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第二章
08 心の底から気持ち悪い
しおりを挟む非常に、居心地が悪い。
真正面から向けられる視線を感じながら、箸で摘まんだ出汁巻き卵を口に運んでいく。だが、緊張で身体が強張っていたせいか、口に入れる前に出汁巻き卵の上に乗せていた大根おろしがべちゃりとテーブルに落ちた。
保が、あ、と声をあげるのと、綺麗に畳まれたおしぼりで大根おろしが拭き取られるのは同時だった。視線を正面に向けると、片手におしぼりを持った藍人が保を見返して、にこりと微笑んだ。
「すいません、拭いてもらって」
「ううん、全然。ここの料理は美味しいから、たくさん食べて」
軽やかに言葉を返しながら、藍人が勧めるようにテーブルの上に並んだ料理を掌で示す。
和室のテーブルには、品の良い和食料理が並んでいた。じゃこと大葉が挟まった出汁巻き卵に、松茸の茶碗蒸し、鯛の刺身、様々な野菜や茸の天ぷら、それから他の料理とは雰囲気が異なる大きな唐揚げだ。先ほどメニュー票を見たときに唐揚げはなかったから、事前に店に頼んで作ってもらったのだろうと思う。唐揚げは、保の好物だから。
出汁巻き卵を奥歯の辺りで噛み締めながら、六畳ぐらいの部屋を眺める。保が今来ているのは、半地下にある個室の和食料理屋だ。たぶん価格帯としては、一般家庭がたまの贅沢に訪れるような、安くもなく高すぎもないくらいか。
藍人ならもっと高いところでも予約できるだろうが、保が気を遣いすぎないようにこれぐらいの価格帯の店で抑えてくれているのだろうと思う。とは言っても、保がお金を払わせてもらえたことは一度もないので、結局気は遣うのだが。
こうやって早く仕事が終わった帰りに、藍人に食事に連れて行かれるのも、もう何回目になるだろうか。少なくとも片手の指の回数は超えている気がする。
「保さんとご飯食べに行きたいな」
最初にそう誘われたときは、全力で断った。一介(いっかい)のカメラマンがなぜか俳優に車で送迎されているというだけでも異常事態なのに、二人きりで食事までするなんてもっとおかしなことになる。
だが、首を左右に振る保を見ると、藍人は笑みを深めてこう続けたのだ。
「それじゃあ、僕の家に来る? 僕の家に連れて行かれるのと、二人で食事に行くのと、どちらがいい?」
何だ、その二択。地獄に行くか、奈落に落ちるかを選ばせようとしてるのか? デッドオアアライブどころか、デッドオアデッドじゃん。
頭の中でそうツッコみを入れつつ、保は唇を引き攣らせて「じゃあ、食事で……」と答えるしかなかった。
そうして、定期的に藍人との気詰まりな食事会が開かれることになったのだ。普段自分が行かないような店に連れて行ってもらえるのは有り難いし、美味しい料理が食べれるのも嬉しい。ただ一つ――食事中に、向かい側からじっと見つめられることさえなければ。
外側がカリッと揚がった唐揚げを噛みながら、向けられる視線にボソリと呟く。
「あの、あんまり見られると食べづらいんですが……」
そう言いながら、少しだけ視線をあげる。すると、穏やかな微笑みを浮かべた藍人と目が合った。まるで赤子を見つめる母親のような、慈愛に満ちた眼差しをしている。
保に指摘されて初めて気付いたように、藍人は目をパチリと瞬かせた。
「ごめんね。保さんが食べてるところを見るのが楽しくて」
「楽しい?」
怪訝に問い返すと、藍人はおかしそうに自身の頬を指さした。
「保さん、頬が薄いから食べてるものの形がぷっくり浮き上がるんだよね」
そう指摘されて、顔面が茹(ゆ)だったように熱くなるのを感じた。
「そ、んなの、初めて言われましたけど」
「そう? じゃあ、僕が初めて気付いたんだ」
嬉しいな。と幸せに浸るような声が聞こえて、ますます顔面の熱が上がっていく。
「人のこと見てないで、清水さんも食べてくださいよ」
恥ずかしさを誤魔化すように、テーブルへ視線を落としたまま早口で言う。すると、藍人は駄々をこねる子供みたいな声をあげた。
「そろそろ藍人って呼んで欲しいな」
「清水さん」
「藍人って呼んでくれたら、ご飯を食べたくなる気がするなぁ」
おいこら、こいつ、この野郎、名前で呼ぶまで料理を食べない気か。
顔を顰めたまま、保はテーブルの上を見やった。並んだ料理を眺めるが、どう見ても一人で食べ切れる量ではない。藍人が腹をすかせるのは自業自得だとしても、丁寧に作ってもらった料理を残すのは気が引けた。
保が、ぐぐぐ、と咽喉の奥でうなっていると、軽く頬杖をついた藍人が笑い混じりに続けた。
「二人きりのときだけでいいから」
譲歩のつもりか、そんなことを言う。保は長い逡巡の後、唇をへの字に曲げたままボソッと吐き出した。
「……藍人さん」
口に出した直後、身体の内側がじわりと熱を帯びるのが分かった。心臓がドクッと大きく跳ねて、箸を握る手が小さく震えそうになる。ただ、運命の名前を口に出しただけなのに、たったそれだけで泣きそうなぐらいの幸福感に包まれて、眩暈がした。
動揺を誤魔化すように、顔を埋めるようにして舌触りの良い茶碗蒸しを口の中にかき込む。松茸の芳醇な香りがまったく感じられないくらい、顔面が熱くて堪らなかった。
正面にいる藍人は、なぜか微動だにしていない。どうしたのかと思ってチラッと視線をあげた瞬間、目に入ってきた光景に保は硬直した。
藍人の瞳から、一筋の涙が頬を伝っている。
「ぅわ、ぇ、えっ? なっ、なんで泣いてるんですか?」
上擦った声で訊ねると、藍人はゆっくりと自身の頬を掌で撫でた。濡れた掌を眺めてから、藍人が、あぁ、と気の抜けた声で呟く。
「嬉しかったんだろうね」
「だろうね、って……」
他人事みたいな藍人の言い様に、保は困惑した。藍人が表情を消したまま、ぽつぽつと言葉を続ける。
「名前を呼ばれただけで、心臓の内側から途方もない多幸感が溢れてくる。今までの人生で感じてきた喜びすべてを掻き集めても、今この瞬間の幸せには到底敵わないくらい」
淡々とした口調で言った後、藍人は一瞬だけ顔を歪めた。まずいものでも呑み込んだみたいな、ひどく苦々しい表情だ。
「運命のためなら、他のものは何もいらない。今まで必死に築き上げてきたものすべてを、何の躊躇いもなく捨てられる。そう思える自分が心の底から――気持ち悪い」
それは、藍人の口から初めて零れた本音のように聞こえた。運命を恋しがりながら、同時にどうしようもなく嫌悪しているような複雑な声音だ。その言葉に、保は息を呑んだ。
藍人が瞬くと、また一筋の涙が頬を流れていく、それを見て、保は無意識に自身のポケットに手を突っ込んでいた。少しだけ形が崩れたハンカチを、そのまま藍人に差し出す。高校生の頃から使っている、水色のタオル生地のハンカチだ。
差し出されたハンカチを見て、藍人が驚いたように大きく瞬く。
「今日は使ってないから、たぶん、汚くないと思うんで、どうぞ」
保がたどたどしい口調でそう告げると、藍人ははにかみながらハンカチを受け取った。
「保さんは優しいね」
「いや、目の前で人に泣かれて無視するような奴は、普通いないでしょう」
「それを普通って思ってることが、優しいことなんだよ」
言いながら、藍人がハンカチを自身の鼻先に近付ける。スーッと深く息を吸い込む音が聞こえてきて、保はとっさに大きな声をあげていた。
「犬みたいに嗅ぐんじゃないっ!」
まずい、自分のハンカチを嗅がれた動揺のせいで、完全に失言してる。敬語をかなぐり捨てた上に、イケメン俳優を『犬みたい』と言ってしまった。
両手をテーブルについて膝立ちになっている保を見て、藍人が、ぶはっ、と大きく噴き出す。前のめりになった藍人から、くくく、と小さな笑い声が聞こえてきた。
「あー、なんでこんなに面白いんだろう。保さんと一緒にいると、本当に楽しくてドキドキするなぁ」
「俺は、違う意味でドキドキが止まらない」
ちょこちょこ脅されたり、爆弾発言をかまされたり、今日に至っては突然泣かれて、もう俺のSAN値はゼロだ。TRPGなら、もう正気を失ってゲームオーバーになってるぞ。
保がげんなりと肩を落としていると、藍人は緩く首を傾げて笑った。
「早く、保さんと番(つがい)になりたいな」
ひとりごとみたいに零された台詞に、保は咽喉を強張らせた。保を見据えたまま、藍人が静かな声で続ける。
「早く、僕だけのものにしたい」
保の心臓に染み込ませるような、仄暗い口調だ。
不意に、爪先から生ぬるい液体にゆっくりと沈んでいくような感覚を覚えて、保は慌てて立ち上がった。
「トッ、トイレに、行ってきますっ」
上擦った声でそう言って、足早に個室を出ようとする。だが、その前に片手を掴まれた。
「ハンカチ持っていかないと」
そう言って、藍人が差し出してきたのは紺色のハンカチだった。保のハンカチと違って、キッチリとアイロンがかけられている。
「保さんのハンカチ借りちゃったから、こっちを持っていってくれる?」
促されるままに藍人のハンカチを受け取る。藍人は嬉しげに微笑むと、一度保の胸元にそっと掌を当ててきた。
「気を付けて行ってきて」
店内で迷子になるとでも思われているのだろうか。
子供扱いするような台詞にムッとしつつも、保は曖昧にうなずきを返して個室から出た。
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