つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第8章|監視の影

王太后の部屋を出た瞬間、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。
けれどそれは錯覚だった。王宮はどこまでも繋がっていて、重さもまたどこまでも追いかけてくる。

リーシャは歩きながら、指先を揃えた。
手袋の内側に残る爪の痛みが、まだ消えない。痛みがあるうちは平気だ。痛みが消えた時、心が崩れる気がする。

窓の外では薔薇が風に揺れていた。
白い花弁が落ちるのが見える。落ち方が、あまりに静かで――まるで自分の居場所が剥がされる音みたいだった。

(公開の場で試す、か)

王太后の声が耳の奥に残っている。
試す。
その言葉は、妃を“人”として扱わない時に使われる。

リーシャは歩みを乱さず、侍女たちの列を抜け、奥宮の自室へ向かった。
王妃の私室は豪奢で、静かで、完璧だ。
完璧すぎる静けさは、時に牢獄と同じ形をしている。

扉が閉まる。
重い音がして、ようやく外の視線が切れる――はずだった。

「……窓の外に、人が」

侍女のひとりが、声を落として言った。

リーシャは視線だけで窓を見た。
庭園の樹影の下、回廊の柱の陰、遠くの通路。
動く影がある。ひとつではない。二つ、三つ。

兵ではない。
騎士でもない。
“目”だ。見るための人間。

リーシャはすぐに理解した。

(監視)

王宮の監視は、露骨にはしない。
露骨にした瞬間、それは“圧”になる。
圧は、従わせるために使われる。

王太后の言葉が、ここに繋がっている。

――試験。
――公開。
――従え。

リーシャは微笑んだ。
微笑んでしまう自分が、少しだけ憎い。
けれど、微笑み以外の顔をこの城で持つと、必ず狙われる。

「……気のせいよ」

リーシャは淡々と言った。
侍女に怖がらせないために。
自分が怖がっていると悟られないために。

しかし、気のせいではなかった。

昼食の支度。
お茶の準備。
廊下の往来。
何をするにも、気配がついてくる。

扉の外で、靴音が一瞬止まり、また歩き去る。
窓の外で、枝が揺れる。
回廊を歩けば、少し遅れて同じ足音が追ってくる。

(私は……見張られている)

理由がないはずがない。
王妃を監視する理由。

リーシャの胸に浮かぶのは、一つだけだった。

――国王が命じた。

そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
血が引く。指先が冷える。
でも涙は出ない。涙を出す場所を、もうどこかに落としてきた。

(嫌われているのね)

嫌われている。
それは悲しいのに、同時に――少しだけ楽だった。

期待しなくていい。
望まなくていい。
愛される夢を見なくていい。

リーシャは自分をそう慰めながら、鏡台の前に座った。
髪をほどき、丁寧に梳く。銀糸の髪が櫛を滑り、静かな音を立てる。

その音が、妙に虚しい。

「王妃陛下」

侍女長アグネスが入ってきた。
いつも通りの厳しい顔。けれど、その目が一瞬だけ窓の外を確認した。

(……やっぱり)

アグネスも気づいている。
つまり監視は、隠すものではなく“見せるもの”になっている。

アグネスは声を低くする。

「回廊に、サシャがいます」

サシャ。
密偵。国王の影。
名前を聞いた瞬間、リーシャの背筋が硬くなった。

(国王の影が、私に)

それは命令の形をしている。
“王妃を見張れ”という命令。

リーシャは鏡の中の自分を見た。
微笑んでいる。
青い宝石が冷たく光り、白い肌は少し青白い。

「……何か、私がしたの?」

リーシャの声は、かすかに震えた。
自分でも驚くほど小さな震え。
王妃の鎧に、小さな穴が空いた瞬間だった。

アグネスは一瞬黙り、そして言葉を選ぶように告げた。

「昨夜の舞踏会は……王宮に“物語”を与えました」

物語。
噂の別名。

リーシャは唇を噛みそうになり、すぐにやめた。
痛みを作ると、涙が近くなる。

「私は、国の体面を守っただけよ」

それは自分への言い訳でもあった。
守ったはずだ。
守らなければ、もっと傷ついたはずだ。

アグネスは視線を落とした。

「王宮は、体面を守る人より……“都合のいい真実”をくれる人を好みます」

その言葉が、リーシャの胸を刺す。
都合のいい真実。
つまり、誰かが作る物語。

(セレス……)

セレスの笑みが脳裏に浮かぶ。
幼馴染。妹分。国王の理解者。
誰も疑えない“正しさ”の居場所。

そして自分は、外から来た妃。

リーシャは息を吸い、立ち上がった。

「サシャに会うわ」

侍女たちが息を呑む。
アグネスが目を細めた。

「……危険です。王妃陛下」

「危険でも、分からないままではいられない」

リーシャは扇を取った。
扇の骨が、指先の冷えに触れてさらに冷たい。

回廊へ出る。
石床が硬く、足音が静かに響く。
いつもなら侍女たちの足音が添う。だが今日は、足音が多い。

壁際にいる影。
柱の陰に立つ影。
視線が刺さり、すぐに逸らされる。逸らされるほど、見られていると分かる。

その先、サシャがいた。

黒い外套。
顔の半分が影に落ち、目だけが光っている。
騎士の礼ではない、密偵の礼で頭を下げた。

「王妃陛下」

声は低く、感情がない。
無いように見せることが、彼の仕事なのだろう。

リーシャは微笑みを保ち、同じ温度で問う。

「私を、見張っているの?」

直球。
王宮で最も危険な聞き方。
けれどリーシャは、これ以上自分を削れなかった。

サシャの目が、ほんの僅かに揺れた。
揺れたのは罪悪感ではない。
“答え方を選ぶ揺れ”だ。

「……陛下の御命令により」

やっぱり。

リーシャの胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
怒りは湧かない。悲しみも湧かない。
ただ、確信だけが残る。

(私は……もう、信じてはいけない)

リーシャは声を落とした。

「私は王妃よ。罪人ではない」

サシャは微動だにしない。
だが、その声だけが少しだけ固くなった。

「……王妃陛下を守るためでもあります」

守る。
その言葉は優しいのに、鎖の匂いがする。
守ると言われる者は、自由を奪われる。

リーシャは微笑んだ。
微笑みのまま、胸の奥で冷えきっていく。

「守るために、監視するのね」

サシャは答えない。答えられない。
答えられないことが、答えだった。

リーシャは扇を閉じる音を立てた。
その音が、この回廊では妙に大きい。

「……分かったわ。好きにして」

その言葉が、自分でも驚くほど冷たく出た。
冷たい言葉は、相手だけでなく自分も傷つける。
でも傷つくことでしか、ここでは生き残れない。

リーシャは踵を返し、歩き出す。
背中に視線が刺さる。サシャだけではない。
回廊に散らばる影たちの視線。
王宮全体の視線。

自室へ戻る途中、ふと階段の上に人影が見えた。

国王レオニス。

一瞬、目が合った気がした。
けれど次の瞬間、国王は視線を逸らし、宰相の方へ顔を向ける。

宰相グレゴールが、何かを囁いている。
国王の眉が僅かに動き、頷く。

(……そういうこと)

国王は、自分の意志で監視しているのか。
それとも、宰相に言われて頷いているだけなのか。

どちらでも、リーシャにとっては同じだった。
結局、国王は自分を信じない。

リーシャは自室へ戻り、扉を閉めた。

豪奢な部屋。
美しい装飾。
柔らかな絨毯。

でも、息が詰まる。

リーシャは窓辺に立ち、庭園を見下ろした。
白い薔薇が揺れている。
その白さが、今日の自分の心みたいに見えた。

(嫌われている)

嫌われているなら――もう、隣に立たなくていい。
もう、手を取らなくていい。
もう、期待しなくていい。

そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥がじくじく痛む。
痛みは、まだ心が生きている証拠だった。

リーシャは目を閉じた。

(今日から、隣に立たない)

それは決意であり、祈りであり、
そして――自分を守るための最後の鍵だった。

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