婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第10章|すれ違う廊下

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 翌朝の王宮は、昨夜の涙を一切覚えていない顔をしていた。

 窓から差し込む光は澄み、磨かれた石床は白く眩しい。回廊に漂うのは蝋と洗剤と焼き立てのパンの匂い。
 侍女たちは当たり前のように動き、当たり前のように頭を下げ、当たり前のように笑う。

 ――その「当たり前」に紛れ込めば、昨日の自分を消せる気がした。

 セシリアは胸元の名札を指先で確かめ、息を整えた。
 夜に泣いた痕は、鏡の前で丁寧に隠した。腫れた瞼は冷やし、髪はきちんとまとめ、侍女服の襟元を正す。
 “働く人間”としての姿に戻れば、心も戻る。そう信じたかった。

(大丈夫。今日は泣かない)

 自分に言い聞かせて、トレーを持ち上げる。
 朝の配膳は時間との戦いだ。失敗は許されない。まして噂の種になっている自分なら、なおさら。

 西棟第二回廊――侍女長マルタの言う“安全区域”に繋がる導線へ入ると、空気がほんの少し変わった。
 人の数が減る。
 近衛の気配が増える。
 目に見えない緊張が、糸のように張り巡らされている。

(……ここ、守られている)

 その守りが、自分に向けられているのか。
 ただ王宮の都合なのか。
 分からない。

 分からないまま進む。

 曲がり角の向こうから、鎧の擦れる音が聞こえた。
 金属が動く微かな音。靴音が規則正しく近づく。
 近衛だ。

 セシリアは自然に壁際へ寄り、通路を空ける準備をした。
 礼儀は体に染み付いている。考える前に動ける。

 けれど、次の瞬間――心臓が、唐突に跳ねた。

 香りがしたからだ。

 鉄と革と、淡い香木。
 昨夜、医務室で胸を締め付けた匂い。

(……え)

 目が勝手に上がる。

 回廊の向こうから歩いてきたのは、王太子レイヴンだった。

 漆黒の髪は整えられている。けれど、前髪がわずかに額へ落ちていた。完璧に見せる男の、ほんの僅かな乱れ。
 金に近い琥珀の瞳が、回廊の先をまっすぐ見ている。

 ――見ているのに、どこも見ていない目。

 彼の周囲には近衛が二名。少し後ろに隊長ガイル。
 そしてさらに奥、巡回中の護衛騎士アデルが遠巻きに視線を配っているのが見えた。
 彼らは空気を読み、王太子の足音が回廊に響くのを邪魔しない距離を保っている。

 セシリアは、息を止めた。

 胸の奥が、ぎゅっと痛む。

(……どうして、こんなに苦しいの)

 思い出せない。
 彼との思い出が、どこにもない。
 なのに、彼が近づくほど痛む。まるで空白が傷口みたいに疼く。

 手が震える。

 トレーが傾きそうになり、慌てて両手に力を入れた。
 金属のカップが小さく鳴る。
 その音が、回廊の静けさの中でやけに大きく響いた。

 王太子の足が、ほんの一瞬だけ止まった。

 ――止まった。

 セシリアは息ができなくなった。

 彼がこちらを見た。
 琥珀の瞳が、まっすぐセシリアに触れる。

 その視線は冷たい。
 けれど、その冷たさの下に、言葉にできない何かが沈んでいる。

 怒りではない。
 憎しみでもない。
 もっと重いもの――喪失と、抑え込んだ痛み。

 セシリアは反射的に膝を折った。

 王太子に対する礼。
 身体が勝手にそうする。
 それが唯一の防御だと思った。

「……王太子殿下」

 声が掠れそうになるのを、必死で抑えた。

 返事はない。

 足音が近づく。
 影が、セシリアの前に落ちる。
 彼の外套の裾が風を切り、金糸が光を拾って微かにきらめいた。

 セシリアは頭を下げたまま、心臓の音を数えた。
 耳の奥が鳴る。
 怖い。
 でも、目を上げたい。
 理由のない衝動が喉を押し上げる。

(……あなたは……)

 あの夜、医務室で言ってしまった言葉が蘇る。

 あなたは、どなたですか?

 言ってはいけない。
 言ったら、また彼の目が壊れる気がする。
 壊れる理由が分からないのに、分かってしまうのが怖い。

 セシリアは唇を噛んだ。
 鉄の味がした。

 王太子の足が、セシリアの目の前で止まる。

 完全に止まる。

 回廊の空気が固まった。
 近衛もガイルも、動かない。
 アデルも遠くで息を殺す。

 ――王太子が、ひとりの侍女の前で止まること自体が異常だ。

 セシリアは背中に視線を感じた。
 見えない矢が、背中に刺さる。

 王太子の声が落ちた。

「……顔を上げろ」

 命令の形をしている。
 でも声が、どこか掠れていた。

 セシリアはゆっくりと顔を上げた。

 灰青の瞳が、琥珀の瞳にぶつかる。
 距離が近い。
 近すぎる。

 セシリアは息を呑む。

 彼の瞳の中に映る自分は、泣いた痕を必死に隠した顔をしている。
 それでも、瞳の奥の脆さだけは隠せない。

 レイヴンの視線が、セシリアの胸元へ落ちた。

 ――名札。

 銀色の小さな金属。
 仕事の名。
 “伯爵令嬢”の名を捨てた証。

 その瞬間、王太子の目がほんのわずかに揺れた。

(……気づいた)

 何に?
 分からないのに、胸が痛い。

 レイヴンは、セシリアの名札を見たまま言った。

「……侍女になったのか」

 短い言葉。
 ただの確認。
 なのに、その声の奥にひどい感情が渦巻いているのが分かる。

 セシリアは頷いた。

「はい。私は……働いております」

 声が小さく震えた。
 誇りでも恥でもない。ただ、必死の宣言だった。

 レイヴンの喉が微かに動いた。
 言葉を飲み込む動き。

 彼は何か言いかけて――やめた。

 そして、その代わりに、冷たく言った。

「……余計なことはするな」

 胸が、きゅっと潰れる。

 余計なこと。
 生きようとすることが、余計なのか。
 ここにいることが、余計なのか。

 セシリアの中に、黒い痛みが広がる。

 それでも、セシリアは礼儀を崩さない。

「承知しました」

 言った瞬間、目の奥が熱くなった。

 泣くな。
 ここで泣いたら終わる。
 泣けば、また“弱い令嬢”に戻る。

 セシリアは必死に瞬きをして、涙を落とさない。

 レイヴンの視線が、セシリアの瞳に戻った。

 琥珀の瞳が、獣みたいに暗くなる。
 けれど、その暗さは怒りではない。
 ――耐えている暗さだ。

 ふいに、彼の指が右鎖骨に触れた。
 薄い古傷を押さえる癖。
 感情が昂った時の癖。

 その仕草を見た瞬間、セシリアの脳裏に一瞬だけ、白い光が走った。

 幼い手。
 誰かの指。
 その傷を押さえる手。
 そして――短い旋律。

(……なに……?)

 頭の奥が割れるように痛んだ。

「……っ」

 セシリアは思わず眉を寄せ、こめかみを押さえた。
 視界が揺れる。
 息が詰まる。

 レイヴンの瞳が鋭くなる。
 一歩、近づきかけて――止まる。

 触れたいのに触れない。
 触れたら危険だと知っている動き。

 レイヴンは低く言った。

「……医務室へ行け」

 それは命令だった。
 けれど同時に、痛いほどの心配だった。

 セシリアは首を振った。
 大丈夫だと言いたい。
 でも声が出ない。

 その時、遠くでアデルが一歩前に出る気配がした。
 助けようとする気配。

 だがガイルが目で制した。
 動くな、と。
 ここは王太子の領域だ、と。

 セシリアは、必死に呼吸を整えた。
 痛みが少し引く。

 レイヴンは、セシリアの前から視線を逸らした。
 まるで、見続けたら壊れてしまうみたいに。

「……仕事に戻れ」

 冷たい声。
 切り捨てる声。

 それでもその声が、震えていたことに、セシリアだけが気づいた。

 レイヴンは踵を返し、歩き出す。

 近衛が続く。
 ガイルが最後に一度だけセシリアへ視線を向ける。
 その目は、同情でも軽蔑でもない。
 ――“理解している者”の目だった。

 王太子が遠ざかる。

 距離ができるほど、セシリアの胸の痛みが増す。
 矛盾。
 近くにいると苦しくて、離れるともっと苦しい。

(……どうして……)

 声にならない問いが、喉の奥で渦巻く。

 セシリアはトレーを抱え直し、深く礼をした。
 背中が小さく震えるのを、見せないように。

 そして、歩き出した。

 働く音の中へ戻るために。
 自分を守るために。

 背後で、王太子の足音が止まったのを、セシリアは感じた。

 振り返らない。
 振り返れない。

 けれど、振り返らなくても分かった。

 レイヴンは、遠ざかるセシリアの背中を見ていた。
 冷たい王太子の仮面の下で、何かを――必死に壊さないように押さえつけながら。

 その視線の重さを、セシリアはまだ、言葉にできない。
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