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35.王子の敗北
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私の目の前にすっと影が差し、ヴォルフの伸ばされた腕は別の手に阻まれていた。シオンだった。今まで黙って成り行きを見守っていた彼がヴォルフに立ちはだかった。
「……邪魔だ、クレイヴァーン伯。これは我が都の内政問題だ。貴様が口を挟むことではない!」
「彼女に触れないでください」
シオンの瞳は張り詰めた弓のように、底知れぬ怒りを湛えている。ヴォルフが怯んだ隙に私は一歩下がり、彼らから距離を取った。
ヴォルフの言いなりになるつもりなど一切ない。私の居場所はここ。この温かい人々のいるアトランシア。私を守ろうと盾になってくれるミランダさんや街の人達、伯爵に胸がいっぱいになる。内心で強く感謝しながら、改めてヴォルフを真っ直ぐに見据えた。
「殿下、お引き取りください。何度言われようと私の答えは変わりません。この手はアトランシアの民と共に希望を掴むためにあるのです。あなたに無理やり引かれていくためにあるのではありません」
ヴォルフはぐっと唇を噛み締めた。彼はシオンの手を振り払うと、嘲るような笑みを浮かべた。
「希望だと? 所詮は追放された身。この男に庇護されて、都合のいい夢を見ているだけだろう。ルティア、お前は元々俺の婚約者だったのだ。俺の元へ戻るのが筋だ!」
その独善的な言葉が店内の空気をさらに険悪にさせた。その時だった。今まで感情を抑制していたはずのシオンがはっきりと口を開いた。
「彼女は誰の所有物でもありません」
「何だと……?」
「彼女以外にこの街の市長はいません。それはこの街の民の総意です。貴殿に彼女を連れ去る権利など、どこにもない。力を乞うのであれば頭を下げ、敬意を払うのが筋道です。王子という身分が道理を捻じ曲げる免罪符になるとでも思っているのですか」
そうきっぱり言うと店中の誰もがシオンに賛同し、ヴォルフを糾弾した。「伯爵の言う通りだ!」「そうだそうだ!」「王子だからって何でも許されると思うなよ!」
ヴォルフは四方から突き刺さる視線と非難の言葉に為す術もなく立ち尽くす。ルティアが静かに一歩前に出た。
「もし本当に王都を救いたいと願うのであれば正式な使者として、アトランシアの代表である私と向き合ってください。今のあなたとは何の話し合いもできません」
それは拒絶であり最後通牒。同時に、彼女が対等な交渉相手としてならば席に着く用意があるという統治者としての自負を示す言葉。
反論しようと開いた口からは乾いた息が漏れるだけ。どんな言葉を紡いだところで、それは空虚な自己弁護にしかならないことを悟ってしまったから。ここにいる誰もが、その希望をルティアという存在に見出し団結している。力で、身分で彼女を縛ろうとした己の浅はかさがどうしようもなく愚かに思えた。
――――過ちを認めざるを得ない惨めな敗北。
ヴォルフの全身から力が抜け落ちたようだった。肩が下がり、瞳が足元の床へと落とされた。ガラガラと何かが崩れ去る音が聞こえた気がした。
しばらく押し黙った後、彼は顔を上げ、私とシオンを……民衆の姿をもう一度見渡した。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……俺が間違っていた。君の成し遂げたことを正当に評価もせず、ただ己の都合で連れ戻そうとした。市長、そしてアトランシアの民に心から謝罪する」
絞り出すような声だった。彼は顔を上げると悔しさと自責の念が入り混じった複雑な表情でルティアを見つめた。
「必ず、改めて……正式な形で君に助力を請いに来る。その時まで待っていては……もらえないだろうか」
ルティアは何も答えず、ただ静かに彼を見つめ返す。それが今の答えだと悟ったのか、ヴォルフは「失礼した」と短く告げると背を向けた。市民たちが作る道を彼は来た時とは比べ物にならないほど小さな背中を見せながら、一人静かに去っていった。
「……邪魔だ、クレイヴァーン伯。これは我が都の内政問題だ。貴様が口を挟むことではない!」
「彼女に触れないでください」
シオンの瞳は張り詰めた弓のように、底知れぬ怒りを湛えている。ヴォルフが怯んだ隙に私は一歩下がり、彼らから距離を取った。
ヴォルフの言いなりになるつもりなど一切ない。私の居場所はここ。この温かい人々のいるアトランシア。私を守ろうと盾になってくれるミランダさんや街の人達、伯爵に胸がいっぱいになる。内心で強く感謝しながら、改めてヴォルフを真っ直ぐに見据えた。
「殿下、お引き取りください。何度言われようと私の答えは変わりません。この手はアトランシアの民と共に希望を掴むためにあるのです。あなたに無理やり引かれていくためにあるのではありません」
ヴォルフはぐっと唇を噛み締めた。彼はシオンの手を振り払うと、嘲るような笑みを浮かべた。
「希望だと? 所詮は追放された身。この男に庇護されて、都合のいい夢を見ているだけだろう。ルティア、お前は元々俺の婚約者だったのだ。俺の元へ戻るのが筋だ!」
その独善的な言葉が店内の空気をさらに険悪にさせた。その時だった。今まで感情を抑制していたはずのシオンがはっきりと口を開いた。
「彼女は誰の所有物でもありません」
「何だと……?」
「彼女以外にこの街の市長はいません。それはこの街の民の総意です。貴殿に彼女を連れ去る権利など、どこにもない。力を乞うのであれば頭を下げ、敬意を払うのが筋道です。王子という身分が道理を捻じ曲げる免罪符になるとでも思っているのですか」
そうきっぱり言うと店中の誰もがシオンに賛同し、ヴォルフを糾弾した。「伯爵の言う通りだ!」「そうだそうだ!」「王子だからって何でも許されると思うなよ!」
ヴォルフは四方から突き刺さる視線と非難の言葉に為す術もなく立ち尽くす。ルティアが静かに一歩前に出た。
「もし本当に王都を救いたいと願うのであれば正式な使者として、アトランシアの代表である私と向き合ってください。今のあなたとは何の話し合いもできません」
それは拒絶であり最後通牒。同時に、彼女が対等な交渉相手としてならば席に着く用意があるという統治者としての自負を示す言葉。
反論しようと開いた口からは乾いた息が漏れるだけ。どんな言葉を紡いだところで、それは空虚な自己弁護にしかならないことを悟ってしまったから。ここにいる誰もが、その希望をルティアという存在に見出し団結している。力で、身分で彼女を縛ろうとした己の浅はかさがどうしようもなく愚かに思えた。
――――過ちを認めざるを得ない惨めな敗北。
ヴォルフの全身から力が抜け落ちたようだった。肩が下がり、瞳が足元の床へと落とされた。ガラガラと何かが崩れ去る音が聞こえた気がした。
しばらく押し黙った後、彼は顔を上げ、私とシオンを……民衆の姿をもう一度見渡した。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……俺が間違っていた。君の成し遂げたことを正当に評価もせず、ただ己の都合で連れ戻そうとした。市長、そしてアトランシアの民に心から謝罪する」
絞り出すような声だった。彼は顔を上げると悔しさと自責の念が入り混じった複雑な表情でルティアを見つめた。
「必ず、改めて……正式な形で君に助力を請いに来る。その時まで待っていては……もらえないだろうか」
ルティアは何も答えず、ただ静かに彼を見つめ返す。それが今の答えだと悟ったのか、ヴォルフは「失礼した」と短く告げると背を向けた。市民たちが作る道を彼は来た時とは比べ物にならないほど小さな背中を見せながら、一人静かに去っていった。
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