つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第23章|禁域の噂

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禁域へ続く回廊は、王宮の中でいちばん音が死ぬ場所だった。
壁が厚いのではない。――誰も、音を立てないからだ。

ここを通る者は少ない。
通る理由がある者は、理由を口にしない。
口にした瞬間、それが噂になり、噂になった瞬間、それが罪になる。

だから、足音だけが残る。

今夜、その足音が増えていた。

アドリアンは石段の上で立ち止まり、燭台の火を見つめた。
火は揺れているのに、風がない。
揺れているのは――誰かが通ったからだ。

「……本当に見たのだな」

彼が低く問うと、若い兵が喉を鳴らして頷いた。
頷き方が早いほど、恐怖が滲む。

「はい、殿下。荷車が……禁域の方へ。深夜に二度」

「誰の荷だ」

「印がありませんでした。外套で隠していたのか、そもそも――」

印がない。
それは王宮では、刃物と同じだ。
名も印もないものほど、誰にでも刺さる。

アドリアンは兵の顔を見た。
恐怖に濡れた目。
恐怖はいつも正しい。恐怖は、先に真実を嗅ぎ取る。

「護衛は?」

「二人……いえ、三人に見えました。
それから――香りが」

香り。

アドリアンの眉がわずかに動く。

「どんな」

兵は唇を噛み、言いにくそうに吐いた。

「……白薔薇のような」

その言葉で、空気が一段冷えた。

白薔薇。
王妃リーシャの印にされた香。
そして今は、王妃を罪にするために使われる香。

(まただ)

香油の件。帳簿の件。すり替え書状。
全部が一本の線で繋がっていく気配がする。

「追うな」

アドリアンは即座に言った。
命じる声は冷静だが、胸の内側は熱い。

「追えば、お前が消える。
見張れ。どこへ運び込むかだけを掴め。――そして誰にも言うな」

兵が青くなって頷く。

「はい」

兵が闇へ溶けるのを見送り、アドリアンは鎖に触れないまま禁域を見下ろした。
石段の下は暗い。
暗いのに、匂いだけが上がってくる気がした。

白薔薇の香。

(妃が狙われている)

守ると決めた。
けれど“守る”と言った瞬間に、兄の嫉妬が妃を殺す。
だから守り方を選ばなければならない。
遠回りで、音も立てずに、噂にならない形で。

――だからまず、国王に言う。

兄が動けば、国が動く。
兄の命令なら、宰相も王太后も止めにくい。

そう思ったのに、胸の奥に嫌な予感が走る。
“兄は動かない”。
動かないのではない。動けないのだ。宰相の言葉に縛られて。

それでも、言わなければ始まらない。

アドリアンは踵を返し、執務棟へ向かった。



国王レオニスの執務室は、夜でも灯りが消えない。
国が眠っても、王は眠れない――その理屈は美しいが、王妃の寝所が空になる理屈でもあった。

扉が開く。
蝋の匂い、インクの匂い、紙の匂い。
国が紙にされて積み上がっている匂い。

宰相グレゴールがいた。
穏やかな笑み。丁寧な礼。
そして、その隣に――セレスが立っていた。

黄金の髪。淡いドレス。
まるでこの部屋が、幼い頃から彼女の居場所だったかのような自然さ。

(また、隣)

アドリアンはそれを見ないふりをして礼をする。

「兄上」

レオニスは机から顔を上げずに言った。

「……何だ」

短い声。
短いほど、心が見えない。

アドリアンは必要な言葉だけを置く。

「禁域で不審な荷が動いています。
深夜、印のない荷車が地下回廊へ。護衛が複数。
――白薔薇の香がありました」

言い切った瞬間、空気が凍った。

国王のペンが止まる。
止まる音が、やけに大きい。

「黙れ」

一言。
命令の形をした拒絶。

アドリアンの喉が硬くなる。

「兄上、これは――」

「黙れと言った」

レオニスの目が上がる。
氷の瞳。
その底に、苛立ちと焦りが燃えている。

宰相が柔らかく割り込む。

「陛下、王弟殿下も心配なさって……」

国王は宰相を一瞬だけ見て、すぐアドリアンに戻した。

「俺に黙って動くな」

“黙って動くな”。
その言葉は、禁域の危険より先に弟を縛る。

「禁域の件は、俺が処理する。
お前は余計なことをするな」

余計なこと。
妃を守ることが余計なのか。
真実を掴むことが余計なのか。

アドリアンは歯を噛みしめる。
噛みしめても、言葉にすれば宰相の餌になる。
宰相は“兄弟不和”を国の不安に変える。

――だから言葉を削る。

「……承知しました」

その瞬間、セレスが一歩、国王の傍へ寄った。
躊躇いなく距離を詰める。幼馴染の特権。

「陛下。私が見張ります」

その声は柔らかい。
柔らかいから誰も逆らえない。
柔らかいから、王妃は勝てない。

国王は短く頷いた。

「……頼む」

“頼む”。

それを聞いた瞬間、アドリアンの胸の奥が冷えた。
兄は頼めるのだ。セレスには。
妃には頼まない。頼めない。
頼むという言葉が、距離を示す。

宰相の微笑がさらに整う。
“予定通り”の整い。

アドリアンは礼を深くし、部屋を出た。
扉が閉まる音が、どこかで妃の扉も閉まる音に聞こえた。



同じ夜。
リーシャは私室で、白い手袋の指先を揃えていた。
今日も食事は一人。回廊も最低限。
それでも息が詰まるのは、護衛が増えているからだ。

「王妃陛下」

アグネスが声を落とす。

「本日より護衛が増えます。窓下にも、扉の前にも」

「……陛下の命令?」

リーシャは平坦に問う。
平坦にしないと崩れる。

「はい。陛下の御意志です」

御意志。
その言い方が、胸を刺す。

(守るなら、話してほしい)

でも国王は言葉をくれない。
くれるのは命令だけ。沈黙だけ。
そして、隣にいる幼馴染だけが、国王の温度を知っている。

リーシャは窓の外を見た。
白薔薇が闇の中で淡く浮かぶ。

(私は、もう信用しない)

そう誓ったはずなのに、胸が痛い。
痛いのは、まだどこかで信じたがっているからだ。

扉が控えめに叩かれた。

「王妃陛下。王弟殿下がお越しです」

リーシャは一拍置いてから答えた。

「通して」

アドリアンが入る。
距離を保ち、触れず、声を落とす。

「王妃陛下。禁域で不審な動きがあります。
今夜、護衛が増えるのは……それが理由かもしれません」

リーシャの胸の奥がひやりとする。

「……なぜ、陛下は私に言わないの」

言ってしまった。
言った瞬間、悔しさがこみ上げる。
期待するな。期待は毒。
でも言わずにいられなかった。

アドリアンは一拍置いて答える。

「兄上は……守るほど言葉を失う人です」

その言葉は慰めの形をしている。
けれどリーシャの胸には、慰めにならなかった。

守るなら話してほしい。
守るなら隣にいてほしい。
守るなら、せめて嘘でも手を取ってほしい。

でも現実は、護衛と監視が増えるだけ。
扉は閉じたまま。
そして国王の隣は、セレスで固められていく。

リーシャは静かに言った。

「私は、私の身は私で守る」

アドリアンの目が僅かに揺れた。

「……だから、あなたの選んだ同行は正しい。
明日からも、必要なら私が――」

リーシャは微笑んだ。
その微笑はもう、甘さを持たない。

「守るのは、あなたの役目じゃないわ。
……でも、共に歩くのは、私が選ぶ」

選ぶ。
王妃が、初めて自分の足で選ぶ。

アドリアンは深く礼をした。

「承知しました」

その夜、護衛の灯りは増えた。
巡回の足音は増えた。
そして――遠い回廊で、整った足音が通り過ぎる。

国王の足音。

止まらない。
迷わない。
王妃の扉の前では。

リーシャは目を閉じ、胸の内で決めた。

(この城は、私を守らない)

守らないなら、戻らない。
信じないなら、壊れない。

その決意の向こうで、禁域の闇が、静かに動いていた。
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