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第16章|祈祷室の違和感
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王宮の祈祷室は、音が吸われる場所だった。
廊下の足音が、扉の前でふっと消える。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。香の匂いが薄く漂い、石壁が冷たさを抱え込んでいる。
祈りのための静けさ――と言えば美しい。
けれどセシリアにとっては、静けさが心の痛みを増幅させる場所だった。
仕事の途中、侍女長マルタから短い指示が飛んだ。
「祈祷室の補充を。香と蝋燭、聖水。急ぎ」
「はい」
セシリアは即答して、台車に小さな箱を載せた。
香の束。細い蝋燭。ガラス瓶に入った聖水。
どれも重くはない。けれど、祈祷室へ近づくほど、胸の奥がじわりと痛み出す。
(……ここ、苦手)
理由は分からない。
ただ、ここに来ると頭の奥がざわつく。
誰かが自分の空白に指を差し込むような感覚。
扉を押し開けると、祈祷室の中は淡い光に満ちていた。
高い天井。細い窓。差し込む光が埃を照らし、小さな粒がゆっくり舞っている。
祭壇には白い布。金の器。香炉。
壁一面には古い紋章が彫られていて、ところどころ欠け、年月の重さを感じさせる。
セシリアは台車を押し、祭壇の裏手へ回った。
蝋燭の残りを確認し、香を並べ、聖水瓶を置き換える。
いつも通りの仕事。
ただの補充。
そう自分に言い聞かせながら手を動かす。
――なのに。
背中に、冷たい視線を感じた気がした。
振り返っても誰もいない。
祈祷室には自分だけ。
それでも空気が、誰かの気配を抱えている。
(……気のせい)
そう思おうとした瞬間、壁の紋章に目が吸い寄せられた。
古い紋章。
王家の紋とは少し違う。
花にも見える。星にも見える。翼のようにも見える。
見たことがある気がする。
――どこで?
思い出そうとすると、胸がぎゅっと痛む。
セシリアは無意識に一歩近づいた。
指先が、紋章の欠けた部分に触れそうになる。
石の冷たさが、指の先で想像できるほど近い。
その瞬間。
頭の奥が、ずん、と沈んだ。
「……っ」
視界が揺れる。
耳鳴りが走る。
胸の奥が締まり、息が詰まった。
(やだ……また……)
祈祷室の静けさが、音のない圧力になって押し潰してくる。
――誰かが呼んでいる。
そんな錯覚がした。
紋章の欠けた部分が、口のように見える。
「思い出せ」と言っているように。
セシリアはこめかみを押さえ、膝をついた。
石床が冷たい。
冷たさが身体に伝わり、余計に震えが増す。
(思い出したくない……でも、思い出したい)
矛盾が胸を引き裂く。
思い出せない“あの人”の顔が浮かぶ。
琥珀の瞳。冷たい声。
「思い出すな」
その言葉が、祈祷室の冷気と重なった。
セシリアは目を閉じた。
閉じても暗くならない。
瞼の裏に、白い光が走る。
――幼い手。
――白い花。
――短い旋律。
そして、指輪が床に落ちた音。
「やめて……」
口から漏れた声は、祈りではなく悲鳴に近かった。
その時、扉が勢いよく開いた。
「セシリアさん!」
薬草係の侍女サラの声。
サラが駆け寄り、セシリアの肩を抱く。
触れられた瞬間、セシリアの呼吸が少しだけ戻った。
「……大丈夫? 顔が真っ青。まさか、また頭痛?」
サラの声は落ち着いている。落ち着いているから、セシリアは崩れずにいられる。
「……すみません……壁の……紋章が……」
震える指で、セシリアは紋章の方を指した。
サラが視線を向け、眉を寄せる。
「……あそこ?」
サラは、すぐに立ち上がってセシリアから少しだけ距離を取った。
祈祷室という場所を尊重する仕草でもあり、同時に――何かを避ける仕草でもある。
次の瞬間、別の足音が扉の外から響いた。
金属の擦れる音。靴音。
医官の足音。
「どうしました!」
医官ユーリが駆け込んできた。
息が少し上がっている。いつもの冷静さが、今は僅かに崩れている。
サラが簡潔に言った。
「祈祷室で発作みたいに。頭痛と眩暈。壁の紋章に近づいたところで」
ユーリの表情が変わる。
単なる失神ではない、と確信した顔。
ユーリはセシリアの手を取り、脈を測り、瞳孔の反応を確認する。
医官の指先は冷たいのに、触れ方は丁寧だった。
「……脈が早い。呼吸も浅い。セシリアさん、意識ははっきりしていますか。ここはどこですか」
「……王宮の……祈祷室……」
「あなたの名前は」
「セシリア……」
答えるたびに胸が痛む。
“思い出せない空白”が、喉元に引っかかる。
ユーリは低く言った。
「……また、特定の記憶に触れかけている」
サラが息を呑む。
「特定の記憶?」
「……いや、今は」
ユーリは言いかけて、口を閉じた。
医官として言うべきことと、王宮として隠すべきことがぶつかった瞬間の沈黙。
その沈黙の向こう側に、誰かがいる気がした。
セシリアの視界の端。
祈祷室の奥――管理用の小さな扉が、半分だけ開いている。
誰もいないはずの場所。
そこに、紙の白さが一瞬だけ見えた気がした。
(……誰かいる?)
セシリアが瞬きをした瞬間、扉は静かに閉まっていた。
気のせい。幻。
そう思おうとして、心臓がさらに跳ねる。
ユーリがサラに言う。
「医務室へ。ここは刺激が多い。――セシリアさん、立てますか」
サラがセシリアの腕を支える。
「ゆっくり。私がついてる」
セシリアは頷き、立ち上がろうとして、また視界が揺れた。
壁の紋章が歪む。
欠けた部分が、まだ手を伸ばしてくるみたいに見える。
セシリアは反射的に目を背けた。
(見ちゃだめ)
見たら、思い出してしまう。
思い出したら、痛みが増す。
――そして、なぜか“危険”が増す気がする。
医官ユーリが、祈祷室を出る直前に、壁の紋章を一度だけ見た。
その視線は医官のものではない。
“知っている者”の視線だった。
サラが小声で囁く。
「……誰かに、近づくなって言われた?」
セシリアは答えられない。
答えたら、あの人の声を思い出してしまう。
あの人の顔を思い出してしまう。
医官ユーリが扉を開け、廊下の光が差し込む。
その光の中で、セシリアは最後にもう一度だけ祈祷室を振り返った。
壁の紋章は、何も語らない石に戻っている。
なのに、セシリアの胸の奥だけが、まだ痛い。
まるで、空白が傷口のように疼いている。
そしてセシリアは気づかない。
祈祷室の奥の小扉の向こうで、古文書管理官エマが息を殺していたことを。
彼女が手にしていたのが、“封印契約”に関する記録の写しだったことを。
――セシリアが紋章に触れかけた瞬間、封印が薄く震えたことを。
それは偶然ではない。
王宮の闇が、確かに目を覚まし始めた合図だった。
廊下の足音が、扉の前でふっと消える。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。香の匂いが薄く漂い、石壁が冷たさを抱え込んでいる。
祈りのための静けさ――と言えば美しい。
けれどセシリアにとっては、静けさが心の痛みを増幅させる場所だった。
仕事の途中、侍女長マルタから短い指示が飛んだ。
「祈祷室の補充を。香と蝋燭、聖水。急ぎ」
「はい」
セシリアは即答して、台車に小さな箱を載せた。
香の束。細い蝋燭。ガラス瓶に入った聖水。
どれも重くはない。けれど、祈祷室へ近づくほど、胸の奥がじわりと痛み出す。
(……ここ、苦手)
理由は分からない。
ただ、ここに来ると頭の奥がざわつく。
誰かが自分の空白に指を差し込むような感覚。
扉を押し開けると、祈祷室の中は淡い光に満ちていた。
高い天井。細い窓。差し込む光が埃を照らし、小さな粒がゆっくり舞っている。
祭壇には白い布。金の器。香炉。
壁一面には古い紋章が彫られていて、ところどころ欠け、年月の重さを感じさせる。
セシリアは台車を押し、祭壇の裏手へ回った。
蝋燭の残りを確認し、香を並べ、聖水瓶を置き換える。
いつも通りの仕事。
ただの補充。
そう自分に言い聞かせながら手を動かす。
――なのに。
背中に、冷たい視線を感じた気がした。
振り返っても誰もいない。
祈祷室には自分だけ。
それでも空気が、誰かの気配を抱えている。
(……気のせい)
そう思おうとした瞬間、壁の紋章に目が吸い寄せられた。
古い紋章。
王家の紋とは少し違う。
花にも見える。星にも見える。翼のようにも見える。
見たことがある気がする。
――どこで?
思い出そうとすると、胸がぎゅっと痛む。
セシリアは無意識に一歩近づいた。
指先が、紋章の欠けた部分に触れそうになる。
石の冷たさが、指の先で想像できるほど近い。
その瞬間。
頭の奥が、ずん、と沈んだ。
「……っ」
視界が揺れる。
耳鳴りが走る。
胸の奥が締まり、息が詰まった。
(やだ……また……)
祈祷室の静けさが、音のない圧力になって押し潰してくる。
――誰かが呼んでいる。
そんな錯覚がした。
紋章の欠けた部分が、口のように見える。
「思い出せ」と言っているように。
セシリアはこめかみを押さえ、膝をついた。
石床が冷たい。
冷たさが身体に伝わり、余計に震えが増す。
(思い出したくない……でも、思い出したい)
矛盾が胸を引き裂く。
思い出せない“あの人”の顔が浮かぶ。
琥珀の瞳。冷たい声。
「思い出すな」
その言葉が、祈祷室の冷気と重なった。
セシリアは目を閉じた。
閉じても暗くならない。
瞼の裏に、白い光が走る。
――幼い手。
――白い花。
――短い旋律。
そして、指輪が床に落ちた音。
「やめて……」
口から漏れた声は、祈りではなく悲鳴に近かった。
その時、扉が勢いよく開いた。
「セシリアさん!」
薬草係の侍女サラの声。
サラが駆け寄り、セシリアの肩を抱く。
触れられた瞬間、セシリアの呼吸が少しだけ戻った。
「……大丈夫? 顔が真っ青。まさか、また頭痛?」
サラの声は落ち着いている。落ち着いているから、セシリアは崩れずにいられる。
「……すみません……壁の……紋章が……」
震える指で、セシリアは紋章の方を指した。
サラが視線を向け、眉を寄せる。
「……あそこ?」
サラは、すぐに立ち上がってセシリアから少しだけ距離を取った。
祈祷室という場所を尊重する仕草でもあり、同時に――何かを避ける仕草でもある。
次の瞬間、別の足音が扉の外から響いた。
金属の擦れる音。靴音。
医官の足音。
「どうしました!」
医官ユーリが駆け込んできた。
息が少し上がっている。いつもの冷静さが、今は僅かに崩れている。
サラが簡潔に言った。
「祈祷室で発作みたいに。頭痛と眩暈。壁の紋章に近づいたところで」
ユーリの表情が変わる。
単なる失神ではない、と確信した顔。
ユーリはセシリアの手を取り、脈を測り、瞳孔の反応を確認する。
医官の指先は冷たいのに、触れ方は丁寧だった。
「……脈が早い。呼吸も浅い。セシリアさん、意識ははっきりしていますか。ここはどこですか」
「……王宮の……祈祷室……」
「あなたの名前は」
「セシリア……」
答えるたびに胸が痛む。
“思い出せない空白”が、喉元に引っかかる。
ユーリは低く言った。
「……また、特定の記憶に触れかけている」
サラが息を呑む。
「特定の記憶?」
「……いや、今は」
ユーリは言いかけて、口を閉じた。
医官として言うべきことと、王宮として隠すべきことがぶつかった瞬間の沈黙。
その沈黙の向こう側に、誰かがいる気がした。
セシリアの視界の端。
祈祷室の奥――管理用の小さな扉が、半分だけ開いている。
誰もいないはずの場所。
そこに、紙の白さが一瞬だけ見えた気がした。
(……誰かいる?)
セシリアが瞬きをした瞬間、扉は静かに閉まっていた。
気のせい。幻。
そう思おうとして、心臓がさらに跳ねる。
ユーリがサラに言う。
「医務室へ。ここは刺激が多い。――セシリアさん、立てますか」
サラがセシリアの腕を支える。
「ゆっくり。私がついてる」
セシリアは頷き、立ち上がろうとして、また視界が揺れた。
壁の紋章が歪む。
欠けた部分が、まだ手を伸ばしてくるみたいに見える。
セシリアは反射的に目を背けた。
(見ちゃだめ)
見たら、思い出してしまう。
思い出したら、痛みが増す。
――そして、なぜか“危険”が増す気がする。
医官ユーリが、祈祷室を出る直前に、壁の紋章を一度だけ見た。
その視線は医官のものではない。
“知っている者”の視線だった。
サラが小声で囁く。
「……誰かに、近づくなって言われた?」
セシリアは答えられない。
答えたら、あの人の声を思い出してしまう。
あの人の顔を思い出してしまう。
医官ユーリが扉を開け、廊下の光が差し込む。
その光の中で、セシリアは最後にもう一度だけ祈祷室を振り返った。
壁の紋章は、何も語らない石に戻っている。
なのに、セシリアの胸の奥だけが、まだ痛い。
まるで、空白が傷口のように疼いている。
そしてセシリアは気づかない。
祈祷室の奥の小扉の向こうで、古文書管理官エマが息を殺していたことを。
彼女が手にしていたのが、“封印契約”に関する記録の写しだったことを。
――セシリアが紋章に触れかけた瞬間、封印が薄く震えたことを。
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