氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―

柴田はつみ

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第十六章:雪解けの刻(とき)、あるいは凍土の芽吹き

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 嵐が去った後の王宮は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
 王妃の寝室の床に、ギルベルトは力なく膝をついたまま動けずにいる。かつて戦場を駆け、一国の運命を背負ったその肩は、いまや見る影もなく小さく震えていた。

「……もう、いい。エル。お前が私を不快に思うのなら、私はお前の前から消えよう。王妃としての地位も、権力も、すべてお前に譲る。……ただ、生きていてくれれば、それでいい……」

 その声には、覇気も、王の傲慢さも微塵もない。
 ただ、一人の男が愛に敗れ、命を削るように絞り出した告白だけが残っていた。

 エルフレイデは、寝台の端に腰を下ろしたまま、その項を静かに見下ろしていた。

(……勝ったのだわ、私は)

 初夜に突き放された屈辱。
 北塔で孤独に凍えた夜々。
 リヴィアに見せつけられた、仲睦まじい微笑。

 そのすべてへの報復は、今、完遂された。
 目の前の男は、望み通り、絶望の淵で正気を失いかけている。

 ――それでも、胸の奥に広がっていたのは、勝利の凱歌ではなかった。

 それは、深く暗い「空虚」だった。
 彼を壊せば壊すほど、かつて本当に交わしたかった「言葉」が、血を吐くような痛みを伴って甦る。

 ――お前を守りたかった。

 その言葉が嘘ではなかったことを、エルフレイデの明晰な知性は、すでに理解していた。

「……陛下」

 その声から、棘が消えていた。
 彼女はゆっくりと寝台を降り、冷たい石床に膝をつくギルベルトの傍らへ歩み寄る。そして、震える肩にそっと掌を重ねた。

「……え……?」

 縋るようで、なお怯えを滲ませた瞳が、かすかな希望を宿して持ち上がる。

 エルフレイデは、記憶喪失という名の仮面を、自らの手で静かに剥ぎ取った。

「……もう、お芝居はやめましょう。――私も、貴方も」

「……エル……? お前、まさか……」

「ええ。最初から、忘れてなどおりません。貴方が私を傷つけ、遠ざけ、そして……人知れず私を救おうとしていたことも。すべて、覚えています」

 その瞬間、ギルベルトの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
 許されたのではない。
 ――罪のすべてを見透かされた上で、なお彼女は「今」を選んだのだ。

「……なぜだ。なぜ今、明かした。私を殺すなら、そのまま忘れたふりをして、孤独に朽ちさせた方が……お前にとって最上の復讐だったはずだ」

「……ええ、そのつもりでしたわ。貴方を廃人にし、この国を私が支配し、貴方を飼い殺しにする――それが復讐。……でも、ギルベルト」

 彼の頬を伝う涙を、エルフレイデは指先でそっと拭った。
 その指先は、もはや拒絶せず、確かな温もりを求めている。

「貴方の壊れた顔を見ていて、ふと思い出したのです。母の言葉を。
 『心まで跪いてしまえば、女はただの人形になる』――と。
 私は憎しみに執着するあまり、自分を“復讐という名の人形”へと変えていた。……これ以上、私の心を貴方の罪に縛らせるのは、真っ平ですわ」

 それは、彼女なりの、傲慢でありながら崇高な「赦し」だった。

「……私は、貴方を許します。貴方が私に与えた孤独も、あまりにも不器用なその愛も。……だから、貴方も自分を許しなさい。陛下ではなく――ただの、不器用な一人の男として」

「エル……。ああ、エルフレイデ……!」

 ギルベルトは彼女の腰に腕を回し、胸に顔を埋めて、子どものように声を上げて泣いた。
 エルフレイデは、その背をやさしく、一定のリズムで叩き続ける。

(……ああ、温かいわね、ギルベルト)

 憎しみという毒は、涙となって二人の間から流れ落ちていく。
 長く、あまりにも長かった「白い結婚」は、初雪が溶けるように静かに幕を閉じた。

 もはやそこにあるのは、冷え切った静寂ではない。
 凍土の下で春を待ち続けた種が、ようやく芽吹く、その微かで確かな希望の気配だった。

「……ねえ、ギルベルト。――本当にお似合いですわね、私たち。こんなにも遠回りをしなければ、抱き合うことすらできなかったなんて」

 自嘲めいた笑みを浮かべ、エルフレイデは生まれて初めて、自らの意志で、彼の唇に柔らかな口づけを落とした。
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