つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第8.5章|優しさの罪

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舞踏会の翌日、回廊の窓から射す光は薄く、冷たかった。
王宮の朝はいつも整っている。整いすぎていて、息をする音さえ罪に思える。

リーシャは自室の机で、書類の束に視線を落としていた。
読むべき報告、署名すべき書付、挨拶の段取り。
王妃の仕事は、心を使わず手を動かすものばかりだ。

(……今日も、見られている)

窓の外で、枝が揺れた。
回廊の柱の陰に、影が一つ。
密偵サシャの影は、存在を隠す気がない。

リーシャはペンを置き、そっと手袋の縫い目を撫でた。
昨夜から、指先が冷える。
冷えるのは体だけではない。胸の奥まで冷える。

そのとき、扉が控えめに叩かれた。

「王妃陛下。侍女長アグネスでございます」

「入りなさい」

アグネスが入ってくる。
いつもより一段、表情が硬い。
手に小さな箱を持っていた。白い包み布にくるまれ、結び目が丁寧に結ばれている。

「……どなたから?」

リーシャは、声の温度を変えないように聞いた。
箱は小さいのに、胸の奥が妙にざわつく。
贈り物は、この王宮では凶器になりうる。

アグネスは一拍置いて、低く言った。

「王弟殿下より」

一瞬、呼吸が止まった。
アドリアンの顔が浮かぶ。昨夜、差し出された手。
「立っていてください」と言わんばかりの眼差し。

(……どうして)

リーシャは微笑みかけて、すぐに止めた。
微笑めば“嬉しい妃”になる。
嬉しい妃は、噂に食べられる。

「……なぜ、殿下が」

アグネスは箱を机の上に置いた。
指先が、ほんの僅か震えている。

「回廊で、私にお渡しになりました。人目を避けて。……けれど、完全には避けきれません」

その言葉だけで、リーシャは理解した。

(見られた)

王宮では、“見られた”がすべてだ。
真実より先に、目撃が勝つ。

リーシャは箱に触れた。
指先が冷たい。箱の角が硬い。

包み布をほどくと、白い革の手袋が現れた。
柔らかい白。雪のように潔い白。
内側は薄い絹で仕立てられていて、指先まで温かさが届くように細工されている。

リーシャは無意識に息を吐いた。

(……綺麗)

そして、怖いほど優しい。

手袋の内側、手首のあたりに、目立たない刺繍があった。
ほんの小さな銀糸で、短い言葉。

――怖がらないで。

喉の奥が、きゅっと縮む。
言葉にしてしまえば泣きそうで、リーシャは何も言えなかった。

「殿下は……」

アグネスが言いかけて止めた。
止めた理由は分かる。
ここでは言葉が武器になる。優しさほど狙われる。

リーシャは手袋を握り、微笑みの仮面を取り戻すように言った。

「……ありがたいわ。けれど、これは危険ね」

危険。
その二文字が、胸に刺さる。

アグネスは小さく頷く。

「王弟殿下は、王妃陛下が昨夜……指先まで冷えておられるのを見た、と」

リーシャは目を伏せた。
指先まで冷えていたのは、気温のせいではない。
王の手を取らず、王の隣に立てず――それでも微笑んでいたからだ。

(……見ていた人がいた)

救われる。
でも、救われたことで、また別の檻が閉まる。

リーシャは手袋をそっと机に置いた。

「……身につけるわ」

アグネスが息を呑む。

「王妃陛下」

「噂になるのは分かっている。でも――」

リーシャは自分の手を見た。
白い手。
王妃の手。
凍える手。

「凍えたままでは、私が折れる」

折れてはいけない。
折れた瞬間、王宮は“つまらない妃”を完成させる。

リーシャは手袋に指を通した。
革が肌に馴染み、熱を奪われていた指先に、ようやく血が戻ってくる。

温かい。
その温かさが、痛い。

その瞬間――扉の外から、かすかな笑い声がした。

「……まあ」

上品な声。
わざと小さく、わざと耳に届く声。

リーシャの背筋が凍りつく。

アグネスが扉へ向かうより早く、扉の隙間から影が滑り込む。
侍女頭カミーユだった。
口元だけが笑っている。目は笑っていない。

「失礼いたします、王妃陛下。……あら、素敵な手袋」

素敵。
その言葉が刃だと、リーシャはもう知っている。

リーシャは微笑み、冷たく返した。

「ありがとう。寒いので」

カミーユは小さく首を傾ける。

「ええ。王宮は冷えますものね。……特に、夜は」

夜。
舞踏会。
手を取らなかった夜。
王弟と踊った夜。

カミーユの視線が手袋に落ち、そしてゆっくりとリーシャの顔に戻る。

「殿下は、お優しいのですね」

優しい。
その言葉は祝福に見えて、最悪の呪いになる。

「王妃陛下を――“特別に”気にかけておられる」

“特別”
噂の材料が、今ここで切り取られた。

リーシャは笑みのまま、言った。

「殿下は王家の方。王妃を立てるのは当然でしょう」

当然。
秩序。
そう言い切れば、噂は沈む……はず。

けれどカミーユは、さらに柔らかく笑う。

「そうですね。ですから、なおさら――皆さまが誤解なさらぬように」

誤解。
誤解の名で、火をつける。

「この手袋、とてもお似合いです。……昨夜の舞踏会でも、見たかった」

リーシャの胸の奥で、何かが冷たく弾けた。
昨夜の舞踏会。
王の手。
宙に残った手。

(見たかったのね。私がもっと傷つく姿を)

リーシャは一歩も引かず、微笑のまま言う。

「なら、今見たでしょう。満足?」

カミーユの微笑が、一瞬だけ止まった。
止まったのは、痛みではない。計算の誤差。

すぐに戻り、深々と礼をする。

「とんでもございません。王妃陛下のご健康を願っております」

そして、軽い足取りで去っていく。
去り際に、扉の外へ向かって小さく囁いた声が聞こえた。

「……ヴィオラ様に、教えて差し上げなくては」

噂屋の名。
それだけで、リーシャの胃が静かに痛む。

扉が閉まる。
部屋に戻った静けさが、さっきより重い。

アグネスが低く言った。

「……今ので、噂は動きます」

リーシャは手袋を見つめた。
温かい。
優しい。
そして――危険。

それでも外さなかった。

「動くなら、動けばいいわ」

自分でも驚くほど、声が冷たかった。

「私は今日から、王の隣に立たない。
だから――誰の噂で殺されるかくらい、選ばせて」

アグネスが息を呑む。
その沈黙の中で、リーシャはふと窓の外を見た。

庭の影。
柱の陰。
サシャの視線が、確かにここを見ている。

そして――遠くの回廊の上。
国王レオニスが立っていた。

目が合った。
一瞬だけ。
国王の瞳が、手袋に落ちる。

ほんの僅か、表情が変わった。
凍った氷が、軋むように。

――怒り。
――嫉妬。
――そして、言えない後悔。

けれど国王は来ない。
来られない。
宰相がすぐ隣にいるから。

リーシャは、微笑んだ。
王妃の微笑。

そして、わざと手袋を整え、指先を揃えた。
見せつけるためではない。
自分の心を守るための儀式として。

(見ているなら、見ればいい)

あなたが私を見張るなら。
私はあなたに、これ以上心を渡さない。

リーシャは胸の奥でそう告げた。
温かい手袋の中で、指先が少しだけ熱を持つ。

その熱が、涙に変わらないように――。
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