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第22章|白薔薇の香、第二の現場
白薔薇の香は、もう花ではなかった。
王妃リーシャの“印”にされ、王宮が勝手に飾り、勝手に罪へ変える匂い。
二度目に嗅いだ瞬間、リーシャの胸は迷わず結論へ落ちた。
(冤罪だ)
偶然ではない。
偶然にできる濃さではない。
偶然に残る場所ではない。
――わたしを罪にするために、誰かが香りを運んでいる。
離宮の薬庫は、湿り気を含んだ冷たさがあった。
薬草の束、小瓶、乾いた紙の匂い。そこへ白薔薇の香が混ざると、空気が一気に“物語”になる。
「またです! 倒れたのです、今度は薬師が!」
侍女の声が上ずり、足音が増える。足音が増えるほど噂は育つ。
リーシャはアグネスと共に現場へ向かった。
行かなければ「逃げた妃」。
行けば「関わった妃」。
どちらでも罪なら、せめて人を助ける罪を選ぶ。
扉の前で、すでに香りが濃かった。
白薔薇の香油。甘さのない冷たい香が、薬庫の空気に張り付いている。
白い手袋の中で指先が冷えた。
冷えたのは寒さではない。
“また来た”という確信だ。
薬庫の中には若い薬師が寝台に寝かされていた。
顔色は青白く、唇は乾き、呼吸が浅い。侍医エレナが脈を取り、短く指示を飛ばしている。
「水はだめ。吐かせて。舌の色を見せて」
リーシャは寝台の側に立ち、薬師の指先に視線を落とした。
わずかに痙攣している。生きている。まだ生きている。
「助かるの」
声は静かに出た。
静かでないと、動揺が“証拠”になる。
エレナは頷いた。
「間に合います。……ですが原因は同じです」
同じ。
白薔薇の香。
リーシャの胸に冷たい火が灯る。
「香油が使われたのね」
エレナは声を落とした。
「衣服の内側に、ほんの少量。香りで隠せます。毒の匂いを――」
隠す。香りで隠す。
つまり狙いは毒そのものより、“香り”だ。
――王妃の印を、罪にするため。
背後でざわめきが膨らむ。
貴婦人たちの扇が上がり、侍女たちが目を逸らす。視線がリーシャに刺さり、すぐ“結論”を作り始める。
「また王妃の香」
「施しの帳簿の次はこれ?」
「陛下もお困りでしょうね」
リーシャは微笑を作った。
鎧がないと、この視線に貫かれる。
そのとき、回廊の外が静まった。
静まるのは権力が来た合図。
国王レオニス。
黒い礼装が扉の影を落とす。
その影が薬庫の床へ伸び、白薔薇の香を踏む。
国王は一歩入り、倒れた薬師を見た。
次に空気を嗅ぐように、わずかに眉を寄せる。
(気づいた)
香りに気づいた。
そして――誰の香りかも気づいた。
国王の視線がリーシャへ落ちる。
冷たい目。けれどその底に焼けた色がある。
怒り。
不安。
そして、奪われる恐怖。
リーシャは礼をした。
「陛下」
国王の声が低く落ちる。
「……またか」
“また”
たった二文字が、責める刃になる。
国王は続けた。
「お前は、どこへ行っても問題を連れてくる」
問題。
責めの言葉。
リーシャの胸の奥で、何かが静かに折れた。
怒りではない。
“説明すれば分かってくれるかもしれない”という、淡い期待だ。
(……もう、説明しない)
説明は届かない。
届かない場所に、私はずっと立たされている。
それでもリーシャは、微笑のまま言った。
「私は問題を望んでおりません」
冷静さが、逆に国王の苛立ちを煽った。
「望まない? ならなぜ同じ香が残る」
リーシャは息を吸い、言葉を選ばずに言う。
「……香油が盗まれています」
言い切った瞬間、空気が変わった。
犯人がいる。つまり王妃は被害者にもなれる。
――けれど国王の目は、被害者を見る目にはならない。
「管理はどうなっている」
管理。責任。
言葉がすぐに王妃の罪へ戻る。
リーシャは胸の奥で苦く笑った。
戻される。必ず戻される。
そして、扉の外の気配に気づく。
一歩も入らず、空気の端が硬くなる。
アドリアン。
王命で近づけない距離。
それでも“いる”と分かるだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。
国王の視線が一瞬、扉の外へ飛ぶ。
そこで嫉妬の火が跳ねた。
「……余計な者が嗅ぎつける前に片付けろ」
余計な者。
その言葉の行き先が、弟だと分かる。
(わたしは、守られてはいけないの?)
守られるだけで罪になるなら、王妃はどう生きればいいのだろう。
エレナが口を開く。
「陛下、まず解毒を。原因は香油だけでは――」
「分かっている」
国王は短く遮る。
真実より結論を急いでいるように見えた。
リーシャの胸が沈む。
(陛下は、わたしを疑っている)
疑っているから“片付けたい”。
片付けたいから“話し合わない”。
話し合わないから“沈黙が増える”。
沈黙が増えるほど、宰相が勝つ。
リーシャは静かに言った。
「陛下。わたしは――この香りで誰かが倒れるのを望んでいません」
本当は「わたしではない」と言いたかった。
でも言わない。
言えば弱さになる。弱さは罪になる。
国王の瞳がほんの一瞬揺れた。
怒りではない。
不安に近い揺れ。
(怖いのね)
妃を失うことが。
妃が誰かに奪われることが。
だから冷たくなる。だから遠ざける。
でも遠ざけられる側は、ただ凍える。
国王は視線を逸らし、硬い声で言った。
「今後、勝手に動くな」
またその言葉。
勝手。
動けば罪。動かなければ無能。どちらでも罪。
リーシャは微笑を崩さず答えた。
「承知しました。王妃として慎みます」
慎みは沈黙を呼ぶ。沈黙は誤解を呼ぶ。
――それでも、もう抵抗する気力が残っていなかった。
国王は踵を返した。
去り際、扉の外へ視線を飛ばし、短く言う。
「……王弟は下がらせろ」
命令。
嫉妬を隠した命令。
扉の外で、足音が一つ遠ざかった。
命令に従って去る足音。
守りたいのに守れない足音。
リーシャは、その音だけを頼りに呼吸を整えた。
泣けば負ける。泣かない。泣かない。
薬師の解毒が始まり、人だかりが散らされる。
リーシャは薬庫を出た。
回廊は冷たく、灯りは白い。
角を曲がった先で、足が止まった。
国王レオニスが立っている。
――そして、その隣にセレスがいる。
セレスは国王の袖に手を添え、声を落として囁いた。
「陛下、あまり強くお叱りにならないで。王妃様は……」
“王妃様は”
その言葉が出るのに、リーシャには届かない。
国王は短く吐き捨てるように言う。
「……厄介だ」
その厄介が、事件のことなのか、妃のことなのか。
リーシャには区別がつかなかった。
区別できないほど、国王の言葉は残酷に曖昧だった。
セレスが軽く笑った。
笑いは小さく、幼馴染だけが許される近さで。
「昔から、陛下は不器用ですもの」
昔から。
またその“歴史”。
その歴史の内側に、リーシャはいない。
国王が、セレスにだけ――ほんの少し声の温度を下げて答える。
「……分かっている」
その温度が、見せつけに見える。
見せつけだと感じた瞬間、リーシャの中で最後の糸が切れた。
(……もう、戻らない)
信じたい気持ちが、音もなく死んだ。
リーシャは微笑を作った。
王妃の微笑。
誰にも折れた音を聞かせない微笑。
そして、踵を返して歩き出す。
振り向かない。
振り向けばまた、期待してしまうから。
白薔薇の香が微かに漂った。
それはもう花の香ではない。
リーシャを罪にする合図であり、
リーシャを王から遠ざける合図であり、
――リーシャが“弟と共に生きる”未来へ向かう合図だった。
王妃リーシャの“印”にされ、王宮が勝手に飾り、勝手に罪へ変える匂い。
二度目に嗅いだ瞬間、リーシャの胸は迷わず結論へ落ちた。
(冤罪だ)
偶然ではない。
偶然にできる濃さではない。
偶然に残る場所ではない。
――わたしを罪にするために、誰かが香りを運んでいる。
離宮の薬庫は、湿り気を含んだ冷たさがあった。
薬草の束、小瓶、乾いた紙の匂い。そこへ白薔薇の香が混ざると、空気が一気に“物語”になる。
「またです! 倒れたのです、今度は薬師が!」
侍女の声が上ずり、足音が増える。足音が増えるほど噂は育つ。
リーシャはアグネスと共に現場へ向かった。
行かなければ「逃げた妃」。
行けば「関わった妃」。
どちらでも罪なら、せめて人を助ける罪を選ぶ。
扉の前で、すでに香りが濃かった。
白薔薇の香油。甘さのない冷たい香が、薬庫の空気に張り付いている。
白い手袋の中で指先が冷えた。
冷えたのは寒さではない。
“また来た”という確信だ。
薬庫の中には若い薬師が寝台に寝かされていた。
顔色は青白く、唇は乾き、呼吸が浅い。侍医エレナが脈を取り、短く指示を飛ばしている。
「水はだめ。吐かせて。舌の色を見せて」
リーシャは寝台の側に立ち、薬師の指先に視線を落とした。
わずかに痙攣している。生きている。まだ生きている。
「助かるの」
声は静かに出た。
静かでないと、動揺が“証拠”になる。
エレナは頷いた。
「間に合います。……ですが原因は同じです」
同じ。
白薔薇の香。
リーシャの胸に冷たい火が灯る。
「香油が使われたのね」
エレナは声を落とした。
「衣服の内側に、ほんの少量。香りで隠せます。毒の匂いを――」
隠す。香りで隠す。
つまり狙いは毒そのものより、“香り”だ。
――王妃の印を、罪にするため。
背後でざわめきが膨らむ。
貴婦人たちの扇が上がり、侍女たちが目を逸らす。視線がリーシャに刺さり、すぐ“結論”を作り始める。
「また王妃の香」
「施しの帳簿の次はこれ?」
「陛下もお困りでしょうね」
リーシャは微笑を作った。
鎧がないと、この視線に貫かれる。
そのとき、回廊の外が静まった。
静まるのは権力が来た合図。
国王レオニス。
黒い礼装が扉の影を落とす。
その影が薬庫の床へ伸び、白薔薇の香を踏む。
国王は一歩入り、倒れた薬師を見た。
次に空気を嗅ぐように、わずかに眉を寄せる。
(気づいた)
香りに気づいた。
そして――誰の香りかも気づいた。
国王の視線がリーシャへ落ちる。
冷たい目。けれどその底に焼けた色がある。
怒り。
不安。
そして、奪われる恐怖。
リーシャは礼をした。
「陛下」
国王の声が低く落ちる。
「……またか」
“また”
たった二文字が、責める刃になる。
国王は続けた。
「お前は、どこへ行っても問題を連れてくる」
問題。
責めの言葉。
リーシャの胸の奥で、何かが静かに折れた。
怒りではない。
“説明すれば分かってくれるかもしれない”という、淡い期待だ。
(……もう、説明しない)
説明は届かない。
届かない場所に、私はずっと立たされている。
それでもリーシャは、微笑のまま言った。
「私は問題を望んでおりません」
冷静さが、逆に国王の苛立ちを煽った。
「望まない? ならなぜ同じ香が残る」
リーシャは息を吸い、言葉を選ばずに言う。
「……香油が盗まれています」
言い切った瞬間、空気が変わった。
犯人がいる。つまり王妃は被害者にもなれる。
――けれど国王の目は、被害者を見る目にはならない。
「管理はどうなっている」
管理。責任。
言葉がすぐに王妃の罪へ戻る。
リーシャは胸の奥で苦く笑った。
戻される。必ず戻される。
そして、扉の外の気配に気づく。
一歩も入らず、空気の端が硬くなる。
アドリアン。
王命で近づけない距離。
それでも“いる”と分かるだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。
国王の視線が一瞬、扉の外へ飛ぶ。
そこで嫉妬の火が跳ねた。
「……余計な者が嗅ぎつける前に片付けろ」
余計な者。
その言葉の行き先が、弟だと分かる。
(わたしは、守られてはいけないの?)
守られるだけで罪になるなら、王妃はどう生きればいいのだろう。
エレナが口を開く。
「陛下、まず解毒を。原因は香油だけでは――」
「分かっている」
国王は短く遮る。
真実より結論を急いでいるように見えた。
リーシャの胸が沈む。
(陛下は、わたしを疑っている)
疑っているから“片付けたい”。
片付けたいから“話し合わない”。
話し合わないから“沈黙が増える”。
沈黙が増えるほど、宰相が勝つ。
リーシャは静かに言った。
「陛下。わたしは――この香りで誰かが倒れるのを望んでいません」
本当は「わたしではない」と言いたかった。
でも言わない。
言えば弱さになる。弱さは罪になる。
国王の瞳がほんの一瞬揺れた。
怒りではない。
不安に近い揺れ。
(怖いのね)
妃を失うことが。
妃が誰かに奪われることが。
だから冷たくなる。だから遠ざける。
でも遠ざけられる側は、ただ凍える。
国王は視線を逸らし、硬い声で言った。
「今後、勝手に動くな」
またその言葉。
勝手。
動けば罪。動かなければ無能。どちらでも罪。
リーシャは微笑を崩さず答えた。
「承知しました。王妃として慎みます」
慎みは沈黙を呼ぶ。沈黙は誤解を呼ぶ。
――それでも、もう抵抗する気力が残っていなかった。
国王は踵を返した。
去り際、扉の外へ視線を飛ばし、短く言う。
「……王弟は下がらせろ」
命令。
嫉妬を隠した命令。
扉の外で、足音が一つ遠ざかった。
命令に従って去る足音。
守りたいのに守れない足音。
リーシャは、その音だけを頼りに呼吸を整えた。
泣けば負ける。泣かない。泣かない。
薬師の解毒が始まり、人だかりが散らされる。
リーシャは薬庫を出た。
回廊は冷たく、灯りは白い。
角を曲がった先で、足が止まった。
国王レオニスが立っている。
――そして、その隣にセレスがいる。
セレスは国王の袖に手を添え、声を落として囁いた。
「陛下、あまり強くお叱りにならないで。王妃様は……」
“王妃様は”
その言葉が出るのに、リーシャには届かない。
国王は短く吐き捨てるように言う。
「……厄介だ」
その厄介が、事件のことなのか、妃のことなのか。
リーシャには区別がつかなかった。
区別できないほど、国王の言葉は残酷に曖昧だった。
セレスが軽く笑った。
笑いは小さく、幼馴染だけが許される近さで。
「昔から、陛下は不器用ですもの」
昔から。
またその“歴史”。
その歴史の内側に、リーシャはいない。
国王が、セレスにだけ――ほんの少し声の温度を下げて答える。
「……分かっている」
その温度が、見せつけに見える。
見せつけだと感じた瞬間、リーシャの中で最後の糸が切れた。
(……もう、戻らない)
信じたい気持ちが、音もなく死んだ。
リーシャは微笑を作った。
王妃の微笑。
誰にも折れた音を聞かせない微笑。
そして、踵を返して歩き出す。
振り向かない。
振り向けばまた、期待してしまうから。
白薔薇の香が微かに漂った。
それはもう花の香ではない。
リーシャを罪にする合図であり、
リーシャを王から遠ざける合図であり、
――リーシャが“弟と共に生きる”未来へ向かう合図だった。
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