婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第11章|侍女の初任務

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 その朝、王宮の空気はいつもより張りつめていた。

 窓から差し込む光は澄んでいるのに、回廊の気配が硬い。近衛の数が増え、扉の前で交わされる確認の声が短く鋭い。
 王族区域――“表側”の仕事は、裏側の仕事より静かで、裏側の仕事より怖い。

 セシリアは胸元の名札をそっと押さえた。

 金属の冷たさは、もう少しだけ馴染んできた。
 けれど、ここへ呼ばれるたびに、名札が「あなたはここにいていいの?」と問いかけてくる気がする。

 侍女長マルタの声が、廊下に響いた。

「動線は二列。布の皺を残さない。香は薄く。――王女殿下は強い匂いを嫌われる」

「はい」

 返事が揃う。
 セシリアも小さく返事をした。声が震えないように、腹の奥で支える。

 ここは王族区域の準備室。
 王女ミレイユが午後に訪れる小広間の設えを、午前中のうちに整える任務だ。

 セシリアにとって、侍女になって初めての“王族の仕事”。

(……失敗したら終わる)

 心臓が早い。
 でも、怖さと同じくらい、奇妙な決意がある。

 伯爵家の令嬢だった時は、“失敗してはいけない”が家の名誉のためだった。
 今は違う。
 今は――自分が生きるためだ。

 セシリアは指示された通り、銀器の配置を確認した。
 光の映り込みが強すぎない角度。
 花瓶の影が王女の席に落ちない位置。
 テーブルクロスの折り目は、中央の模様に沿わせる。

 手が覚えている。
 令嬢として習った“見せる礼儀”が、今は“働く技術”として役に立つ。

 ふいに、隣で同期のリネットが囁いた。

「セシリアさん、すごい……。置き方が綺麗。私、いつも曲がっちゃうの」

 その声に、セシリアは小さく微笑みそうになって――すぐに引っ込めた。
 気を抜くと、心が揺れる。

「……練習、してきただけ」

 リネットはぱっと目を輝かせる。

「貴族の人って、やっぱり……」

 言いかけて、リネットははっと口を押さえた。

 “過去を詮索しない”――マルタの条件。
 控室での噂の空気。
 リネットも、その怖さを知っている。

 セシリアは首を振った。

「いいの。今は……今の仕事だけ」

 その言葉に、リネットは小さく頷いた。

 フローラが反対側から近づき、布の端を整えながら言う。

「上出来よ。緊張してるでしょう?」

「……少し」

「少しなら大丈夫。緊張しない人は危ないの。王族の前は、いつも緊張していい」

 フローラの声は温かくて、優しい。
 その優しさが今のセシリアには救いだった。

 マルタが扉の方を見た。

「……来る」

 空気がさらに硬くなる。

 侍女たちは自然に並び、動きを止めた。
 扉が開き、近衛の靴音が響く。

 そして、入ってきたのは――王女ミレイユだった。

 まだ若い。けれど、王宮の空気を纏っている。
 薄紫のドレス、細い首筋、上品に揺れる扇。
 笑みは柔らかいのに、目は鋭く、静かに全てを見ていた。

「準備は整ったようね」

 ミレイユの声は澄んでいた。
 高いのに、刃がある声。

「侍女長マルタ。ご苦労さま」

「恐れ入ります、王女殿下」

 マルタが膝を折る。
 侍女たちも一斉に礼をする。

 セシリアは頭を下げながら、心臓の音だけを聞いていた。
 王女の足音が近づく。
 床を踏む軽い音が、なぜか重く響く。

 ミレイユはテーブルの配置を確かめ、花の色を見て、香の強さを一瞬で嗅ぎ分けた。
 それだけで、王宮で育った人の感覚が分かる。

「……いいわ。香も控えめ。花も季節に合ってる」

 侍女たちの肩が僅かに緩む。

 ミレイユは扇を閉じ、ふと視線を動かした。

 ――セシリアへ。

 正確に言えば、セシリアの顔ではなく、胸元の名札へ。
 そして指先。
 銀器を置いた手。

 その視線の動きだけで、セシリアの背中に汗が滲んだ。

(見られている……)

 けれど、ミレイユは咎めるでもなく、ただ興味深そうに言った。

「あなた。今朝、配置に入った新人ね?」

 セシリアは喉が鳴るのを堪え、膝を折った。

「はい、王女殿下。セシリアと申します」

 ミレイユが微笑んだ。
 微笑なのに、測る目。

「セシリア……」

 名前を口の中で転がすように繰り返し、ミレイユは続ける。

「手が綺麗ね。銀器の置き方も。……誰に習ったの?」

 ――詮索だ。
 でも王女の質問は拒めない。

 セシリアは一瞬だけ、息が詰まった。

 伯爵家。
 令嬢教育。
 あの檻のような日々。

 言えば噂が燃える。
 言わなければ不敬になる。

 セシリアは一拍置き、言葉を選んだ。

「……家で、教わりました。王宮に仕えるなら、恥ずかしくないようにと」

 それは嘘ではない。
 父は“恥ずかしくないように”と教えた。
 ただしそれは、娘のためではなく家のためだったけれど。

 ミレイユは扇で口元を隠し、目だけで笑った。

「なるほど。――家の躾が良いのね」

 その言葉が、褒め言葉にも、針にも聞こえた。

 ミレイユは一歩近づき、セシリアの顔を少しだけ覗き込むようにした。
 灰青の瞳が、王女の薄紫の瞳に映る。

「ねえ、セシリア。あなた……怖い?」

 唐突な問い。
 心の奥を指で撫でられたような感覚。

 セシリアは息を呑んだ。

 怖い。
 王族が怖い。噂が怖い。自分の空白が怖い。
 そして――思い出せない人が怖い。

 けれどセシリアは、首を振った。

「……怖いです。でも、働けます」

 ミレイユの目が、ほんの少しだけ細くなった。
 興味が深まった目。

「ふうん。面白い答え」

 扇がぱちりと開く。
 ミレイユはさらりと言った。

「働けるなら、続けなさい。王宮は、泣くだけの人を嫌うけれど――立つ人は嫌いじゃない」

 その言葉に、セシリアの胸が熱くなった。

 泣くだけの人を嫌う。
 立つ人は嫌いじゃない。

 昨夜までの自分は、泣くことすら許されなかった。
 でも今の自分は、立つことを選べる。

「……ありがとうございます」

 セシリアが言うと、ミレイユは軽く頷いた。

「侍女長マルタ。しばらくこの子を私の区域の準備に入れて」

 マルタの表情が一瞬だけ変わった。
 驚き、ではない。
 ――警戒。

「承知しました、王女殿下」

 ミレイユは満足そうに踵を返した。
 侍女たちは再び深く礼をする。

 王女が去り、空気が緩む。

 リネットが小さく囁く。

「……セシリアさん、王女殿下に気に入られたの?」

 セシリアは首を振った。
 気に入られた、ではない。
 興味を持たれた。――それは、次の刃にもなり得る。

 フローラがセシリアの肩にそっと触れた。

「緊張したでしょう。よく頑張ったわ」

 その言葉に、セシリアの喉が熱くなる。
 泣くな。
 泣いたら、さっきの言葉が無駄になる。

 セシリアは深く息を吸い、吐いた。

(……私は、ここで生きる)

 王女に見られた。
 王宮に名を刻まれた。

 それは、また新しい危険の始まりでもある。

 けれど同時に、セシリアはほんの少しだけ感じていた。

 王宮の“表側”へ足を踏み入れたことで、
 自分の運命が――もう、伯爵家の檻だけでは決まらなくなったのだと。
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