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第8章|偽聖女の勝ち誇り
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王宮の裏側にも、噂は降る。
表の社交界のように香水で包まれてはいない。
けれど裏側の噂は、油のように早く、床の隙間にまで染み込む。
セシリアが配膳室へ向かう途中、いつもより視線が刺さるのを感じた。
廊下をすれ違う侍女が、わざと声を落として囁く。
掃除の手を止め、背中越しに見てくる。
――気づかないふりをしろ。侍女長マルタの言葉が蘇る。
(……見ない。聞かない。働く)
そう自分に言い聞かせ、足を止めない。
それでも胸の奥が冷えるのは、昨夜の断罪がまだ皮膚の下に残っているからだ。
配膳室の扉を押し開けた瞬間、いつもより空気が固まっていることに気づいた。
数人の侍女が集まっている。
その中心に、ひときわ目立つ白い衣装――聖女候補が身につける、清廉の色。
リディア・ルミナス。
光を集めるような存在感で、彼女はそこにいた。
薄い微笑。潤んだ瞳。白い指先が胸元に添えられ、いかにも“儚く傷ついた少女”の仕草。
セシリアの喉が、ひゅっと鳴った。
(……どうして、ここに)
王宮の裏側に、聖女候補が来るのは珍しい。
ましてや、配膳室など。
リディアの視線が、セシリアを捉える。
その瞬間だけ、彼女の瞳が――笑った。
ほんの一瞬。誰にも気づかれないほど短い。
だが確かに、“勝者”の光がそこにあった。
「……まあ」
リディアは小さく息を呑み、わざとらしく頬を青く見せる。
「セシリア様……」
名前を呼ばれるだけで、周囲の侍女たちの視線が一斉に集まった。
噂はもう共有されている。
“罪人の令嬢が侍女に落ちた”という形で、面白おかしく。
セシリアは膝を折って礼をした。
礼儀だけが、盾になる。
「聖女候補殿下。お目にかかれて光栄です」
声は震えなかった。
自分でも驚くほど、静かだった。
リディアは一歩近づいた。香りがする。白い花の甘い香り。
胸がむっとするほど優しい匂い。
「……おやめください。私は“殿下”などではありません。ただの候補です。そんなふうに呼ばれたら、恐ろしい方々に叱られてしまいます」
控えめな言葉。謙虚な笑み。
周囲の侍女が「なんてお優しい」と囁く空気。
セシリアは目を上げない。
上げたら、勝った顔を見てしまう。
リディアは、わざと声を震わせた。
「……それに、私は……あなたが怖いのです」
空気が凍った。
配膳室の侍女たちが息を呑む。
誰かが口を押さえる。
誰かがセシリアを見て眉をひそめる。
セシリアの胸が、ぎゅっと痛んだ。
(怖い……?)
怖がられているのは、こちらのはずだ。
でも“怖い”と言われた方が、悪者になる。
それが世の中の仕組みだと、昨夜学んだばかりだ。
セシリアは静かに答えた。
「そのようなことは……」
「いいえ……っ」
リディアは首を振り、涙を滲ませた。
まるで、過去の恐怖が蘇ったように。
「私……あなたに、何度も……」
言葉を濁す。
濁すことで、想像を膨らませる。
想像の中では、セシリアはどこまでも残酷になれる。
侍女たちの空気が、ざわりと波立った。
そこへ――鋭い声が割って入る。
「……やっぱり、そうだったのね」
振り向くと、同期侍女イヴがいた。
視線は冷たく、口元に薄い笑み。
「侍女長が“過去を詮索するな”って言った時から変だと思ってたの。貴族が侍女になるって、普通じゃないもの」
その言葉に、周囲の侍女が頷く。
リネットが困ったように視線を揺らす。
フローラが眉を寄せ、口を開こうとするが――空気がそれを許さない。
リディアは涙を拭うふりをして、静かに言った。
「……私は、争いたくないのです。王宮の皆さまに迷惑をかけたくない。ただ……」
視線が、セシリアの名札へ落ちる。
「……あなたがここにいるだけで、私は……息が苦しい」
嘘だ。
だが、それを否定する言葉はない。
否定すればするほど、“追い詰める悪役”になる。
セシリアはゆっくりと顔を上げた。
灰青の瞳が、リディアを真正面から捉える。
涙に濡れていない、透明な目。
「……なら、私は離れます」
リディアの涙が、一瞬だけ止まりかけた。
想定外の返答だったのだろう。
しかし彼女はすぐに立て直し、弱々しく首を振る。
「そんな……。私のせいで、あなたが……」
――違う。
あなたのせいで私は落とされた。
あなたのせいで、ここにいる。
でもセシリアは言わない。
言っても勝てない場所だと、分かっている。
セシリアは礼をした。
「失礼いたします」
踵を返す。
背中に刺さる視線。
「やっぱり」「怖い」「かわいそうなリディア様」
囁きが針になる。
扉の前で、フローラが追いすがってきた。
「セシリア、待って――」
セシリアは小さく首を振った。
今、フローラが庇えば、フローラまで燃やされる。
「大丈夫です。……仕事、戻ります」
声が掠れそうになるのを、歯を食いしばって押し込める。
廊下へ出た瞬間、セシリアは息を吐いた。
肺の奥の空気が重い。
それでも足を止めない。
止めたら、崩れる。
遠くで、リディアの声が聞こえた。
「……ありがとうございます、皆さま。私は、ただ……穏やかに過ごしたいだけなのです」
穏やか。
その言葉の裏で、誰かを踏みにじる穏やか。
セシリアは回廊を曲がり、柱の影に身を寄せた。
胸の奥が痛い。
喉が焼ける。
泣きたくなる。
けれど泣かない。
泣いたら負ける。
泣いたら、あの涙に飲まれる。
セシリアは名札を握りしめた。
金属が掌に食い込む。
(……私は、ここで生きる)
その誓いの直後、背後から低い声がした。
「……今の、見ていました」
振り向くと、侍女服姿の女性が立っていた。
薬草係の侍女サラ。柔らかな表情の奥に、冷静な目を持つ人。
サラは小さく息を吐いた。
「……あの方は、上手いですね。泣き方も、言葉の選び方も」
セシリアは返事ができなかった。
サラは続ける。
「胸が痛むでしょう。……今夜、薬草茶を持って行きます。無理をしないで」
セシリアは、ようやく小さく頷いた。
ありがとう、と言えないまま。
その背後――さらに遠い場所。
高い回廊の上から、誰かが静かにこの一部始終を見下ろしていたことを、セシリアはまだ知らない。
琥珀の瞳が、冷たく光を失いながら――
確かに、壊れていくのを。
表の社交界のように香水で包まれてはいない。
けれど裏側の噂は、油のように早く、床の隙間にまで染み込む。
セシリアが配膳室へ向かう途中、いつもより視線が刺さるのを感じた。
廊下をすれ違う侍女が、わざと声を落として囁く。
掃除の手を止め、背中越しに見てくる。
――気づかないふりをしろ。侍女長マルタの言葉が蘇る。
(……見ない。聞かない。働く)
そう自分に言い聞かせ、足を止めない。
それでも胸の奥が冷えるのは、昨夜の断罪がまだ皮膚の下に残っているからだ。
配膳室の扉を押し開けた瞬間、いつもより空気が固まっていることに気づいた。
数人の侍女が集まっている。
その中心に、ひときわ目立つ白い衣装――聖女候補が身につける、清廉の色。
リディア・ルミナス。
光を集めるような存在感で、彼女はそこにいた。
薄い微笑。潤んだ瞳。白い指先が胸元に添えられ、いかにも“儚く傷ついた少女”の仕草。
セシリアの喉が、ひゅっと鳴った。
(……どうして、ここに)
王宮の裏側に、聖女候補が来るのは珍しい。
ましてや、配膳室など。
リディアの視線が、セシリアを捉える。
その瞬間だけ、彼女の瞳が――笑った。
ほんの一瞬。誰にも気づかれないほど短い。
だが確かに、“勝者”の光がそこにあった。
「……まあ」
リディアは小さく息を呑み、わざとらしく頬を青く見せる。
「セシリア様……」
名前を呼ばれるだけで、周囲の侍女たちの視線が一斉に集まった。
噂はもう共有されている。
“罪人の令嬢が侍女に落ちた”という形で、面白おかしく。
セシリアは膝を折って礼をした。
礼儀だけが、盾になる。
「聖女候補殿下。お目にかかれて光栄です」
声は震えなかった。
自分でも驚くほど、静かだった。
リディアは一歩近づいた。香りがする。白い花の甘い香り。
胸がむっとするほど優しい匂い。
「……おやめください。私は“殿下”などではありません。ただの候補です。そんなふうに呼ばれたら、恐ろしい方々に叱られてしまいます」
控えめな言葉。謙虚な笑み。
周囲の侍女が「なんてお優しい」と囁く空気。
セシリアは目を上げない。
上げたら、勝った顔を見てしまう。
リディアは、わざと声を震わせた。
「……それに、私は……あなたが怖いのです」
空気が凍った。
配膳室の侍女たちが息を呑む。
誰かが口を押さえる。
誰かがセシリアを見て眉をひそめる。
セシリアの胸が、ぎゅっと痛んだ。
(怖い……?)
怖がられているのは、こちらのはずだ。
でも“怖い”と言われた方が、悪者になる。
それが世の中の仕組みだと、昨夜学んだばかりだ。
セシリアは静かに答えた。
「そのようなことは……」
「いいえ……っ」
リディアは首を振り、涙を滲ませた。
まるで、過去の恐怖が蘇ったように。
「私……あなたに、何度も……」
言葉を濁す。
濁すことで、想像を膨らませる。
想像の中では、セシリアはどこまでも残酷になれる。
侍女たちの空気が、ざわりと波立った。
そこへ――鋭い声が割って入る。
「……やっぱり、そうだったのね」
振り向くと、同期侍女イヴがいた。
視線は冷たく、口元に薄い笑み。
「侍女長が“過去を詮索するな”って言った時から変だと思ってたの。貴族が侍女になるって、普通じゃないもの」
その言葉に、周囲の侍女が頷く。
リネットが困ったように視線を揺らす。
フローラが眉を寄せ、口を開こうとするが――空気がそれを許さない。
リディアは涙を拭うふりをして、静かに言った。
「……私は、争いたくないのです。王宮の皆さまに迷惑をかけたくない。ただ……」
視線が、セシリアの名札へ落ちる。
「……あなたがここにいるだけで、私は……息が苦しい」
嘘だ。
だが、それを否定する言葉はない。
否定すればするほど、“追い詰める悪役”になる。
セシリアはゆっくりと顔を上げた。
灰青の瞳が、リディアを真正面から捉える。
涙に濡れていない、透明な目。
「……なら、私は離れます」
リディアの涙が、一瞬だけ止まりかけた。
想定外の返答だったのだろう。
しかし彼女はすぐに立て直し、弱々しく首を振る。
「そんな……。私のせいで、あなたが……」
――違う。
あなたのせいで私は落とされた。
あなたのせいで、ここにいる。
でもセシリアは言わない。
言っても勝てない場所だと、分かっている。
セシリアは礼をした。
「失礼いたします」
踵を返す。
背中に刺さる視線。
「やっぱり」「怖い」「かわいそうなリディア様」
囁きが針になる。
扉の前で、フローラが追いすがってきた。
「セシリア、待って――」
セシリアは小さく首を振った。
今、フローラが庇えば、フローラまで燃やされる。
「大丈夫です。……仕事、戻ります」
声が掠れそうになるのを、歯を食いしばって押し込める。
廊下へ出た瞬間、セシリアは息を吐いた。
肺の奥の空気が重い。
それでも足を止めない。
止めたら、崩れる。
遠くで、リディアの声が聞こえた。
「……ありがとうございます、皆さま。私は、ただ……穏やかに過ごしたいだけなのです」
穏やか。
その言葉の裏で、誰かを踏みにじる穏やか。
セシリアは回廊を曲がり、柱の影に身を寄せた。
胸の奥が痛い。
喉が焼ける。
泣きたくなる。
けれど泣かない。
泣いたら負ける。
泣いたら、あの涙に飲まれる。
セシリアは名札を握りしめた。
金属が掌に食い込む。
(……私は、ここで生きる)
その誓いの直後、背後から低い声がした。
「……今の、見ていました」
振り向くと、侍女服姿の女性が立っていた。
薬草係の侍女サラ。柔らかな表情の奥に、冷静な目を持つ人。
サラは小さく息を吐いた。
「……あの方は、上手いですね。泣き方も、言葉の選び方も」
セシリアは返事ができなかった。
サラは続ける。
「胸が痛むでしょう。……今夜、薬草茶を持って行きます。無理をしないで」
セシリアは、ようやく小さく頷いた。
ありがとう、と言えないまま。
その背後――さらに遠い場所。
高い回廊の上から、誰かが静かにこの一部始終を見下ろしていたことを、セシリアはまだ知らない。
琥珀の瞳が、冷たく光を失いながら――
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