つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第24章|護衛ロランの距離

王宮の朝は、光があるのに冷たい。
窓から差す冬の陽が回廊の石床を白く磨き、金の縁取りが眩しく光る。眩しさは祝福の形をしているのに、空気の芯はいつも凍っていた。

リーシャは“必要最低限の動線”で歩いていた。
食事は部屋で済ませる。回廊も極力避ける。――国王に出会ってしまうから。
それでも公務は、王妃を逃がしてくれない。今日は離宮の施し倉の視察がある。監査官が入り、数字が燃え、噂が走る日だ。

先頭に立つのは護衛ロランだった。
黒に近い鎧に、礼儀で固めた距離。近すぎず遠すぎず、視線の矢を切り払える位置にいる。
彼は何も言わない。ただ、王妃の歩幅に合わせる。そこに余計な温度を混ぜない。温度はこの城では罪になるからだ。

角を曲がったとき、突風が回廊を抜けた。
カーテンが大きく揺れ、冷気が一気に流れ込む。リーシャの肩がほんの僅か震えた。

その震えを見て、ロランの手が反射で外套にかかった。

掛けてしまえば、温かい。
掛けてしまえば、噂は“形”を得る。

ロランの指が外套を持ち上げかけ――
そして、止まった。

止めたのは礼儀だ。
護衛が王妃に外套を掛ければ、王宮は即座に“守り”を“恋”に変換する。
守ったつもりで、王妃を殺す。

ロランは悔しそうに口を結び、代わりに言った。

「……暖かい回廊へ移りましょう」

優しさを、距離で渡す。
それが彼の精一杯。

リーシャは微笑を作り、頷いた。

「ええ。そうしましょう」

微笑のまま歩き出す。
歩きながら、胸の奥に小さな熱が灯る。
“守られた”ことが嬉しいのではない。――守ろうとしてくれた人間が、この城にいることが、救いになってしまう。

救いになった瞬間、罪悪感が追いかけてくる。

(私が嬉しい顔をしたら、ロランが噂で殺される)

だから、嬉しくない顔をする。
それもまた、残酷な王宮の作法だった。

回廊の端、視線が集まっているのが分かる。
扇で口元を隠す貴婦人。目だけ笑う令嬢。通り過ぎる侍女の小さな囁き。
視線はリーシャに刺さり、すぐロランへ移り、またリーシャへ戻る。

――近い。
――護衛が。
――王妃に。

噂が芽吹く音がした。

リーシャは背筋を伸ばす。
伸ばせば“余裕の妃”に見える。
伸ばさなければ“動揺の妃”に見える。
どちらでも燃えるなら、王妃として美しく燃えるしかない。



昼前、リーシャは執務棟へ呼ばれた。
それは珍しいことだった。扉はいつも閉じていた。
書状の件を尋ねに行っても開かなかった扉が、今日は“開く予定”として伝えられた。

(何のために呼ぶの)

期待するな。期待は毒。
でも、呼ばれるという事実だけで胸が痛む。痛むのは、まだ信じたがっている証拠だから。

執務室前の回廊で、アドリアンが半歩後ろに止まった。
同行すると決めた日以来、彼は“近づかないまま共にいる”距離を守っている。
その距離が、逆に王宮の噂を燃やす。

「王妃陛下」

アドリアンが低く言う。

「中へは入りません。……必要なら、外で待ちます」

リーシャは微笑を作った。

「ええ。ありがとう」

ありがとうと言った瞬間、胸が痛む。
ありがとうは、温度の言葉だから。

扉が開いた。
中は蝋の匂いとインクの匂い――国の匂いがした。

国王レオニスが机の前に立っていた。
黒い礼装、冷たい目、短い呼吸。
そして、その隣に淡い金が揺れている。

セレス。

黄金の髪。淡い黄金のドレス。
彼女はここでも自然に国王の傍にいた。
“王妃の席”が、今日も最初から空いていない。

リーシャは礼をした。深く、完璧に。
視線は上げない。目を合わせないと決めたからだ。

「陛下」

国王の返事は短い頷きだけ。
言葉がない。
言葉がないのに、隣には温度がある――それがいちばん残酷だ。

宰相グレゴールが穏やかに口を挟んだ。

「王妃陛下。本日の監査について――」

リーシャは聞いた。帳簿の穴の説明。禁域の不穏。護衛増の理由。
理由があるなら、なぜ私は知らされないのか。
その問いが喉元まで来て、飲み込む。飲み込めば、また沈黙に殺される。

だから、今日は飲み込まない。

リーシャはゆっくりと顔を上げた。
――初めて、国王の目を見る。

見るだけで胸が痛い。
痛いのに逸らさない。逸らしたら、また“言えなかった私”に戻る。

「陛下」

国王の瞳が僅かに揺れた。
揺れは怒りか、焦りか、痛みか。
リーシャはもう、見分けようとしない。見分けたら期待してしまう。

「何故、妃に幼馴染を選ばなかったのですか」

空気が止まった。
宰相の微笑が一瞬だけ固まる。
セレスの指先が僅かに強張る。
国王の喉が動き、言葉が出ない。

リーシャは止まらない。止まれば、勇気が崩れる。

「陛下には、セレス様がいらっしゃる。
昔から、隣にいる方がいる。
……それなら最初から“妃”はセレス様で良かったのではありませんか」

セレスが柔らかい声で言いかけた。

「王妃様……」

優しい声。優しい声ほど刃。
リーシャは微笑のまま切る。

「誤解ではありません。私は見てきました。
陛下の声の温度が、セレス様にだけ残ることを」

国王の眉間が僅かに寄った。
苛立ちの奥に、別の色がある。
――焦り。奪われる恐怖。

それでも国王は言わない。
言えない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。

リーシャは、最後の言葉を落とした。
祝福の形をした、離別宣言。

「どうぞ、お二人……末長くお幸せに」

沈黙が落ちる。
沈黙はいつも国王の勝ちだった。
けれど今の沈黙は、リーシャの勝ちでもあった。

――これ以上、心を渡さない。

リーシャは礼をした。深く、完璧に、美しく。

「失礼いたします」

背を向ける。
背を向けた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなることが怖い。軽くなるのは、期待が死んだ証拠だから。

扉の外で、アドリアンが待っていた。
目を合わせない距離。触れない距離。
それでも“味方がいる”という事実だけが、リーシャを支えた。

ロランも少し後ろに立っている。
何も聞かない顔。何も詮索しない目。
その沈黙が、今のリーシャには救いだった。

リーシャは微笑を貼りつけたまま言った。

「……暖かい回廊へ行きましょう」

さっきロランが言った言葉を、今度は自分が言った。
優しさを距離で渡す。距離でしか生きられない自分が、少しだけ嫌になる。

それでも歩く。
王妃の歩幅で。王妃の微笑で。

背中に刺さる視線の熱を感じながらも、振り向かない。

(私はもう、戻らない)

この城で一番残酷なのは、冷たさではない。
“言葉がないこと”だ。

言葉がないなら、信頼は戻らない。
戻らないなら、私の隣は――私が選ぶ。

そして回廊の先で、噂がまた芽吹く音がした。
護衛が近い。王弟が付き添う。王妃は国王に背を向けた。

燃える。
燃えるほど、リーシャの決意は硬くなる。

――二度と、国王の横に立たない。
――国王の手も取らない。

その誓いが、今日からリーシャの生存になる。

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