」
ガイルは躊躇った。
王太子に言いにくいことほど、報告は必要だ。
「セシリア嬢の件です。医官ユーリより、失神は精神的衝撃だけではない可能性があると」
レイヴンの瞳が一瞬、鋭くなる。
「……どういう意味だ」
「記憶の欠落。特定の人物――殿下、あなたに関する記憶だけが抜けている可能性がある、と」
言葉が落ちた瞬間、室内の温度が下がったように感じた。
レイヴンは頷かない。否定もしない。
ただ、机の角を指で押さえた。
拳にしないために、抑えるように。
(やはり……)
彼女は、忘れた。
忘れてしまった。
――守るために起こしたことが、想像以上の代償を払わせた。
だが、記憶が抜けたのは“偶然”ではない。
医官が知らないだけで、王太子は知っている。
セシリアの血。
王宮に古くから結ばれた“封印契約”。
そして――思い出した瞬間に狙われる、危険。
彼女が彼を思い出せば、封印が揺れる。
封印が揺れれば、黒幕が動く。
その黒幕が誰かも、レイヴンは薄々掴んでいた。
だからこそ――
「配置を変える」
レイヴンは言った。
短く、命令として。
ガイルが目を上げる。
「侍女区画ですか?」
「そうだ。……彼女を“安全区域”へ置け」
ガイルは一瞬だけためらった。
安全区域――それは王族に近い場所だ。警備が厚い。
同時に、視線も集まる。噂も増える。
「殿下、王族区域に近づければ逆に目立ちます。噂の餌になります」
レイヴンの唇が、わずかに歪んだ。
「目立つのは構わない。……殺されるよりは」
ガイルが息を呑む。
その言葉に含まれる“事情”を、隊長は理解しきれない。
だが理解できなくても、忠誠がある。
「承知しました。具体的にはどの区画へ?」
レイヴンは一拍置いた。
王宮内には、外部の者が近づけない区画がある。
祈祷室の奥。王家の古い紋章が刻まれた回廊。
そこは警備が厚い。
同時に、“封印”に近い。
近づけすぎれば危険。
離しすぎれば護れない。
矛盾の中で、最も歪みが少ない場所を、レイヴンは選ぶ。
「西棟、第二回廊の配膳室と、厨房補助の導線に入れろ。侍女長マルタの管轄だ」
「……マルタ殿なら口は堅いでしょう」
「余計な情は持たない。だからいい」
レイヴンの声は、どこまでも冷静だった。
冷静であることが、彼の生存戦略だった。
ガイルが頷き、次の報告へ移ろうとした瞬間――
扉が再びノックされた。
「殿下。枢機卿バルド様がお見えです」
レイヴンの瞳が細くなる。
「……通せ」
入ってきたのは、枢機卿バルドだった。
黒衣の裾が床を滑り、胸元の聖印が光を反射する。
笑みは柔らかいのに、目は獲物を数えるように冷たい。
「王太子殿下。昨夜のご決断、誠に勇敢でしたな」
褒め言葉に見せた棘。
レイヴンは返礼の笑みすら浮かべない。
「要件は」
バルドは肩をすくめた。
「聖女候補リディア殿が、殿下のご厚意に深く感謝しております。……彼女は今、王宮での保護を望んでおります」
レイヴンの心臓が、冷たい音を立てた。
(来たか)
リディアを王宮の中心に置けば、権威は強化される。
そしてセシリアへの圧力は増す。
黒幕の都合が良くなる。
レイヴンは答えを曖昧にしない。
「……保護は王宮の判断だ。国王陛下の許可なく決まらない」
バルドは微笑んだ。
「ええ、もちろん。陛下も“清廉な聖女”を歓迎されるでしょう。……ところで」
バルドの視線が、机の上の紙へ落ちる。
『記憶に異常の兆候』の文字。
レイヴンの指先が微かに動く。紙を伏せるには遅い。
だがバルドは気づいたふりをしない。
気づいていないはずがないのに。
「セシリア嬢の容体はいかがですかな。……罪を犯した者ほど、弱い。心を病むのは当然です」
優しい言葉の形をした、毒。
レイヴンの琥珀の瞳が、氷のように冷える。
「……心配は不要だ」
バルドは頷いた。
「ならば安心。……罪人の扱いには慎重を。王宮の浄化のために」
浄化。
その言葉に、レイヴンは吐き気を覚えた。
誰が、誰を浄化するというのか。
ガイルが一歩前に出る。
「枢機卿。殿下はご多忙です。要件が済んだなら――」
バルドは軽く笑って、一礼した。
「失礼。では、また」
枢機卿が去る。
扉が閉まった瞬間、レイヴンは息を吐いた。
深く、重く。
肺の奥に溜まっていた毒を吐き出すように。
ガイルが低い声で言う。
「……殿下。枢機卿は気づいています。セシリア嬢の“異常”に」
「だから急ぐ」
レイヴンは言った。
机の上の紙を掴み、握り潰しそうになるのを堪える。
「彼女を守るための配置換えだ。今日中に手配しろ」
「は」
ガイルは即答し、踵を返す。
扉へ向かう直前、彼は一度だけ振り返った。
「殿下……」
「何だ」
「……彼女を守るために、殿下が“悪役”を背負われたことは、俺も理解しています。ですが」
ガイルの声がわずかに揺れる。
「殿下ご自身が壊れかけている」
レイヴンは返事をしなかった。
壊れている。
それは、昨夜から分かっていた。
――いや、もっと前からだ。
守るために捨てた。
捨てたはずなのに、忘れられた瞬間、失ったものの大きさを思い知らされた。
ガイルが去り、部屋に一人になる。
レイヴンは窓の外を見た。
王宮の中庭。
光が降り、侍女たちが小さく動いている。
その中に、彼女が入る。
今日か明日か――彼が命じた通り、配置が変わる。
近づけない。
でも、視界の中には置いておきたい。
矛盾が、胸を裂く。
レイヴンは低く呟いた。
「……忘れたままでいろ」
それは命令ではなく、祈りだった。
思い出せば、彼女は狙われる。
思い出さなければ、二人は永遠に届かない。
――それでも、彼女が生きる方を選ぶ。
王太子は、自分の心臓を切り捨てるように、静かに目を閉じた。
35
あなたにおすすめの小説
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
素敵な人が私の婚約者ですか?すみません、他に好きな人がいる婚約者様とは将来を約束出来ませんので婚約破棄をお願いします。
クロユキ
恋愛
「あの…貴方は誰ですか?」
森の中で倒れていた私は婚約者のアレン様を私は覚えていません、記憶喪失だそうです。彼には別に好きな人がいたようなのです。私、マリーナ・クレールは婚約破棄をしました。
彼の事は覚えていませんので私の事は気にしないで下さい。
誤字脱字があります。更新が不定期ですがよろしくお願いします。
殿下の婚約者は、記憶喪失です。
有沢真尋
恋愛
王太子の婚約者である公爵令嬢アメリアは、いつも微笑みの影に疲労を蓄えているように見えた。
王太子リチャードは、アメリアがその献身を止めたら烈火の如く怒り狂うのは想像に難くない。自分の行動にアメリアが口を出すのも絶対に許さない。たとえば結婚前に派手な女遊びはやめて欲しい、という願いでさえも。
たとえ王太子妃になれるとしても、幸せとは無縁そうに見えたアメリア。
彼女は高熱にうなされた後、すべてを忘れてしまっていた。
※ざまあ要素はありません。
※表紙はかんたん表紙メーカーさま
私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ
みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。
婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。
これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。
愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。
毎日20時30分に投稿
[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜
h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」
二人は再び手を取り合うことができるのか……。
全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)
婚約破棄をしておけば
あんど もあ
ファンタジー
王太子アントワーヌの婚約者のレアリゼは、アントワーヌに嫌われていた。男を立てぬ女らしくないレアリゼが悪い、と皆に思われて孤立無援なレアリゼ。彼女は報われぬままひたすら国のために働いた……と思われていたが実は……。
好きでした、婚約破棄を受け入れます
たぬきち25番
恋愛
シャルロッテ子爵令嬢には、幼い頃から愛し合っている婚約者がいた。優しくて自分を大切にしてくれる婚約者のハンス。彼と結婚できる幸せな未来を、心待ちにして努力していた。ところがそんな未来に暗雲が立ち込める。永遠の愛を信じて、傷つき、涙するシャルロッテの運命はいかに……?
※十章を改稿しました。エンディングが変わりました。
殿下、もう何もかも手遅れです
魚谷
恋愛
偉大なる国王が崩御した。
葬儀の場で、王太子アドルフォスは、父王が病床にいるのを良いことに国を思うがままにしようとする、婚約者である公爵令嬢ロザリンデと、その父である宰相を断罪しようと決意する。
全ては自分が次の王に相応しいことを、その場にいる全ての貴族たちに示すため。
アドルフォスは自分の勝利を信じて疑わなかった。
自分には、麗しい子爵令嬢で、数百年に一度生まれる聖女の力に覚醒したエレインという心強い味方がいるのだから。
勝利は揺るぎないはずだった……そう、アドルフォスの頭の中では。
これはひとつの国の終わりの物語。
★他のサイトにも掲載しております
★13000字程度でサクッとお読み頂けます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる