婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第12章|冷たい指示

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 王族区域の仕事は、終わった後の疲れ方が違った。

 身体が重いのではない。
 神経が削られる。
 視線の意味を読み取り、言葉の裏を量り、笑みの温度を間違えないようにする――その緊張が、骨の内側に残る。

 セシリアは小広間の片付けを終え、廊下の端で深く息を吐いた。
 名札の金属が胸元に冷たく触れる。そこに触れるたびに、「私はここにいる」と現実を叩きつけられる。

(……大丈夫。今日は、うまくやった)

 王女ミレイユの視線は鋭かった。
 けれど、あの言葉――「立つ人は嫌いじゃない」――が、胸の奥に残っている。

 その余韻が消えないうちに、次の指示が飛んだ。

「西棟。王太子殿下の通路、清掃と配膳導線の確認。急いで」

 先輩侍女の声。
 “王太子殿下”の言葉だけで、セシリアの心臓が跳ねた。

 痛みが来る。
 名前を聞くだけで胸が痛むのは、もう分かっている。

(……行かなきゃ)

 逃げたくなる。
 でも逃げたら、また檻に戻る。
 侍女になった意味が消える。

 セシリアはトレーを持ち、布を抱え、西棟の回廊へ向かった。

 西棟は“安全区域”のはずなのに、今日の空気はさらに張っていた。
 近衛が増えている。扉の前で立つ兵の視線が、鋭い。

 ――王太子が動くのだ。

 セシリアは道を空ける位置を確認しながら、足を止めずに進んだ。
 床の光が眩しい。磨きすぎた石が、現実を誤魔化すように白い。

 角を曲がった瞬間、冷たい声が落ちた。

「……そこ」

 息が止まった。

 セシリアの足が、反射で止まる。
 視線を上げなくても分かる。気配が、鋭い。

 王太子レイヴンがいた。

 漆黒の髪。金糸の刺繍が入った軍装。肩章。
 近衛隊長ガイルが少し後ろに立ち、他の近衛が回廊の両端を押さえている。

 王太子は、まっすぐセシリアの方を見た。
 ――いや、セシリアを見ているのに、見ていない。

 目は冷たい。
 感情の温度が切り離されている。

 セシリアの胸が痛んだ。

(また……この痛み)

 思い出せない人に、思い出せないまま傷つけられる。
 それは、傷口に理由がない分だけ苦しい。

 セシリアは膝を折り、礼をした。

「王太子殿下」

 声が掠れないように、腹で支える。
 心臓の音を、押し込める。

 王太子は頷きもしない。
 ただ短く言った。

「その導線は塞ぐな」

 言葉はそれだけだった。
 命令。指示。業務連絡。
 人間に向けた言葉ではなく、王宮の機械に向けた言葉。

 セシリアは喉の奥が熱くなるのを感じた。

(……嫌われている)

 そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
 嫌われていてもおかしくない。昨夜、公開処刑をされたのだから。

 でも、なぜこんなに痛い?
 嫌われるなら、諦めればいいはずなのに。
 思い出がないなら、傷つく理由もないはずなのに。

 セシリアは頭を下げたまま、声を出した。

「承知しました。すぐに――」

「待て」

 短い制止。
 セシリアは身体を固くした。

 王太子の足音が、近づく。
 近づくほど痛みが強くなるのが、分かる。

(お願い……近づかないで)

 心がそう叫ぶ。
 でも身体は、近づいてほしいとでも言うみたいに震える。矛盾。

 王太子はセシリアの目の前で止まった。

 距離が近い。
 彼の外套の端が微かに揺れ、香木の匂いが鼻を掠めた。

 セシリアは顔を上げられない。
 上げたら、琥珀の瞳に飲まれる気がする。

 王太子の視線が、セシリアの胸元に落ちた。
 名札。
 そこへ視線が触れた瞬間、空気が微かに震えた。

 ガイルが一歩だけ動く気配がした。
 止めるべきか迷う気配。
 しかし王太子が小さく手を上げ、止めた。

 沈黙が落ちる。

 セシリアの耳に、自分の呼吸だけが聞こえる。
 怖い。
 でも――言いたい。

 どうして、そんなに冷たいのですか。
 どうして、私の胸は痛むのですか。
 あなたは、私にとって――

 言葉の端が喉元に浮かびかけた瞬間。

 王太子が低く言った。

「……昨日、王女殿下の区域に入ったな」

 セシリアは息を呑んだ。

(知ってる……?)

 彼が、侍女の配置まで見ている。
 その事実が、恐ろしくもあり――奇妙に胸を熱くもさせた。

「はい。侍女長の命で……」

「余計な目立ち方をするな」

 冷たい。短い。
 切り捨てるような言葉。

 セシリアは唇を噛んだ。
 鉄の味。涙の味。

「……私は、仕事をしただけです」

 小さく抵抗した声。
 自分でも驚くほど、そこに芯があった。

 王太子の瞳が一瞬だけ揺れた。
 琥珀の底に、暗いものが沈む。

「仕事なら――」

 言いかけて、言葉が途切れる。
 まるで、続きを言えば壊れてしまうみたいに。

 沈黙の隙間から、セシリアは気づいた。

 王太子の拳が、わずかに震えている。
 感情を押さえつける震え。

(……嫌っているなら、震えない)

 その矛盾が、セシリアの胸をさらに痛くした。

 王太子は顔を背けるようにして言った。

「……通路の準備だけしろ。俺の前に出るな」

 その言葉で、セシリアの中の何かが冷たく砕けた。

 前に出るな。
 存在するな、に近い。

 セシリアは頭を下げた。

「承知しました」

 声が震える。
 震えを抑えるために、喉の奥に力を入れた。

 王太子は踵を返した。
 近衛が続く。
 ガイルが最後に残り、セシリアに一瞬だけ目を向ける。

 その目は、命令の目だった。
 ――生きろ。耐えろ。余計なことを言うな。

 セシリアはその視線の意味を理解できないまま、ただ礼をした。

 王太子の足音が遠ざかる。
 遠ざかるほど、胸の痛みが増す。
 近くにいると苦しくて、離れるともっと苦しい。

(……私は、嫌われている)

 そう思うことでしか、自分を守れない。

 セシリアはゆっくりと立ち上がった。
 トレーを持ち直し、床の布の端を整え、通路の幅を測る。
 仕事に戻る。働く音の中へ戻る。

 目の奥が熱い。
 でも泣かない。

 泣けば、また弱い令嬢に戻る。
 泣けば、王宮が望む“哀れな悪役”になる。

 セシリアは深く息を吸い、吐いた。

 胸元の名札が冷たい。
 冷たさが、現実だ。

 その現実の中で、彼女はひとつだけ知らない。

 王太子の冷たい指示は、嫌悪ではなく――
 彼女を守るために、彼が自分の心を切り捨てている音だということを。
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