婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第7章|護衛騎士アデル

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 王宮の裏側は、朝から息をつく暇がなかった。

 厨房から運び出される籠。洗濯場で乾く白いリネン。廊下を行き交う侍女たちの足音。
 誰かが短く指示を飛ばし、誰かが「はい」と即答する。
 ここには、舞踏会の甘い音楽も、綺麗な嘘もない。

 あるのは、働く音だけ。

 セシリアは両腕で籠を抱え、慎重に石の回廊を歩いていた。
 新しい名札が胸元で小さく揺れている。金属の冷たさが、まだ肌に馴染まない。

 籠の中には、折りたたまれたテーブルクロスと銀器磨き用の布、少量の食器。
 重くはない。けれど視界が塞がれるのが厄介だった。

(……落としたら、初日で終わる)

 自分に言い聞かせるように息を整え、角を曲がる。

 その時だった。

 反対側の通路から、背の高い侍従が急いで飛び出してきた。腕には大きな木箱。
 互いに、避けるタイミングが遅れる。

「――っ!」

 セシリアは咄嗟に身を引こうとした。
 だが床は磨き上げられて滑りやすい。靴底がわずかに滑り、重心が前へ崩れる。

 籠が傾いた。
 銀器が、かすかに鳴った。

(落ちる――)

 そう思った瞬間、空気が切れる音がした。

 誰かの腕が、セシリアの背中を支えた。
 もう片方の手が、籠の底を確かに受け止める。

 籠は落ちない。
 銀器も鳴らない。

 セシリアの身体だけが、衝撃の余韻で小さく震えた。

「大丈夫ですか」

 低い声が、耳元に落ちた。

 振り返ると、そこにいたのは騎士だった。

 銀の甲冑ではない。普段着に近い軽装。けれど肩から腰へ走る装具や、腰に下げた剣が、彼が“戦う人間”だと示している。

 髪は落ち着いた灰茶。短く整えられていて、目は真っ直ぐ。
 何より、その眼差しが柔らかかった。

 ――護衛騎士。

 セシリアは一瞬だけ息を忘れた。
 剣の匂いと革の匂い。冷えた鉄の気配。
 それがなぜか、昨夜の痛みを連れてくる。胸がきゅっと鳴る。

「……す、すみません」

 慌てて頭を下げる。籠を抱え直そうとするが、指が少し震えている。

 騎士は微かに眉を寄せた。

「謝るのは俺の方です。急ぎすぎました」

 言いながら、彼は素早く周囲を見回した。
 事故の元になった侍従に、落ち着いた声で注意を飛ばす。

「次からは曲がり角で速度を落として。怪我人が出る」

「……っ、申し訳ありません!」

 侍従は青ざめて去っていく。

 残されたのは、セシリアと騎士だけ。

 騎士はセシリアの籠を見た。

「運び物ですね。行き先は?」

 セシリアは一瞬迷った。
 侍女としての立場なら、騎士に荷を預けるのは申し訳ない。
 けれど、手がまだ震えている。

「……西棟の配膳室へ」

「なら、そこまで一緒に行きましょう。落としたら大変だ」

 さりげない言い方。
 拒めない優しさ。
 その“当たり前の気遣い”が、今のセシリアには胸に沁みた。

 セシリアが小さく頷くと、騎士は籠を持とうとはしなかった。
 代わりに、籠が揺れないように歩幅を合わせ、セシリアの横に立つ。

 護衛とは、こういうものなのだろうか。
 守る、という行為が、相手を支配することではなく、相手の歩調を崩さないことだと。

 回廊を歩きながら、騎士が言った。

「新しい侍女の方ですか。名札がまだ新しい」

 セシリアは名札に指先を当てた。冷たい金属。
 それを見て胸が痛むのは、もう慣れない。

「はい……今日からです」

「そうですか」

 騎士は微笑んだ。
 その笑みが、作り物ではない。
 王宮の表側にはない温度が、そこにあった。

「ここは慣れるまで大変でしょう。裏側の動きは早いから」

 セシリアは返事をしようとして、ふと自分の声が震えていることに気づいた。
 驚きでも恐怖でもない。
 “人に優しくされること”に、慣れていない震え。

「……騎士様は、どうしてここに?」

「護衛の交代で巡回です。侍女の方々も守る範囲に入りますから」

 それを当たり前のように言う。

 守る。
 その言葉が、セシリアの胸を刺した。

 ――守るために、捨てた。
 そんな矛盾を、どこかで聞いた気がする。

 セシリアは眉をひそめ、頭を軽く振った。
 思い出そうとすると痛みが増す。今はまだ、触れてはいけない。

 配膳室の手前で、先輩侍女フローラがこちらに気づいた。

「あら、セシリア。もう運び終わったの?」

 フローラの声は明るく、そして少しだけ驚きを含む。
 隣の騎士の存在に気づいたからだ。

 騎士は軽く礼をした。

「通路で危ないところだったので、ここまで同行しました」

 フローラはぱっと表情を和らげる。

「助かったわ。ありがとう。――ええと、あなたは……」

「アデルです。近衛の護衛任務で」

 アデル。
 その名がセシリアの胸の中にすっと入った。

 覚えやすい。
 柔らかくて、真っ直ぐで、温かい名前。

 フローラはにこりと笑う。

「アデル様ね。覚えたわ。うちの新人がまた迷惑を――」

「迷惑じゃありません」

 アデルはきっぱり言った。
 けれど声音は柔らかい。

 その一言に、セシリアの目の奥が熱くなる。

 迷惑じゃない。
 存在していい。
 邪魔じゃない。

 伯爵家では、舞踏会では、そんな言葉は一度ももらえなかった。

 セシリアは慌てて視線を落とした。
 泣くな。今はまだ、泣いたら崩れる。

 アデルはセシリアの顔色を見て、気づいたように声を低くした。

「……無理をしすぎないでください。顔が少し白い」

 セシリアは小さく笑おうとした。
 うまく笑えない。
 それでも、口元だけが少し動く。

「……ありがとうございます」

 言った瞬間、自分でも驚くほど胸がほどけた。

 “ありがとう”が、こんなに温かい言葉だったなんて。

 アデルは軽く頷き、配膳室の扉の前で立ち止まった。

「では、俺は任務に戻ります」

 去り際に、彼はセシリアへもう一度だけ目を向けた。
 その目に、同情はない。
 憐れみもない。
 ただ、真っ直ぐな気遣いがある。

「困ったことがあれば、廊下の巡回の者に声をかけてください。……俺でもいい」

 セシリアは息を呑む。
 胸がきゅっとなる。痛みではなく、温かい締めつけ。

「はい」

 返事をする自分の声が、少し明るいのに気づいて、セシリアは戸惑った。

 アデルが去っていく背中を見送りながら、フローラが小声で囁く。

「優しい騎士様ね」

 セシリアは何も言えず、ただ名札に触れた。

 冷たい金属の先に、今日初めて――
 小さな温度が宿った気がした。

 配膳室の中へ入る前、セシリアは思わず唇の端を上げた。

 ほんの一瞬。
 ほんの少し。

 ――自分でも驚くほど、自然な笑みだった。

 その笑みを、王宮のどこかの高い位置から、冷たい視線が見ていたことを。

 セシリアはまだ、知らない。




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