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第6章|守るための配置換え
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王宮の表側は、昨夜の舞踏会などなかったかのように整っていた――。
……その“整い”の中で、レイヴンの執務室だけが、微かに息苦しい。
机の上に積まれた報告書の角を、レイヴンは指先で押さえていた。
拳にしてしまえば、紙が裂ける。
裂けたところで、何も戻らない。
ノック。
「殿下。近衛隊長ガイルです」
「入れ」
ガイルが入室し、一礼すると同時に、封のついた薄い書類を差し出した。
いつも通りの所作。いつも通りの無表情。
だが、いつもより声が一段低い。
「侍女長マルタより、“新規採用者リスト”が上がりました」
その言葉で、室内の空気が一瞬だけ止まった。
レイヴンは受け取らない。
受け取らずに、視線だけで封を見た。
(……来たか)
ガイルが続ける。
「配属導線の警備共有として、近衛詰所に回ってきたものです。姓未登録が一名。配属は厨房補助――西棟配膳室導線」
説明の仕方が、すでに答えを含んでいる。
ガイルは“察している”。
そして殿下に“突きつけている”。
レイヴンの喉が、小さく鳴った。
「……名前は」
声が、王太子の声のまま出たのが、自分でも分かった。
冷たく、平らで、感情を隠す声。
ガイルは一拍置く。
それが、唯一の躊躇だった。
「……セシリア、です」
その二音で、胸の奥がひどく痛んだ。
――セシリア。
名前だけなら何度も呼んできた。
口にするたびに胸が温かくなる、はずだった。
それなのに今は、胸の内側を鋭く削る。
ガイルが、封を切らずに言う。
「姓は伏せられています。マルタ殿の判断でしょう。ですが……殿下が昨日命じられた“安全区域”の導線に、同名の新規採用者が入っています」
同名、ではない。
――本人だ。
レイヴンには分かる。
“伯爵家の娘”が侍女になるなど、普通は起きない。
それが起きた理由も、分かる。
逃げるためではない。
檻に入るためでもない。
あの女は、折られても立とうとする。
(……自分の足で、生きるのか)
胸の奥が、誇らしさと痛みで混ざり、息が詰まる。
レイヴンは右鎖骨に指を当てた。
古傷を押さえる癖。
感情を止めるための癖。
ガイルは視線を落としたまま、淡々と報告を続ける。
「採用決裁は本日付。名簿はすでに近衛内で共有されました。必要なら、こちらで“噂の導線”を遮断します」
遮断。
それは守りになる。
同時に、監視にもなる。
レイヴンは短く息を吐き、言った。
「……近衛内で、彼女の名を口にするな」
「は」
「詮索も禁止だ。姓が伏せられている以上、そこに踏み込むな」
「承知しました」
ガイルは即答した。
だが、その即答の裏に、“殿下が壊れないための配慮”があるのを、レイヴンは感じ取ってしまう。
――壊れているのは、自分だ。
忘れられた瞬間、壊れた。
そして今、彼女が王宮で働き始めたと知って、さらに壊れかけている。
レイヴンは、ようやく書類を受け取った。
封を切る指が一瞬だけ止まる。
そこに書かれているのは、ただの名簿のはずだ。
けれど自分にとっては、彼女の“生存証明”だ。
――生きている。自分のいない場所で。
封を切り、目を走らせる。
『セシリア(姓未登録)/配属:厨房補助→西棟配膳室導線』
文字は冷たい。
だが、レイヴンの胸の奥にだけ、熱が灯った。
(……会うな)
会えば、守れなくなる。
会えば、思い出させてしまうかもしれない。
思い出した瞬間、封印が揺れる。
だからこそ――
レイヴンは紙を伏せ、声を硬くした。
「……配置換えは予定通りだ。西棟へ。警備を厚くする」
ガイルが頷く。
「殿下」
「何だ」
「……彼女は、“守られている”ことを知りません」
その一言が、胸に刺さった。
知っていれば、泣かずに済んだ。
知っていれば、誤解しなかった。
けれど知れば、殺される。
レイヴンは答えない。
答えられない。
ただ、王太子の仮面のまま言う。
「……知らなくていい」
レイヴンは小さく呟いた。
「――生きろ、セシリア」
それは命令ではなく、
届かない場所へ落とした、祈りだった。
「昨夜の件、城内の噂は広がり始めています。侍女区画にも影響が出るでしょう」
「……広げるな」
レイヴンの声は冷たい。
しかしそれは怒りではなく、恐怖を押し殺した冷たさだった。
「は。可能な限り封じます。ただ――」
ガイルは躊躇った。
王太子に言いにくいことほど、報告は必要だ。
「セシリア嬢の件です。医官ユーリより、失神は精神的衝撃だけではない可能性があると」
レイヴンの瞳が一瞬、鋭くなる。
「……どういう意味だ」
「記憶の欠落。特定の人物――殿下、あなたに関する記憶だけが抜けている可能性がある、と」
言葉が落ちた瞬間、室内の温度が下がったように感じた。
レイヴンは頷かない。否定もしない。
ただ、机の角を指で押さえた。
拳にしないために、抑えるように。
(やはり……)
彼女は、忘れた。
忘れてしまった。
――守るために起こしたことが、想像以上の代償を払わせた。
だが、記憶が抜けたのは“偶然”ではない。
医官が知らないだけで、王太子は知っている。
セシリアの血。
王宮に古くから結ばれた“封印契約”。
そして――思い出した瞬間に狙われる、危険。
彼女が彼を思い出せば、封印が揺れる。
封印が揺れれば、黒幕が動く。
その黒幕が誰かも、レイヴンは薄々掴んでいた。
だからこそ――
「配置を変える」
レイヴンは言った。
短く、命令として。
ガイルが目を上げる。
「侍女区画ですか?」
「そうだ。……彼女を“安全区域”へ置け」
ガイルは一瞬だけためらった。
安全区域――それは王族に近い場所だ。警備が厚い。
同時に、視線も集まる。噂も増える。
「殿下、王族区域に近づければ逆に目立ちます。噂の餌になります」
レイヴンの唇が、わずかに歪んだ。
「目立つのは構わない。……殺されるよりは」
ガイルが息を呑む。
その言葉に含まれる“事情”を、隊長は理解しきれない。
だが理解できなくても、忠誠がある。
「承知しました。具体的にはどの区画へ?」
レイヴンは一拍置いた。
王宮内には、外部の者が近づけない区画がある。
祈祷室の奥。王家の古い紋章が刻まれた回廊。
そこは警備が厚い。
同時に、“封印”に近い。
近づけすぎれば危険。
離しすぎれば護れない。
矛盾の中で、最も歪みが少ない場所を、レイヴンは選ぶ。
「西棟、第二回廊の配膳室と、厨房補助の導線に入れろ。侍女長マルタの管轄だ」
「……マルタ殿なら口は堅いでしょう」
「余計な情は持たない。だからいい」
レイヴンの声は、どこまでも冷静だった。
冷静であることが、彼の生存戦略だった。
ガイルが頷き、次の報告へ移ろうとした瞬間――
扉が再びノックされた。
「殿下。枢機卿バルド様がお見えです」
レイヴンの瞳が細くなる。
「……通せ」
入ってきたのは、枢機卿バルドだった。
黒衣の裾が床を滑り、胸元の聖印が光を反射する。
笑みは柔らかいのに、目は獲物を数えるように冷たい。
「王太子殿下。昨夜のご決断、誠に勇敢でしたな」
褒め言葉に見せた棘。
レイヴンは返礼の笑みすら浮かべない。
「要件は」
バルドは肩をすくめた。
「聖女候補リディア殿が、殿下のご厚意に深く感謝しております。……彼女は今、王宮での保護を望んでおります」
レイヴンの心臓が、冷たい音を立てた。
(来たか)
リディアを王宮の中心に置けば、権威は強化される。
そしてセシリアへの圧力は増す。
黒幕の都合が良くなる。
レイヴンは答えを曖昧にしない。
「……保護は王宮の判断だ。国王陛下の許可なく決まらない」
バルドは微笑んだ。
「ええ、もちろん。陛下も“清廉な聖女”を歓迎されるでしょう。……ところで」
バルドの視線が、机の上の紙へ落ちる。
『記憶に異常の兆候』の文字。
レイヴンの指先が微かに動く。紙を伏せるには遅い。
だがバルドは気づいたふりをしない。
気づいていないはずがないのに。
「セシリア嬢の容体はいかがですかな。……罪を犯した者ほど、弱い。心を病むのは当然です」
優しい言葉の形をした、毒。
レイヴンの琥珀の瞳が、氷のように冷える。
「……心配は不要だ」
バルドは頷いた。
「ならば安心。……罪人の扱いには慎重を。王宮の浄化のために」
浄化。
その言葉に、レイヴンは吐き気を覚えた。
誰が、誰を浄化するというのか。
ガイルが一歩前に出る。
「枢機卿。殿下はご多忙です。要件が済んだなら――」
バルドは軽く笑って、一礼した。
「失礼。では、また」
枢機卿が去る。
扉が閉まった瞬間、レイヴンは息を吐いた。
深く、重く。
肺の奥に溜まっていた毒を吐き出すように。
ガイルが低い声で言う。
「……殿下。枢機卿は気づいています。セシリア嬢の“異常”に」
「だから急ぐ」
レイヴンは言った。
机の上の紙を掴み、握り潰しそうになるのを堪える。
「彼女を守るための配置換えだ。今日中に手配しろ」
「は」
ガイルは即答し、踵を返す。
扉へ向かう直前、彼は一度だけ振り返った。
「殿下……」
「何だ」
「……彼女を守るために、殿下が“悪役”を背負われたことは、俺も理解しています。ですが」
ガイルの声がわずかに揺れる。
「殿下ご自身が壊れかけている」
レイヴンは返事をしなかった。
壊れている。
それは、昨夜から分かっていた。
――いや、もっと前からだ。
守るために捨てた。
捨てたはずなのに、忘れられた瞬間、失ったものの大きさを思い知らされた。
ガイルが去り、部屋に一人になる。
レイヴンは窓の外を見た。
王宮の中庭。
光が降り、侍女たちが小さく動いている。
その中に、彼女が入る。
今日か明日か――彼が命じた通り、配置が変わる。
近づけない。
でも、視界の中には置いておきたい。
矛盾が、胸を裂く。
レイヴンは低く呟いた。
「……忘れたままでいろ」
それは命令ではなく、祈りだった。
思い出せば、彼女は狙われる。
思い出さなければ、二人は永遠に届かない。
――それでも、彼女が生きる方を選ぶ。
王太子は、自分の心臓を切り捨てるように、静かに目を閉じた。
……その“整い”の中で、レイヴンの執務室だけが、微かに息苦しい。
机の上に積まれた報告書の角を、レイヴンは指先で押さえていた。
拳にしてしまえば、紙が裂ける。
裂けたところで、何も戻らない。
ノック。
「殿下。近衛隊長ガイルです」
「入れ」
ガイルが入室し、一礼すると同時に、封のついた薄い書類を差し出した。
いつも通りの所作。いつも通りの無表情。
だが、いつもより声が一段低い。
「侍女長マルタより、“新規採用者リスト”が上がりました」
その言葉で、室内の空気が一瞬だけ止まった。
レイヴンは受け取らない。
受け取らずに、視線だけで封を見た。
(……来たか)
ガイルが続ける。
「配属導線の警備共有として、近衛詰所に回ってきたものです。姓未登録が一名。配属は厨房補助――西棟配膳室導線」
説明の仕方が、すでに答えを含んでいる。
ガイルは“察している”。
そして殿下に“突きつけている”。
レイヴンの喉が、小さく鳴った。
「……名前は」
声が、王太子の声のまま出たのが、自分でも分かった。
冷たく、平らで、感情を隠す声。
ガイルは一拍置く。
それが、唯一の躊躇だった。
「……セシリア、です」
その二音で、胸の奥がひどく痛んだ。
――セシリア。
名前だけなら何度も呼んできた。
口にするたびに胸が温かくなる、はずだった。
それなのに今は、胸の内側を鋭く削る。
ガイルが、封を切らずに言う。
「姓は伏せられています。マルタ殿の判断でしょう。ですが……殿下が昨日命じられた“安全区域”の導線に、同名の新規採用者が入っています」
同名、ではない。
――本人だ。
レイヴンには分かる。
“伯爵家の娘”が侍女になるなど、普通は起きない。
それが起きた理由も、分かる。
逃げるためではない。
檻に入るためでもない。
あの女は、折られても立とうとする。
(……自分の足で、生きるのか)
胸の奥が、誇らしさと痛みで混ざり、息が詰まる。
レイヴンは右鎖骨に指を当てた。
古傷を押さえる癖。
感情を止めるための癖。
ガイルは視線を落としたまま、淡々と報告を続ける。
「採用決裁は本日付。名簿はすでに近衛内で共有されました。必要なら、こちらで“噂の導線”を遮断します」
遮断。
それは守りになる。
同時に、監視にもなる。
レイヴンは短く息を吐き、言った。
「……近衛内で、彼女の名を口にするな」
「は」
「詮索も禁止だ。姓が伏せられている以上、そこに踏み込むな」
「承知しました」
ガイルは即答した。
だが、その即答の裏に、“殿下が壊れないための配慮”があるのを、レイヴンは感じ取ってしまう。
――壊れているのは、自分だ。
忘れられた瞬間、壊れた。
そして今、彼女が王宮で働き始めたと知って、さらに壊れかけている。
レイヴンは、ようやく書類を受け取った。
封を切る指が一瞬だけ止まる。
そこに書かれているのは、ただの名簿のはずだ。
けれど自分にとっては、彼女の“生存証明”だ。
――生きている。自分のいない場所で。
封を切り、目を走らせる。
『セシリア(姓未登録)/配属:厨房補助→西棟配膳室導線』
文字は冷たい。
だが、レイヴンの胸の奥にだけ、熱が灯った。
(……会うな)
会えば、守れなくなる。
会えば、思い出させてしまうかもしれない。
思い出した瞬間、封印が揺れる。
だからこそ――
レイヴンは紙を伏せ、声を硬くした。
「……配置換えは予定通りだ。西棟へ。警備を厚くする」
ガイルが頷く。
「殿下」
「何だ」
「……彼女は、“守られている”ことを知りません」
その一言が、胸に刺さった。
知っていれば、泣かずに済んだ。
知っていれば、誤解しなかった。
けれど知れば、殺される。
レイヴンは答えない。
答えられない。
ただ、王太子の仮面のまま言う。
「……知らなくていい」
レイヴンは小さく呟いた。
「――生きろ、セシリア」
それは命令ではなく、
届かない場所へ落とした、祈りだった。
「昨夜の件、城内の噂は広がり始めています。侍女区画にも影響が出るでしょう」
「……広げるな」
レイヴンの声は冷たい。
しかしそれは怒りではなく、恐怖を押し殺した冷たさだった。
「は。可能な限り封じます。ただ――」
ガイルは躊躇った。
王太子に言いにくいことほど、報告は必要だ。
「セシリア嬢の件です。医官ユーリより、失神は精神的衝撃だけではない可能性があると」
レイヴンの瞳が一瞬、鋭くなる。
「……どういう意味だ」
「記憶の欠落。特定の人物――殿下、あなたに関する記憶だけが抜けている可能性がある、と」
言葉が落ちた瞬間、室内の温度が下がったように感じた。
レイヴンは頷かない。否定もしない。
ただ、机の角を指で押さえた。
拳にしないために、抑えるように。
(やはり……)
彼女は、忘れた。
忘れてしまった。
――守るために起こしたことが、想像以上の代償を払わせた。
だが、記憶が抜けたのは“偶然”ではない。
医官が知らないだけで、王太子は知っている。
セシリアの血。
王宮に古くから結ばれた“封印契約”。
そして――思い出した瞬間に狙われる、危険。
彼女が彼を思い出せば、封印が揺れる。
封印が揺れれば、黒幕が動く。
その黒幕が誰かも、レイヴンは薄々掴んでいた。
だからこそ――
「配置を変える」
レイヴンは言った。
短く、命令として。
ガイルが目を上げる。
「侍女区画ですか?」
「そうだ。……彼女を“安全区域”へ置け」
ガイルは一瞬だけためらった。
安全区域――それは王族に近い場所だ。警備が厚い。
同時に、視線も集まる。噂も増える。
「殿下、王族区域に近づければ逆に目立ちます。噂の餌になります」
レイヴンの唇が、わずかに歪んだ。
「目立つのは構わない。……殺されるよりは」
ガイルが息を呑む。
その言葉に含まれる“事情”を、隊長は理解しきれない。
だが理解できなくても、忠誠がある。
「承知しました。具体的にはどの区画へ?」
レイヴンは一拍置いた。
王宮内には、外部の者が近づけない区画がある。
祈祷室の奥。王家の古い紋章が刻まれた回廊。
そこは警備が厚い。
同時に、“封印”に近い。
近づけすぎれば危険。
離しすぎれば護れない。
矛盾の中で、最も歪みが少ない場所を、レイヴンは選ぶ。
「西棟、第二回廊の配膳室と、厨房補助の導線に入れろ。侍女長マルタの管轄だ」
「……マルタ殿なら口は堅いでしょう」
「余計な情は持たない。だからいい」
レイヴンの声は、どこまでも冷静だった。
冷静であることが、彼の生存戦略だった。
ガイルが頷き、次の報告へ移ろうとした瞬間――
扉が再びノックされた。
「殿下。枢機卿バルド様がお見えです」
レイヴンの瞳が細くなる。
「……通せ」
入ってきたのは、枢機卿バルドだった。
黒衣の裾が床を滑り、胸元の聖印が光を反射する。
笑みは柔らかいのに、目は獲物を数えるように冷たい。
「王太子殿下。昨夜のご決断、誠に勇敢でしたな」
褒め言葉に見せた棘。
レイヴンは返礼の笑みすら浮かべない。
「要件は」
バルドは肩をすくめた。
「聖女候補リディア殿が、殿下のご厚意に深く感謝しております。……彼女は今、王宮での保護を望んでおります」
レイヴンの心臓が、冷たい音を立てた。
(来たか)
リディアを王宮の中心に置けば、権威は強化される。
そしてセシリアへの圧力は増す。
黒幕の都合が良くなる。
レイヴンは答えを曖昧にしない。
「……保護は王宮の判断だ。国王陛下の許可なく決まらない」
バルドは微笑んだ。
「ええ、もちろん。陛下も“清廉な聖女”を歓迎されるでしょう。……ところで」
バルドの視線が、机の上の紙へ落ちる。
『記憶に異常の兆候』の文字。
レイヴンの指先が微かに動く。紙を伏せるには遅い。
だがバルドは気づいたふりをしない。
気づいていないはずがないのに。
「セシリア嬢の容体はいかがですかな。……罪を犯した者ほど、弱い。心を病むのは当然です」
優しい言葉の形をした、毒。
レイヴンの琥珀の瞳が、氷のように冷える。
「……心配は不要だ」
バルドは頷いた。
「ならば安心。……罪人の扱いには慎重を。王宮の浄化のために」
浄化。
その言葉に、レイヴンは吐き気を覚えた。
誰が、誰を浄化するというのか。
ガイルが一歩前に出る。
「枢機卿。殿下はご多忙です。要件が済んだなら――」
バルドは軽く笑って、一礼した。
「失礼。では、また」
枢機卿が去る。
扉が閉まった瞬間、レイヴンは息を吐いた。
深く、重く。
肺の奥に溜まっていた毒を吐き出すように。
ガイルが低い声で言う。
「……殿下。枢機卿は気づいています。セシリア嬢の“異常”に」
「だから急ぐ」
レイヴンは言った。
机の上の紙を掴み、握り潰しそうになるのを堪える。
「彼女を守るための配置換えだ。今日中に手配しろ」
「は」
ガイルは即答し、踵を返す。
扉へ向かう直前、彼は一度だけ振り返った。
「殿下……」
「何だ」
「……彼女を守るために、殿下が“悪役”を背負われたことは、俺も理解しています。ですが」
ガイルの声がわずかに揺れる。
「殿下ご自身が壊れかけている」
レイヴンは返事をしなかった。
壊れている。
それは、昨夜から分かっていた。
――いや、もっと前からだ。
守るために捨てた。
捨てたはずなのに、忘れられた瞬間、失ったものの大きさを思い知らされた。
ガイルが去り、部屋に一人になる。
レイヴンは窓の外を見た。
王宮の中庭。
光が降り、侍女たちが小さく動いている。
その中に、彼女が入る。
今日か明日か――彼が命じた通り、配置が変わる。
近づけない。
でも、視界の中には置いておきたい。
矛盾が、胸を裂く。
レイヴンは低く呟いた。
「……忘れたままでいろ」
それは命令ではなく、祈りだった。
思い出せば、彼女は狙われる。
思い出さなければ、二人は永遠に届かない。
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