51 / 86
第6章 千尋の元カレ
③
しおりを挟む
「律さん……ごめんね。疲れてるのに夕食まで……」
私は慌てて靴を脱ぎ、急いで着替えてエプロンを手に取る。
「いいんだよ。今日は早く帰れたから、たまには俺がやろうかなって思って。」
振り返った律さんは、いつもの優しい笑顔だった。
その笑顔が、今日の疲れをふわっと溶かしてくれる。
手を洗いながら、ふと胸の奥から込み上げてきた疑問が口を突いた。
「……律さんは、もし私が“神楽木フォールディングスを捨てて”って言ったら、捨てられる?」
律さんは手を止めた。
そして、ゆっくりとフライパンを置いて、私の方を見た。
「何、それ。随分と難しい質問するね。」
でも、笑ってはいなかった。
「たとえば……政略も、跡継ぎも、全部やめて。普通の人として、私だけを選んでくれるかって聞いてるの。」
自分でも驚くほど真剣な声だった。
律さんはしばらく黙ったまま、私の前まで来て、そっと私の頬に触れた。
律さんが、私の頬にそっと触れた。
「全部は捨てられない。でも――」
その声はとても静かだったけれど、胸の奥に響いた。
「それで千尋を捨てたりしない。たぶん……俺なりの“共存”の仕方を選ぶと思う。」
――共存。
その言葉に、張り詰めていたものが一気に崩れていくのが分かった。
「……ううっ……」
こらえきれず、声を漏らしてしまった。
涙が頬を伝い落ちる。
共存の道。
本当は、あの時、悠太ともそれができたのかもしれない。
でも彼は、私に問うこともせずに、自分一人で結論を出してしまった。
私の意志を聞くこともなく――
「千尋……」
律さんが私を、力強く抱きしめてくれる。
その胸に、私は顔をうずめた。
あたたかい。
やさしい。
迷わず、私を守ろうとしてくれる腕の中。
その時、律さんが腕を伸ばして、コンロの火を静かに消した。
「晩ごはんは、後でいいよ。千尋の涙、乾くまで、ずっとこうしてる。」
囁くような声に、胸がじんわりと熱くなった。
「今日……元カレと会ったの。」
食後のテーブル。静かな空間に、私の言葉がぽつりと落ちた。
「……ああ、長く付き合っていたっていう?」
律さんが箸を置いて、私の目を見た。私は、うつむいたまま話し出した。
「彼……ロンドンに行ってたって。そして言われたの。『おまえは、仕事も家族も捨てて俺を選ばなかった』って。」
胸の奥がちくりと痛んだ。
あの言葉が、心に爪を立てる。
「……10年も付き合った相手に、そんな風に思われてたなんて……私、そんな女?」
そう言いながら、涙がポロポロと頬を伝った。
「そんな冷たい女だって、ずっと思われてたのかな……」
恥ずかしいくらい、情けなくて。悔しくて。
でも何よりも、自分の価値が、ぐらぐらと崩れていくような気がして。
その時だった。
律さんが、私の涙をそっと指で拭った。
私は慌てて靴を脱ぎ、急いで着替えてエプロンを手に取る。
「いいんだよ。今日は早く帰れたから、たまには俺がやろうかなって思って。」
振り返った律さんは、いつもの優しい笑顔だった。
その笑顔が、今日の疲れをふわっと溶かしてくれる。
手を洗いながら、ふと胸の奥から込み上げてきた疑問が口を突いた。
「……律さんは、もし私が“神楽木フォールディングスを捨てて”って言ったら、捨てられる?」
律さんは手を止めた。
そして、ゆっくりとフライパンを置いて、私の方を見た。
「何、それ。随分と難しい質問するね。」
でも、笑ってはいなかった。
「たとえば……政略も、跡継ぎも、全部やめて。普通の人として、私だけを選んでくれるかって聞いてるの。」
自分でも驚くほど真剣な声だった。
律さんはしばらく黙ったまま、私の前まで来て、そっと私の頬に触れた。
律さんが、私の頬にそっと触れた。
「全部は捨てられない。でも――」
その声はとても静かだったけれど、胸の奥に響いた。
「それで千尋を捨てたりしない。たぶん……俺なりの“共存”の仕方を選ぶと思う。」
――共存。
その言葉に、張り詰めていたものが一気に崩れていくのが分かった。
「……ううっ……」
こらえきれず、声を漏らしてしまった。
涙が頬を伝い落ちる。
共存の道。
本当は、あの時、悠太ともそれができたのかもしれない。
でも彼は、私に問うこともせずに、自分一人で結論を出してしまった。
私の意志を聞くこともなく――
「千尋……」
律さんが私を、力強く抱きしめてくれる。
その胸に、私は顔をうずめた。
あたたかい。
やさしい。
迷わず、私を守ろうとしてくれる腕の中。
その時、律さんが腕を伸ばして、コンロの火を静かに消した。
「晩ごはんは、後でいいよ。千尋の涙、乾くまで、ずっとこうしてる。」
囁くような声に、胸がじんわりと熱くなった。
「今日……元カレと会ったの。」
食後のテーブル。静かな空間に、私の言葉がぽつりと落ちた。
「……ああ、長く付き合っていたっていう?」
律さんが箸を置いて、私の目を見た。私は、うつむいたまま話し出した。
「彼……ロンドンに行ってたって。そして言われたの。『おまえは、仕事も家族も捨てて俺を選ばなかった』って。」
胸の奥がちくりと痛んだ。
あの言葉が、心に爪を立てる。
「……10年も付き合った相手に、そんな風に思われてたなんて……私、そんな女?」
そう言いながら、涙がポロポロと頬を伝った。
「そんな冷たい女だって、ずっと思われてたのかな……」
恥ずかしいくらい、情けなくて。悔しくて。
でも何よりも、自分の価値が、ぐらぐらと崩れていくような気がして。
その時だった。
律さんが、私の涙をそっと指で拭った。
1
あなたにおすすめの小説
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
龍の腕に咲く華
沙夜
恋愛
どうして私ばかり、いつも変な人に絡まれるんだろう。
そんな毎日から抜け出したくて貼った、たった一枚のタトゥーシール。それが、本物の獣を呼び寄せてしまった。
彼の名前は、檜山湊。極道の若頭。
恐怖から始まったのは、200万円の借金のカタとして課せられた「添い寝」という奇妙な契約。
支配的なのに、時折見せる不器用な優しさ。恐怖と安らぎの間で揺れ動く心。これはただの気まぐれか、それとも――。
一度は逃げ出したはずの豪華な鳥籠へ、なぜ私は再び戻ろうとするのか。
偽りの強さを捨てた少女が、自らの意志で愛に生きる覚悟を決めるまでの、危険で甘いラブストーリー。
Catch hold of your Love
天野斜己
恋愛
入社してからずっと片思いしていた男性(ひと)には、彼にお似合いの婚約者がいらっしゃる。あたしもそろそろ不毛な片思いから卒業して、親戚のオバサマの勧めるお見合いなんぞしてみようかな、うん、そうしよう。
決心して、お見合いに臨もうとしていた矢先。
当の上司から、よりにもよって職場で押し倒された。
なぜだ!?
あの美しいオジョーサマは、どーするの!?
※2016年01月08日 完結済。
私の赤い糸はもう見えない
沙夜
恋愛
私には、人の「好き」という感情が“糸”として見える。
けれど、その力は祝福ではなかった。気まぐれに生まれたり消えたりする糸は、人の心の不確かさを見せつける呪いにも似ていた。
人を信じることを諦めた大学生活。そんな私の前に現れた、数えきれないほどの糸を纏う人気者の彼。彼と私を繋いだ一本の糸は、確かに「本物」に見えたのに……私はその糸を、自ら手放してしまう。
もう一度巡り会った時、私にはもう、赤い糸は見えなかった。
“確証”がない世界で、私は初めて、自分の心で恋をする。
社内恋愛の絶対条件!"溺愛は退勤時間が過ぎてから"
桜井 響華
恋愛
派遣受付嬢をしている胡桃沢 和奏は、副社長専属秘書である相良 大貴に一目惚れをして勢い余って告白してしまうが、冷たくあしらわれる。諦めモードで日々過ごしていたが、チャンス到来───!?
お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜
Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。
渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!?
合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡――
だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。
「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき……
《エブリスタ、ムーンにも投稿しています》
Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~
汐埼ゆたか
恋愛
絶え間なく溢れ出る涙は彼の唇に吸い取られ
慟哭だけが薄暗い部屋に沈んでいく。
その夜、彼女の絶望と悲しみをすくい取ったのは
仕事上でしか接点のない上司だった。
思っていることを口にするのが苦手
地味で大人しい司書
木ノ下 千紗子 (きのした ちさこ) (24)
×
真面目で優しい千紗子の上司
知的で容姿端麗な課長
雨宮 一彰 (あまみや かずあき) (29)
胸を締め付ける切ない想いを
抱えているのはいったいどちらなのか———
「叫んでも暴れてもいい、全部受け止めるから」
「君が笑っていられるなら、自分の気持ちなんてどうでもいい」
「その可愛い笑顔が戻るなら、俺は何でも出来そうだよ」
真摯でひたむきな愛が、傷付いた心を癒していく。
**********
►Attention
※他サイトからの転載(2018/11に書き上げたものです)
※表紙は「かんたん表紙メーカー2」様で作りました。
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる